エペソ2:8ーあなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
*救いはまず神様からの『恵み』により、『信仰』という応答によってであって、『自分自身から出たことではない』のです。
なぜなら…
1コリント2:14ー生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。
バプテスマのヨハネの弟子だったアンデレとヨハネは、師の導きもあり、イエスと出会ってすぐに決心し従って行きました。
では、ピリポとナタナエルの場合はどうだったんでしょう…?
ヨハネ1:43ーその翌日…アンデレ伝道(四日目)の翌日。つまり公生涯五日目のこと、ガリラヤでの出来事です。
イエスの方から先にピリポを見つけて「わたしに従ってきなさい。」と言われています。
私たちは幼い頃、親に「知らない人について行ってはダメよ。」と教えられて育ちました。ピリポは大人だから、イエスは「ついて来なさい。」と声をかけられたのでしょうか?(笑)
ヨハネ1:44ーどうやら理由は、ピリポの出身地にあったようです。
前日までにイエスに従う決心をした、アンデレとペテロの兄弟と同じ『ベツサイダ』の町の出身だったとあります。聖書がわざわざこう書いているのですから、幼なじみだったのかもしれませんね。
ヨハネ1:45ーナタナエル…ピリポとの関係において、マタイ10:3、ルカ6:14から『バルトロマイ』と同一人物と思われます。
そのナタナエルに、すぐにイエスのことを『モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会った。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。』と紹介しています。
モーセが律法の中に書き…申命記18:18ーわたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのようなひとりの預言者を起こそう。わたしは彼の口にわたしのことばを授けよう。彼は、わたしが命じることをみな、彼らに告げる。
どうやらピリポは、学者タイプだったようですね。聖書をよく理解していたようです。
ヨハネ1:46ーしかしナタナエルの反応は冷めていました。
これは私たちが伝道する時によくある反応ですよね…(^^;;
ナタナエル自身も人一倍メシアの来臨を待ち望んでいたはずなのに、何故このような冷めた反応になったのでしょうか?
私たちも伝道する時、ナタナエルのような反応を見せる人々に対し、何が彼らの信仰の妨げとなっているのかを考える必要がありますね。
ナザレから何の良いものが出るだろう…ユダヤ地方に住む人々はガリラヤ人を見下し、ガリラヤ地方に住む人々はナザレ人を見下していました。しかし聖書は、このように言っています。
イザヤ9:1~2ーしかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人の地ガリラヤは光栄を受けた。
やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。
死の陰の地に住んでいた者たちの上に
光が照った。cf マタイ4:14~16
ナタナエルの反応の裏には、こういう背景があったのです。
それでもピリポは諦めません。「いいから来いよ。自分の目で確認してみろよ。」と、彼を促しました。
このピリポの伝道の姿勢から、私たちも学ぶべきことがあるのです。そう…簡単に諦めるな!自分で確かめさせろ!ということです。
※ それにはまず、私たち自身が『キリストの証し人』となっている必要があることもお忘れなく〜!
ヨハネ1:47ー彼のうちには偽りはない…イエスはナタナエルに会う前から、彼の心を知っておられました。
ヨハネ1:48ーナタナエルはビックリして、イエスに質問します。「どうして私をご存じなのですか。」と。(まぁ、神様だからね。)
「わたしはピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」
*新改訳聖書で『わたし』とひらがなで書いてあるのは、御父か御子のことばです。人間の場合は『私』と漢字で表記されています。
イスラエル地方のいちじくやぶどうは葉がよく茂って日陰をつくるので、人々はそれらの木の下で瞑想する習慣がありました。
ミカ4:4ー彼らはみな、おのおの自分のぶどうの木の下や、
いちじくの木の下にすわり、
彼らを脅かす者はいない。
まことに、万軍の主の御口が告げられる。
ゼカリヤ3:10ーその日には、ー万軍の主の御告げ。ーあなたがたは互いに自分の友を、ぶどうの木の下といちじくの木の下に招き合うであろう。
ヨハネ1:49ーイエスのことばを聞いて、ナタナエルは信仰告白をしました。「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」
プライドが邪魔をして信仰告白をすることができない方がたまにおられますが、もがき苦しみながら抵抗するより、イエスを主と認め信仰告白すると不思議と楽になるものなんですよ。
ヨハネ1:50ー信仰告白をしたナタナエルに対し、イエスはもっと大きなことを見ると預言されました。信仰による応答をした者に与えられる祝福は、私たちの想像を超えるものなのです。
ヨハネ1:51ーまことに、まことに、あなたがたに告げます…『これから話すことは大事なことだから、耳の穴をほじってよく聞きなさい』の意。
『あなたがた』と言っていることから、ナタナエルのそばにはピリポもいたと思われます。
「天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」とイエスが言われたことから、創世記28:10~13でヤコブの見た夢のことをさしていると思われます。
創世記28:12ーそのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。
つまり、ナタナエルがいちじくの木の下で瞑想していたのは、まさにこの箇所であったと考えられるわけです。
そしてこの箇所は、天と地を結ばれる神の現われを意味しています。イエスはご自身が『天と地とを結ぶ方』であることを語られたのです。
ピリピ2:6~11ーキリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
ご自分を無にして、仕える者の姿ととり、人間と同じようになられたのです。
キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。
それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。
*ちなみに、十二使徒のピリポと、使徒の働き8:26~40、21:8~9のピリポとは別人です。使徒の働きのピリポは、使徒6:5~6の『七人の執事たち』の一人です。