ヨハネ20:19ーその日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」
*週の初めの日…第七日目の安息日の翌日、『日曜日』のこと
*夕方のことであった…夕方のことであった夕食を共にするために集まっていたと思われる。彼らはエマオから戻ったばかりのクレオパともうひとりの弟子(おそらくクレオパの妻)がエルサレムに戻って来て、二人から復活の主にお会いしたという証言を聞いたばかりでした。
*弟子たちがいた所…エルサレム
彼らはまだガリラヤには行っていませんでした。
*ユダヤ人たちを恐れて…そりゃ、怖いよね💦
①イエスの弟子であるという理由で、逮捕されそうになった。
③肉体の死を恐れた。
*イエスが来られ…家の中で戸を閉めて恐れている弟子たちのもとに、復活の主が現れてくださいました。戸を閉めてあっても部屋に入って来ることのできるからだでありながら、イエスであるということは弟子たちにわかりました。
*平安があなたがたにあるように…ヘブル語:シャローム・アレヘム
ヨハネ20:20ーこう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。
*その手とわき腹…十字架の釘の痕と槍の傷痕を示され、復活されたことを示されました。
最初は恐れていた弟子たちですが、復活の主を見たとき喜びに変わりました。
私たち人間も肉体の死後、必ず復活する時が来ます。
復活して、千年王国〜永遠の御国に住まうのか、千年王国後に裁きのために復活し、永遠に死ぬことのないからだで消えることのない火の池に住まうのか、その行き先を決めるのは、肉体が生きている間にキリストの福音の三要素を信じるか、否かにかかっています。
ヨハネ20:21ーイエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
*父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします…イエスが父の権威を受けて派遣されたように、イエスは御子の権威を持って弟子たちを派遣されました。
マタイ28:18~20ーイエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
それゆえ、あなたがたがは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」
このとき、この命令をイエスから直接受けたのは、十一使徒たちです。
後にイスカリオテ・ユダの代わりにマッテヤが加わり、また、異邦人への使徒としてパウロが加わりました。
①イエスが使徒たちに権威を授け、ユダヤ人だけでなくあらゆる国の人々をキリストの弟子にするようにと命じられました。(※使徒にするようにとは命じておられません!)
キリストの弟子とするには、福音を伝え、イエスを救い主だと信じる者を起こすということです。
②キリストの福音の三要素を信じる者がでたなら、父・子・聖霊の御名によってバプテスマを授け、
③イエスの命令を守るように教え、導くようにという命令です。
この順番に従う教会が、主に喜ばれる教会です。
ヨハネ20:22ーそして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
*息を吹きかけて〜聖霊を受けなさい…十一弟子だけ一足先に聖霊に内住が起こったのではなく、『みことばを理解させる力を与えられた』の意。
五旬節で聖霊の内住が起こるまでの一時的な御霊の賜物だろうと考えられます。
ヨハネ20:23ーあなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」
*あなたがた…かつて使徒ペテロに与えられた『使徒的権威』が、ほかの十人の使徒たちにも与えられました。
マタイ16:19ーわたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」
ルカ24:45~48ーそこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、
こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。
あなたがたはこれらのことの証人です。」
はたして今、この福音をストレートに語るクリスチャンがどれほどいるでしょうか?
①キリストは十字架で死なれ、
②墓に葬られ、
③三日目に死人の中からよみがえられた。
あなたが福音を語るとき、何か抜けていることはありませんか?