サザエのお裾分け

聖書を字義通り&文脈に沿って学び、理解したことの中からのお裾分け。内容は鵜呑みにせず、必ずご自分で聖書を開いて確認してくださいね。聖書理解の助けになれば幸いです。† 栄光在主 †

ゲッセマネでの祈りー「杯」の意味

ついに主は十字架につけられました。午後3時まで苦しまれるのです。ゲッセマネの園での祈りで「この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈られた「杯=十字架」と理解されている方って多いんじゃないかな?杯の意味は十字架ではないんですよ〜!

 

 

十字架はイザヤ53章にはっきりと預言され、ご自身でも何度も預言されました。cf ヨハネ2:19、マタイ12:40、16:21、26:2他。そのために主は、人の子の姿で誕生されたのです。(神の御子のままでは死ぬことはないので…^^;)

 

 

それなのに「十字架を過ぎ去らせてください」と祈るのはおかしいでしょ?もしそうなら神の御子が「肉の痛み、苦しみに負ける」ことになり、罪を犯して全人類の罪の贖いは出来なくなってしまいます。

 

 

では、イエスがゲッセネマの園で血の汗を流されるほど、三度も祈られた「この杯を過ぎ去らせてください」の「杯」とは、いったい何のことでしょう?

 

 

ちょっと補足説明をすると、「杯」は旧約聖書では祝福と怒りを表わす比喩的言葉として用いられています。マタイ26:39では「怒りの杯」の意味です。また神殿での罪の贖いのためには、動物の血を流すだけでよかったことから、神の小羊としても血を流すだけでよかったのです。

 

 

エスが血の汗を流しながら、必死で祈った「この杯を過ぎ去らせてください」の「杯」とは「人となって来られた御子イエスだけが、まだ経験したことのないこと」なのです。私たちとの唯一の違い…

 

 

それが「霊的な死」なのです。私たちは生まれながらにアダムから「原罪」と受け継いでいるので、御霊によって新生しなければ「霊的な生」を得ることはできません。しかしイエスは神の子として「原罪」とは関係なく誕生されているので、肉を持って生まれてきても御父との関係は初めからあったのです。

 

 

それを十字架上で経験しなければならなかったので、「杯を過ぎ去らせてください」と必死で祈られたのです。だから4番目の十字架上でのことばが「父よ」ではなく「わが神」と親しい関係から距離感が出ているのです。この時に主イエスは「霊的な死」を経験しました。

 

 

この御父との関係に亀裂が入ることを、主は「杯」として「過ぎ去らせて欲しい」と祈られたわけです。「しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」と謙遜に…従順に…。

 

 

そして、十字架の上で神との断絶を経験されました。その時の主の心の叫びが「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(わが神。わが神。どうして私をお見捨てになったのですか、の意)ということばとなって出たのです。

 

 

これはある意味、主の十字架の贖いを信じずに死んだ人々のハデスでの究極的叫びでもあります。聖書の神を「アバ、父」と呼べない人々の代弁のような叫びなのです。彼らは神との距離感があるので「わが神」と呼ぶのが精一杯なのです。 

 

 

最後、十字架の上で息を引き取られる直前には再び「父よ。」と呼びかけ「わが霊を御手にゆだねます。」と言われていますールカ23:46。この時に、御父との関係に置いて霊的な死から復活されているのです。

 

 

聖書の神を「父」と呼べるのは、御子を信じた者だけの特権です。cf ヨハネ1:12、ガラテヤ4:4~7。このことだけでも私たちクリスチャンが、いかに恵みの中に生かされているかが分かります。

 

 

それを可能にしてくださったのが、受難のしもべとしての御子イエスなのです。このイエス・キリストにすべての栄光がありますように。アーメン。

 

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