「まことに、まことに、あなたがたに告げます。」・・・これから話すことは大事なことだから、耳の穴をよくかっ穿じって聞きなさいよ!の意。
献金について『什一献金』がよく引用されますが、税込みの10%なのか、手取りの10%なのか迷うことありません?
教会では『暗黙の了解』のように什一献金が目安とされ、その理由としてよく引用されるのは、マラキ書3章。
マラキ3:8~10ー人は神のものを盗むことができようか。
ところが、あなたがたは
わたしのものを盗んでいる。
しかも、あなたがたは言う。
『どのようにして、
私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。』
それは、十分の一と奉納物によってである。
あなたがたはのろいを受けている。
あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。
この民全体が盗んでいる。
十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、
わたしの家の食物とせよ。
こうしてわたしをためしてみよ。
ー万軍の主は仰せられる。ー
わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、
あふれるばかりの祝福を
あなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。
『神のものを盗んでいる。』とまで言われてしまうと、何も言い返せなくなってしまいますよね。
什一献金はするように言われるけど、動物のいけにえをするようには言われないし…安息日を守って礼拝するようにとも言われるけど、旧約を学ぶと『安息日=土曜日(厳密には、金曜日の日没から土曜日の日没まで)』だし…モーセの律法のどれに従い、どれに従わなくてもいいのか?その判断基準はどこにあるのか?
…疑問ですよね?!
で、誰かに訊くには(えっ?! そんなことも知らなかったの?)と思われてしまいそうで、なんとなく訊き難いし…
勇気を出して訊いても、納得のいく答えではなく、なんとなくはぐらかされた感がぬぐえなかったり…でしょ?
また場合によっては、「アブラハムも王であり祭司であるメルキゼデクに1/10を捧げてますよ。」と言われるケースもあるようですが、アブラハムが捧げたのは『戦利品』からの1/10でしたから、毎月の給与収入からの1/10ではありませんでした。
ヘブル7:1~2ーこのメルキゼデクは、サレムの王で、すぐれて高い神の祭司でしたが、アブラハムが王たちを打ち破って帰るのを出迎えて祝福しました。
またアブラハムは彼に、すべての戦利品の十分の一を分けました。まず彼は、その名を訳すと義の王であり、次に、サレムの王、すなわち平和の王です。
『什一献金』は、旧約聖書のモーセの律法による規定ですから、現代のクリスチャンである私たちには適用されません。(ロマ6:14)。でも、どうしてもモーセの律法に従いたいと言われる方は、什一献金は収入の10%ではなくて、22.3%になるということを知っておいてくださいね。
その内訳は…
第1の什一として、レビ人を支える為に収穫の10%(民18:21-24、申14:27)。
第2の什一として、主の祭りの為に残りの10%(申12:5-7、10-19、14:22-26)。
第3の什一として、貧しい人の為に3年に一度10%(申14:28&29) の合計22.3%
私たちに適用されるのは、パウロが記した新約聖書の教えによる献金です。
1コリント16:2ー私がそちらに行ってから献金を集めるようなことがないように、あなたがたはおのおの、いつも週の初めの日に、収入に応じて、手もとにそれをたくわえておきなさい。
Ⅱコリント9:5b~7ーどうかこの献金を、惜しみながらするのではなく、好意に満ちた贈り物として用意しておいてください。
私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。
ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。
献金はちゃんと計画的に前もって用意し、個人的なものとして誰に知らせる必要もなく、収入に応じて行なうものです。
これは収入の1/10を献金しなくてもいいということではありません。
神様への愛の表現として、決められた金額でなく、もっと自由で大胆な献金の勧めであるととらえるべきでしょう。
神様に感謝をもって捧げたい!と思われる方は、2/10でも、1/2でも、9/10でも…収入の全額でも捧げていいのです。
旧約聖書の律法に「什一献金が書いてある。」ということで従うのだとしたら、また「安息日には礼拝すべき。」と考えるなら、モーセの律法すべてに従う必要があります。
ヤコブ2:10~11ー律法全体を守っても、一つの点でつまづくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。
なぜなら『姦淫してはならない。」と言われた方は、「殺してはならない。」とも言われたからです。そこで、姦淫しなくても人殺しをすれば、あなたは律法の違反者となったのです。
ガラテヤ3:10ーというのは、律法の行いによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」
モーセの律法は、全部で613ありますよ。すべて従えますか?
…私には無理デス…。
安息日の命令は、エジプトを出たイスラエルの民はもう奴隷ではないので、『仕事を休みなさい。』というものです。
出エジプト記20:8~10ー安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。
しかし七日目は、あなたの神、主の安息です。あなたはどんな仕事もしてはならない。ーあなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も。ー
これはイスラエルに与えられた律法であり、イスラエルにいる奴隷や家畜、在留異邦人にも適応されました。
安息日にも仕事をするように言われているのは、レビ族…それもアロンの家系だけです。(レビ記24:3~8)
それ以外のレビ族および一般の人々は、奴隷として生活していたエジプトを脱したのだから、安息日(金曜日の日没〜土曜日の日没まで)は、『出歩くのをやめ』『仕事を休む日』そして『聖なる会合の日』と定められました。
レビ記23:3ー六日間は仕事をしてもよい。しかし七日目は全き休みの日の安息、聖なる会合の日である。あなたがたは、いっさいの仕事をしてはならない。この日はあなたがたがどこに住んでいても主の安息日である。
『聖なる会合』を開くために、イスラエル各地に『シナゴーグ』が建てられました。私たちが通う『教会』は、このシナゴーグの流れから来ています。
ユダヤ人が神を礼拝するのは、年三回…過越の祭り、初穂の祭り(五旬節)、仮庵の祭りでした。出エジプト記23:14~17
遠方からの場合、全て守ることは物理的に難しかったため、年一度どこかの祭りでエルサレムの神殿に上ってくればよかったのです。
しかし、私たちはアロンの家系でも、レビ族でも、ユダヤ人でもありません。異邦人ですから、律法対象外です。
私たちは、キリストの十字架の贖いにより、アブラハム契約の祝福の条項に入れていただいただけなのです。
『霊的イスラエル』なのではなく、あくまでも信仰により神の子とされた『メシアを信じる異邦人』という立ち位置です。
『安息日に礼拝する』のは、今の教会時代ではなく、後に来る御国の時代=千年王国での命令です。
什一に縛られずに、1コリ16:2、Ⅱ コリ9:5~7、8:12~14に従うべきでしょう。
神様と個々人の関係において、自由に捧げられるべきですね。高慢にならず、謙遜に、感謝をもって…。信仰による捧げる者を、主は喜んで祝福してくださいますから…。
『〜していれば、大丈夫。』というのは、行ないによる救いですよね⁈
神が喜ばれるのは、信仰による行ないです。
*行ないによる救いに傾倒するのは、新約聖書の『イスラエル』を『霊的イスラエル=教会時代のクリスチャン』と理解する置換神学による産物だと思います。
神様が喜ばれるのは、信仰による行ない=恵みの時代(教会時代)の命令(みことば)に従うことなのです。