旧約聖書の背景、神の結ばれた契約内容を知ってこそ、みことばを深く理解できるのです。これから『牧師・伝道師・宣教師』になろうとする人々には、ぜひ聖書が伝える『監督・長老・執事の資質』を吟味し、教会に使える者になって欲しいと思います。
黙示録に書かれた患難時代後半〜の内容をより深くり理解するためにも、一度「ヘブル的視点の重要性」を確認しておきましょう。
〜ヘブル的視点での聖書解釈の重要性〜
本来『教会』というのはエペソ人への手紙2章にあるように、メシアを信じるユダヤ人と異邦人が、キリストをかしらに新しいひとりの人『キリスト者』として建て上げるものです。
しかし現在の日本の教会にはメシアニックジュー (ユダヤ人信者)は、皆無と言えるほどいません。旧約聖書を熟知している彼らがいて、初めて新約聖書の本来の意味をより深く理解できるようになるのです。
聖書の著者は全員ユダヤ人です。その著者たちと私たち異邦人の間には「三つの隔たり」があると言われています。
①時間的隔たり…歴史的背景の必要性。
②文化的隔たり…当時の習慣、言語理解の必要性。
③地理的隔たり…聖書の地形、気候理解の必要性。
「ヘブル的視点」と言うと難しく感じるかもしれませんが、聖書のみことばを
①字義通り、
②文脈に沿って、
③みことばに付け足したり、差し引くことなくー申命記4:2, 箴言30:6, 黙示録22:18~19、
④私的解釈をせずー2ペテロ1:20、
⑤聞いたことだけを鵜呑みにせず、みことばで確認するー使徒17:11
をすれば、必然と「ヘブル的視点での聖書解釈」になるのです。
そのようなことに注意しながら読んでいけば、自然とキリストの地上再臨は、千年王国の前にあるという理解になります。
しかしみことばを「比喩的解釈する」という立場で読むと、黙示録は象徴的記述が多いので、「千年」を文字通り解釈することは愚かである、ということになってしまうのです。
この「比喩的解釈」説を説いた人物は、歴史上二人です。
①オリゲネス…ギリシャ的背景を持つ異邦人で、字義通りではなく隠された意味を探求し、比喩的解釈を確立した人。
②アウグスティヌス…オリゲネスの解釈を土台に「無千年王国説」を説いた人。千年王国は霊的のみで、キリストの初臨〜再臨の間と考え、「教会時代」とする。したがって、キリストの再臨は、世の終わりだとするものです。
*置換神学は、この立場を取っているようです。
千年王国は黙示録20章にしか出てきません。「千年」という期間も黙示録20章でのみ6回記録されているだけですが、もしこれが比喩的、象徴的に書かれているとするならば、黙示録または聖書の別な箇所に解説があるはずです。
cf 黙示録2:13,16ー星、金の燭台→黙示録2:20に解説あり。
解説がない理由は、字義通りの意味だからです。千年王国は、キリストが統治される王国です。その王国を、新約聖書を読まないユダヤ人も「メシア的王国」として信じているのです。なぜでしょう?
それは、旧約聖書のどこかにその記述があるからです。
*千年王国…異邦人が使う表現。*メシア的王国…ユダヤ人が使う表現。ともに同じ意味です。
キリストの再臨が、世の終わりだとしたらどうやって「メシア的王国」の預言が成就するのでしょう?
このように、文脈を無視してみことばを理解するのではなく、聖書全体を文脈から字義通りに理解すべきです。
そのためにも契約の神が選ばれたイスラエルの民を中心に、神は契約を必ず守られ、事を成就するお方だと信じる信仰に立ってみことばを理解することが重要なのです。
もう一つ例をあげると、マタイ22:23~33です。
表面的には、特に問題なく読めてしまう箇所ですよね。23節で、サドカイ人たちは復活を信じていなかった、と解説もありますし、イエスを試そうとしていることくらい察しがつきます。でもここをヘブル的視点で(時間・文化・地理的隔たりを考慮して)読むとすご〜く深く理解出来るのです。
パリサイ派もサドカイ派もともにユダヤ教ですが、聖書に対する取り組みが違いました。
しかし、神殿仕えの厳粛なサドカイ人たちは、トーラーからのみ教理を出すべきだと考えていました。彼らが重きを置くトーラーには、復活について書かれていないため、彼らは死者の復活を信じなかったのです。
その彼らが「神学的問題を抱えているので教えてほしい」とイエスのもとにやって来たのです。
ここでイエスがしていないことがあります。もし尋ねて来たのがパリサイ人たちだったら、イエスは ダニエル12:2、イザヤ26:19、ヨブ19:25~26を引用して、死者の復活について語っておられたでしょう。しかしこれらはトーラーではないので、サドカイ人たちには通用しないのです。
だからイエスは、マタイ22:32でトーラーの中の創世記から『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』と「生きている者の神です」と【アブラハム契約】の神を引用されたのです。
神はアブラハムに対して子孫繁栄の約束をされました。アブラハムには8人の子どもたちがいましたが、その約束を継承したのがイサクです。
cf「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるからだ」ー創世記21:12。
そしてさらにイサクのの二人の息子のうち、弟のヤコブが約束を継承したのです。
神が誰かと約束されたら、その約束した相手に対して成就するため、その人をよみがえらせるという根底がありますーヘブル11:17~19。
肉的に死んだ人に対する約束はその人をよみがえらせて、成就させる必要があるのですーcf マタイ8:11。
なぜなら、神は約束を守られる真実な方だからです。
旧約聖書、神の契約という背景を持たない異邦人である私たちが、この箇所を理解するには限界があります。旧約聖書という背景を持ち、神の約束の民であるユダヤ人から霊的教えを乞うめぐみは、このように大きいのです。ヘブル的視点に立って初めて理解できることはたくさんあります。
日々のデボーションで、聖書の学びで、どうか みことばを字義通り、文脈に沿って読むクリスチャンが増えますように。神が導いておられる方向、時間的・文化的・地理的隔たりを考慮し、ヘブル的視点で神のご計画を理解する恵みへと、御霊によって導かれますように。アーメン†