ナインという町に向かう直前に、イエスはカペナウムの町で、ある百人隊長のしもべの癒しを行なわれました。
ルカ7:11ー間もなく…異本に『翌日』とするものもあります。
ナインという町に向かうイエスと弟子たち、大ぜいの人の群れの様子はどんな感じでしょう?どのような会話をしながら、歩いていたと思いますか?
ルカ7:12ーナインの町の門に近づかれると、町からも行列が出てきました。それは、やもめとなった母親のひとり息子が死んで担ぎ出されるところであり、大ぜいの町の人々とその母親でした。イエスたちの一行と町の人々の一行を比較してみましょう。この母親の人生、この時の彼女の心情はどのようなものだったでしょう?
ルカ7:13ーやもめとなった母親にとって、一人息子の死はどのような現実を強いることになりますか?
cf 申命記24:19~20ーあなたが畑で穀物の刈り入れをして、束の一つを畑に置き忘れたときは、それを取りに戻ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。あなたの神、主が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。
あなたがオリーブの実を打ち落とすときは、後になってまた枝を打ってはならない。それは、在留異国人やみなしご、やもめのものとしなければならない。
イエスはこの母親をどのように思っておられますか?
「泣かなくてもよい。」というイエスのことばは、どんな心をあらわしているでしょうか?この母親にとって、イエスのこのことばはどのように響いたでしょう?
ルカ7:14ー棺に手をかけると…民数記19:11~22の背景から考えると、どのようなことをあらわしていますか?もし自分がその場に居合わせたなら、イエスと同じ行動をとったと思いますか?
cf 民数記19:11~13ーどのような人の死体にでも触れる者は、七日間、汚れる。
その者は三日目と七日目に、汚れをきよめる水で罪の身をきよめ、きよくならなければならない。三日目と七日目に罪の身をきよめないなら、きよくなることはできない。
すべて死んだ人の遺体に触れ、罪の身をきよめない者はだれでも、主の幕屋を汚す。その者はイスラエルから断ち切られる。その者は、汚れをきよめる水が振りかけられていないので、汚れており、その汚れがなお、その者にあるからである。
「青年よ。あなたに言う、起きなさい。」…どのような権限で、イエスはこう言われたのでしょう?
ルカ7:15ーその結果、どうなりましたか?
cf マルコ5:41~42ーそして、その子どもの手を取って「タリタ、クミ。」と言われた。(訳して言えば、「少女よ。あなたに言う。起きなさい。」という意味である。)
すると、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた。十二歳にもなっていたからである。彼らはたちまち非常な驚きに包まれた。
このようなことをなさるイエスは、どのようなお方なのでしょう?
イザヤ書60:1ー起きよ。光を放て。
あなたの光が来て、
主の栄光があなたの上に輝いているからだ。
私たちも霊的に死んだ状態にいつまでも留まるのではなく、霊的に『起きて、神の栄光の光を放て。』と聖書は言っています。
ルカ7:16ー人々の反応は、どのようなものでしたか?彼らはイエスをどのような方と捉えていますか?
あなたは、イエスをどのような方だと思いますか?
彼らはどこに向かおうとしていましたか?
実際は、どこに向かったと思いますか?
それは、何を象徴しているでしょうか?
イエスは、死体が納められた棺に触れるという行為をもって、汚れと罪をご自分のものとして引き受けてくださいました。このことはやがて、十字架の死という形で具体化します。
ルカ7:17ーやもめの母親の死んだ一人息子をよみがえらせた、という話がユダヤ全土だけでなく、回りの地方一体に広まりました。
イエスご自身の十字架の死と復活は、ユダヤと回りの地方だけでなく、地球全土に広まるときがきます。(七年間の患難時代に成就します。)
私たちはその過程において、まだイエスの十字架の福音を聞いたことのない人々に伝えていくのです。
マタイ24:14ーこの御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。