使徒ヨハネは福音書の1〜2章で、キリストの公生涯最初の一週間の出来事を書き記しています。
ヨハネの福音書1:35~42は、三日目と四日目の出来事です。
ヨハネ1:35ーその翌日…公生涯三日目。
二人の弟子…バプテスマのヨハネにも多くの弟子がいましたが、その中の二人。マタイ11:2~3、ルカ7:18~20。
シモン・ペテロの兄弟『アンデレ』ともう一人の名前は伏せられていますが、『ヨハネ』自身と見て間違いないでしょう。
ヨハネ1:36ーバプテスマのヨハネはこの二人の弟子たちと立っていましたが、
ヨハネ1:37ーイエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ。神の小羊。」と言いました。
バプテスマのヨハネがイエスを『神の小羊』と紹介した通り、この時から約3年半後の過越の祭りで、イエスは十字架上で私たちの罪のためのなだめの供え物となられたのです。
ヨハネ1:37ー師であるバプテスマのヨハネの言葉を聞いて、二人の弟子アンデレとヨハネは、イエスについて行きました。
普通なら、自分の弟子たちが他の師のもとに移って行くだけで、嫉妬心を抱くものです。そして行かせないようにと、あの手この手で引き止めようとします。さらに肉的な思いに支配されてしまうと、教会内でさえ『羊泥棒』とまで言う方がいるほどです。
しかし、バプテスマのヨハネは違いました。
cf ヨハネ1:30ー私が『私のあとから来る人がある。その方は私にまさる方である。私より先におられたからだ。』と言ったのは、この方のことです。
このように自分の弟子たちに伝え、『自分よりまさる方』に結びつけようとしているのです。本当の謙遜とは、主にある自分の使命をわきまえている人だと思います。
私の友人が集っている教会の牧師は「教会は鉢植えの鉢のようなものです。植物が成長し、鉢が小さく感じたら、もっと大きく育つように植え替えます。あなたがた信徒も霊的に成長したら、もっと大きく育つために、弟子訓練をしっかりやっている教会に移ることも必要かもしれません。」と寛容であり、謙遜な方だそうです。
でもアンデレとヨハネは、なぜイエスについて行こうと思ったのでしょう?
師であるバプテスマのヨハネが常々話して聞かせていた『世の罪を取り除く神の小羊』という意味をある程度理解していたのでしょうね。ヨハネ1:29
ヨハネ1:38ーそんな二人に、イエスは少し厳しいと感じられることばをかけています。
「あなたがたは何を求めているのですか。」
実はこの問い、私たちにも向けられているんですよ。
未信者には『何を求めて生きているのですか?』と…。
求道者には『何を求めて聖書を読んでいるのですか?』と…。
私たちには『クリスチャン』であるということが、社会的ステータスになってはいないか、人に良く思われたくて教会生活を送っていないか、行ないによる救いを求めてはいないか…今一度、自分の信仰を見直してみる良い機会かもしれませんね。
イエスの問いかけに対し、アンデレとヨハネは「今、どこにお泊まりですか。」と質問で返しています。一見ちぐはぐな会話に聞こえますが、彼らはイエスともっと一緒にいて、いろいろ話を聞きたい、イエスと交わりを持ちたい、イエスが師であるバプテスマのヨハネが言っていたとおりの『神の小羊』なのかどうか知りたい、という心の表われなのです。
ヨハネ1:39ーそんな二人の気持ちを知っておられるイエスは、「来なさい。そうすればわかります。」と彼らを招いておられます。
求める者には、応答してくださるお方なのです。
彼らは、イエスの招きに素直に応じました。
私たち人間側に求められるのは、この『従順さ』です。「イエスを信じたい。」と言いながら、いざ神様から招きが来ると尻込みを繰り返しているうちは、救われることはありません。
求める者には、惜しみなく更なる招きを与えてくださいます。招きを受けたとき、人間側に求められるのは『決断』と『従順』です。これらが合致したときに、人は救われるのです!
時は十時ごろであった…直訳:第十時。現在の時間のすると、午後4時。
なぜヨハネは『時は第十時ごろであった。』と記しているのでしょう…?
それほど、ヨハネにとってイエス様との出会いは、忘れることのできない衝撃的なものだったのでしょう!!
主イエスとの出会いによって、私たちの人生も大きく変わります。自己中心、この世のことだけ、目先のことだけの狭い人生から、神中心、永遠のいのち、神様の栄光を現わすという人生の目的、指針が与えられるのですから!!
ヨハネ1:40ーユダヤの一日は、日没(18:00)から始まります。夕方4時頃、イエスについて行った二人は、その晩イエスと共に過ごしました。
ここで初めて、バプテスマのヨハネの二人の弟子のひとりが、シモン・ペテロの兄弟『アンデレ』だったことがわかります。
ヨハネ1:41~42ーここが有名な『アンデレ伝道』と言われる箇所です。
彼はほかに目立った働きを記されてはいませんが、自分の兄弟に主イエスを『メシア』として知らせ、主のもとに連れて来ました。
イエスとじっくり話をした結果、『メシア』だと確信したのでしょう。その喜びを真っ先に自分の兄弟に知らせているのです。
使徒16:31ーふたりは「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。
*主イエスを信じれば、家族も自動的に救われるというのではなく、喜びをもって、熱心に伝道した結果、あなたの変化に家族がイエス様に興味を持つようになり、聖書を読むようになり、信じるようになるということです。
ローマ10:17ーそのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。
アンデレがイエスに兄弟ペテロを紹介する前に、イエスの方から先に『シモン』の名前を呼ばれました。イエスには、シモンもまたメシアを待ち望んでいたことがわかったのです。そして彼に『ケパ(訳すと、ペテロ。“岩”の意。)』と名付けました。
まだ未知数のシモンに『ペテロ』と命名されたのは、なぜでしょう?イエスはどのようなお方なのでしょう?
ここに神様のご計画を見るのです。
シモン・ペテロは、熱しやすくて冷めやすい『人間性』をよく現わした人物です。彼の失敗には、親しみを感じ(こんなペテロでもキリストの弟子となり、使徒になれたんだ。私も頑張ろう!)という気持ちにさせられます。と同時に、彼の信仰告白の上に『教会』が建てられていくことになるのです。
マタイ16:15~16ーイエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
この信仰告白の頭文字をとると『イクスース(魚)』というギリシャ語になり、迫害時代はこの魚マークを持って信仰を確認し合ったと言われているのです。元漁師であったシモン・ペテロの信仰告白からというのが、興味深いですね。