クリスチャンの間でよく言われる『聖書は神様からのラブ♡レター』。
伝道する時にこのフレーズを使ったことがある方、現在進行形で使っている方は多いのではないでしょうか?
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」
確かに聖書は、イザヤ書43:4でこう記していますが、
聖書は、誰宛てのラブ♡レターですか?
「私宛てであり、あなた宛てです」
「誰にでも当てはまります」
「人類全般です」
もしこのように答えるなら、文脈を無視してみことばを理解している可能性があります。
『わたしの初子』『わたしの子ら』と聖書の神が記しているのは、誰のことかを理解しなければ、誰かほかの人に宛てたラブ♡レターを、自分に宛てられたものだと受け止めて、勘違いしているようなものです。
イザヤ書43:1を見ると、
*「ヤコブよ」「イスラエルよ」とイスラエル民族(ユダヤ人たち)に対する呼びかけであることがわかります。
*「わたしはあなたの名を呼んだ」というのも、イスラエルの名のことであり、
イザヤ書43:3の
*「あなた」もイスラエル民族であり、イスラエル民族をエジプトから救い出した神が『イスラエルの聖なる者』であることがわかります。
クリスチャンがよく引用するイザヤ書43:4の
*「あなたを愛している」の「あなた」もイスラエル民族、
*「国民をあなたのいのちの代わりにするのだ」の「国民」が異邦人のことです。
これら聖書の第一義的意味をつかむことなく、すべてを自分自身に当てはめた解釈を得意とするのが『置換神学』です。
そのような聖書の読み方は、イスラエルの民に宛てた神のラブ♡レターを読んで、自分に言われたと勘違いする恋する乙女のようです。(恋は盲目…と言いますから💦)
聖書が記す『わたしの初子』とは、エジプトでヤコブの一族70人が、200万人を超えるイスラエル民族になって、エジプトを出る直前です。
出エジプト記4:22ーそのとき、あなたはパロに言わなければならない。
主はこう仰せられる。『イスラエルはわたしの子、わたしの初子である。』
神はイスラエルの民(ユダヤ人)とエジプト人(異邦人)とを『区別』されました。
それは『アブラハム契約』の約束を実行するためでした。
創世記15:13~16ーそこで、アブラムに仰せがあった。「あなたはこの事をよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。
しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出て来るようになる。
あなた自身は、平安のうちに、あなたの先祖のもとに行き、長寿を全うして葬られよう。
そして、四代目の者たちが、ここに戻って来る。それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。」
*エモリ人…ここでは『カナン人』の総称として『エモリ人』と言われています。
『カナン人』は、ノアの末息子ハムの四男で、ノアから「呪われよ、カナン」と預言された人々です。
*咎…①人からとかめられるような行為。あやまち。
②罰されるべき行ない。罪。
③非難されるような行ない。欠点。きず。※①〜③…三省堂 大辞林 第三版より引用。
ヤコブの子孫たちがエジプトで民族になるまで、彼らはカナンの地で罪に罪を重ねていました。
出エジプト記6:2~8ー神はモーセに告げて仰せられた。「わたしは主である。
わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに、全能の神として現れたが、主という名では、わたしを彼らに知らせなかった。
またわたしは、カナンの地、すなわち彼らがとどまった在住の地を彼らに与えるという契約を彼らに立てた。
今わたしは、エジプトが奴隷としているイスラエル人の嘆きを聞いて、わたしの契約を思い起こした。
それゆえ、イスラエル人に言え。わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出し、労役から救い出す。伸ばした腕と大いなるさばきとによってあなたがたを贖う。
わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。あなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であり、あなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出す者であることを知るようになる。
わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓ったその地に、あなたがたを連れて行き、それをあなたがたの所有として与える。わたしは主である。」
* 主…契約の神、約束を守られる神、の意。
神がイスラエルの民をエジプトの奴隷生活から救い出し、約束の地カナンに導き入れる時に彼らを聖絶するように命じられたのは、カナン人の咎に対する裁きをご自身の民イスラエルを用いて行われるためでした。
申命記7:1~6ーあなたが、入って行って、所有しようとしている地に、あなたの神、主が、あなたを導き入れられるとき、主は、多くの異邦の民、すなわちヘテ人、ギルガシ人、エモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、およびエブス人の、これらあなたよりも数多く、また強い七つの異邦の民を、あなたの前から追い払われる。
あなたの神、主は、彼らをあなたに渡し、あなたがこれを打つとき、あなたは彼らを聖絶しなければならない。彼らと何の契約も結んではならない。容赦してはならない。
また、彼らと互いに縁を結んではならない。あなたの娘を彼の息子に与えてはならない。彼の娘をあなたの息子にめとってはならない。
彼はあなたの息子を私から引き離すであろう。彼らがほかの神々に仕えるなら、主の怒りがあなたがたに向かって燃え上がり、主はあなたをたちどころに根絶やしにしてしまわれる。
むしろ彼らに対して、このようにしなければならない。彼らの祭壇を打ちこわし、石の柱を打ち砕き、彼らのアシェラ像を切り倒し、彼らの彫像を火で焼かなければならない。
あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。
*主の聖なる民…イスラエルの民のこと
*国々の民…異邦人のこと
*ご自分の宝の民とされた…イスラエルの民のこと
このように神は、『イスラエルの民』と『異邦人』とを区別されているということを理解せずに、聖書に書かれた祝福の約束や何でも良いことを教会時代の異邦人信者である自分に当てはめて理解すべきではありません。
何を信じたら救われるのでしょうか?
アベルは、神が定めた方法で羊の初子をいけにえとして捧げた時に、神に受け入れられました。
ヘブル11:4ー信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。
「神の友」と呼ばれたアブラハムは、神に言われた神のことばを信じた時に義とされました。
創世記15:5~6ーそして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」
彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。
ヤコブ2:23ーそして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。
時々「モーセの律法を守ると救われる」という偽りの教えを信じている方がいますが、モーセの律法はエジプトで四百年もの間奴隷生活をしていたイスラエルの民が、神によって奴隷生活から救い出された後に『神にある自由人としての生き方』を命じられたもです。
律法違反をすると神との関係が壊れてしまうので、それを回復するために罪に応じて決められた動物の犠牲をささげました。
しかし、神に対する冒涜罪、偶像崇拝罪、霊媒・魔術を行う罪、安息日違反罪、にせ預言罪、両親に対する不敬罪、姦淫罪、獣姦罪、殺人罪、誘拐罪などは、身代わりとなる動物が定められておらず、罪を犯したその人自身が石打ちの刑に処せられ、いのちをもって償う必要がありました。
モーセの律法は『従順であれば祝福される』ものであって、守ったら救われるというものではありません。申命記28:1~14参照
また、『不従順であればのろわれる』ものであり、不従順を繰り返すなら最終的に神の裁きが来るというものです。申命記28:15~68参照
それによって、イスラエルの民は神に立ち返り、再びモーセの律法に従順に生きようとするという繰り返しでした。
もし、モーセの律法に不従順であったら救いを失うのであれば、出エジプト後のイスラエルの民はエジプトの奴隷生活に引き戻されたはずです。
しかし、彼らは荒野で40年間放浪することにより肉体的に死に絶え、出エジプトを体験した二十歳以上の人々はヨシュアとカレブを除き、約束の地での祝福に与ることはできませんでした。
モーセの律法が有効だった時代(シナイ山での契約締結〜メシアの初臨まで)は、イスラエルの民であっても、異邦人であっても二つのことを信じる必要がありました。
②イスラエルの神が、唯一の救い主であること。
イザヤ書43:10~11ーあなたがたはわたしの証人、--主の御告げ--わたしが選んだわたしのしもべである。これは、あなたがたが知って、わたしを信じ、わたしがその者であることを悟るためだ。わたしより先に造られた神はなく、わたしより後にもない。
わたし、このわたしが、主であって、わたしのほかに救い主はいない。
カナン人の遊女ラハブもモアブ人ルツもその信仰を持っていたために、異邦人でありながらイスラエルの民に加えられ、メシアの系図に名を残しました。
ヨシュア記2:9~11ーその人たちに言った。「主がこの地をあなたがたに与えておられること、私たちはあなたがたのことで恐怖に襲われており、この地の住民もみな、あなたがたのことで震えおののいていることを、私は知っています。
あなたがたがエジプトから出て来られたとき、主があなたがたの前で、葦の海の水をからされたこと、また、あなたがたがヨルダン川の向こう側にいたエモリ人のふたりの王シホンとオグにされたこと、彼らを聖絶したことを、私たちは聞いているからです。
私たちは、それを聞いたとき、あなたがたのために、心がしなえて、もうだれにも、勇気がなくなってしまいました。あなたがたの神、主は、上は天、下は地において神であられるからです。
ルツ記1:16ールツは言った。「あなたを捨て、あなたから別れて帰るように、私にしむけないでください。あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。
イスラエルと異邦人に対する約束の違い
神がアブラハムと結ばれた『アブラハム契約』は、八人いる息子たちの中で約束の子イサクに継承され、イサクの双子の息子のうちヤコブに継承され、イスラエル民族に継承されました。
無条件契約であるため『子孫・土地・祝福』の約束は、現在でも有効の契約です。
神の初子、長子であるイスラエルの民は、それぞれの時代に啓示された神の約束のことばを信じる信仰によって、『子孫・(ユーフラテス川からエジプトの川までの)土地・(霊的)祝福と(物質的)祝福』をメシア的王国において受け継ぐことになります。
一方、1コリント15:3~4を信じる教会時代の異邦人信者は『神の子どもとされる特権』が与えられ、千年王国(メシア的王国)において霊的祝福に与る者となりました。
ヨハネ1:12ーしかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
神は異邦人をもお救いになるご計画をお持ちですが、『神の子どもとされる特権』『接ぎ木された野生のオリーブ』という立ち位置を無視して、神の初子・長子であるイスラエル民族に対する約束を横取りしてはいけません。
もし「聖書は神様からのラブ♡レター💌」というのであれば、イスラエル民族に対して神が言われたイザヤ書43:4ではなく、キリストの初臨以降のイスラエルの民にも、異邦人にも適用できるヨハネ3:16~18を引用すべきでしょう。
ヨハネ3:16~18ー神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。
ヨハネ15:13~14ー人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です。
主イエスは、神の御子でありながら『人の子』として誕生され、ただ一度『神の小羊』としての犠牲を捧げられ、私たちの罪をすべて赦し、きよめてくださいました。
ですから、主イエスの十字架での贖いの死、罪の無いお方としての葬り、聖書に従って三日目に復活されたと信じる私たちは、キリストが十字架で終わらせてくださったモーセの律法に従うのではなく、『キリストが命じること(キリストの律法)』を守り行ない、アブラハムのように『神(イエス)の友』として生きるように努めるべきです。