サザエのお裾分け

聖書を字義通り&文脈に沿って学び、理解したことの中からのお裾分け。内容は鵜呑みにせず、必ずご自分で聖書を開いて確認してくださいね。聖書理解の助けになれば幸いです。† 栄光在主 †

⑹ 生まれつきの盲人の癒し(2) 〜ヨハネ9:8~38〜

 

ユダヤ教の三本柱は『施し・祈り・断食』です。障害者はこの『施し』に頼って生活していました。

cf 使徒3:2ーすると、生まれつきの足のきかない男が運ばれて来た。この男は、宮にはいる人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」に置いてもらったいた。

 

ヨハネ9:8ー生まれつきの盲人だった人を、近所の人々や彼を知っている人々の反応はどうでした?

そこには、彼らのどのような心があるでしょうか?

 

ヨハネ9:9ー先程はこの人の目の前で、イエスの弟子たちから心ない言葉を聞き、今また近所の人たちや彼を知っている人たちが、自分の前で自分のことを語っている…このときの彼の気持ちはどのようなものだったでしょう?

 

「私がその人です。」という彼の言葉に、どのような思いをくみ取りますか?

 

ヨハネ9:10ー人々の関心事は何でしょう?それはどうしてだと思いますか?

 

盲人の目を開けることは、メシアのしるしでもありました。

cf イザヤ42:7ーこうして、盲人の目を開き

囚人を牢獄から、

やみの中に住む者を獄屋から連れ出す。

 

ヨハネ9:11ー彼の答えから、イエスは何をし、彼は何をしたことがわかりますか?

その結果、どうなったと言っていますか?

cf「エスという方が…私の目に塗り…」と言われました。

「それで(私は)行って(私が)洗うと、(私は)見えるようになりました。

 

泥を作って…「つばきで」とは言っていません。彼はそのとき、まだ目が見えていなかったので、どうやってイエスが泥を作ったか知らなかったのです。

 

シロアムの池…ギボンの池のこと。

f:id:bluemome:20180718081921j:plain

cf イザヤ7:3ーそこではイザヤに仰せられた。「あなたとあなたの子シュアル・ヤシュブとは出かけて行って、布さらしの野への大路のそばにある上の池の水道の端でアハズに会い、

 

cf イザヤ8:6~8ー「この民は、ゆるやかに流れるシロアハの水をないがしろにして、

レツィンとレマルやの子を喜んでいる。

それゆえ、見よ、主は、

あの強く水かさの多いユーフラテス川の水、

アッシリヤの王と、そのすべての栄光を、

彼らの上にあふれさせる。

それはすべての運河にあふれ、

すべての堤を越え、

ユダに流れ込み、押し流して進み、

首にまで達する。

インマヌエル。その広げた翼は

あなたの国の幅いっぱいに広がる。」

 

ヨハネ9:12ーなぜ近所の人たちは、イエスがどこにいるのかを彼に尋ねたのでしょう?

 

ヨハネ9:13ー彼らはこの盲人だった人を、誰のところに連れて行きましたか?

 

ヨハネ9:14ーそれは何故でしょうか?

安息日金曜日の日没〜土曜日の日没まで。『日曜日』のことではありません。日曜日は、聖書では『週の初めの日』と表現されています。(カレンダーが日曜日から始まるのは、そのためです。)

 

ヨハネ9:15ーパリサイ人たちは、彼に何をしていますか?

尋ねた…尋問、の意。

 

彼はどのように答えていますか?彼の答えに何か変化がありますか?

11節ー「イエスという方が、泥を作って、私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい。』と私に言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました。」

15節ー「あの方が私の目に泥を塗ってくださって、私が洗いました。私は今見えるのです。」

 

*パリサイ人や律法学者たちは、律法を守るために、律法に細則をたくさん付け加え、過大解釈を施していました。たとえば、『安息日に仕事をしてはならない。』ということを『900m以上歩くことは仕事にあたる。』『いちじくより重いものを運ぶのは、仕事にあたる。』など。

 

*彼が泥を塗られた所からシロアムの池までは、約1kmありました。

 

ヨハネ9:16ー彼の答えを聞いた結果、パリサイ人たちはどうなりましたか?

 

エスの奇蹟を見たり、聞いたりしても、信じない人は信じないのです。その心は、自分以外の何者にも主導権を譲りたくない、自分の好きなように生きたい、という自己中心の思いがあり、『イエスを主だと認めたくない。』のです。

 

ヨハネ9:17ー民の指導者であるパリサイ人たちが責任をもって、盲人の目を開けるというわざを成したイエスが救い主、メシアであるかどうかを判断しなければならない立場でした。

 

しかし、パリサイ人たちの中で『分裂』が起こった結果、彼らはこの盲人だった人に解答を求めています。直訳:「…お前は何だと言うのか…」

このような民の指導的立場の人の態度についてどう思いますか?

 

『イエスという方』が「あの方は預言者です。」と、彼は自分の意見をはっきり伝えました。

cf 使徒3:22~23モーセはこう言いました。『神である主は、あなたがたのために、私のようなひとりの預言者を、あなたがたの兄弟たちの中からお立てになる。この方があなたがたに語ることはみな聞きなさい。

その預言者に聞き従わない者はだれでも、民の中から滅ぼし絶やされる。

*民の中から滅ぼし絶やされる…御国の民になれない、の意。

 

ヨハネ9:18ー『盲人だった人がみえるようになった』という事実を目の前に、それを本人が証言しているにも関わらず、パリサイ人たちはどのように反応していますか?

 

なぜ彼らは、盲人だった人の両親を呼んだのでしょうか?

 

ヨハネ9:19ー尋ねて…尋問、の意。

彼らは、両親に何を確認していますか?

 

ヨハネ9:20~21ーパリサイ人たちの尋問に、両親は何と答えていますか?

 

息子を弁護するような答えはなく、事実をそのまま述べているこの両親についてどう思いますか?

 

ヨハネ9:22~23ーなぜ両親はこのような答えをしたのでしょう?

*会堂から追放するユダヤ教からの『除籍・破門』を意味します。それは宗教的、律法的にも人としての権利を剥奪され、日常生活にも大きな影響を及ぼします。

 

ヨハネ9:24ーパリサイ人たちは、再び彼を呼び出して威圧的に命じています。

*神に栄光を帰しなさい。…別訳:真実を言いなさい。

 

『神に栄光帰す』とは、本来どうするべきことだと思いますか?

パリサイ人たちは、イエスをどういう人だと結論づけていますか?

 

ヨハネ9:25ーパリサイ人の結論に対し、彼は同意していますか?

彼の強調点はどこにありますか?

 

ヨハネ9:26ー再三にわたり、盲人だった人は自分に何が起こったのか事実を述べているのにも関わらず、なぜパリサイ人たちは何度もしつこく質問してくるのでしょうか?

 

ヨハネ9:27ー彼の答えにどのような変化がありますか?

『あなたがた、あの方の弟子になりたいのですか。』という問いかけから、彼は自分をどのような立場に置いていると思いますか?

 

 ヨハネ9:28ーパリサイ人たちのプライドは、どこにありますか?

*私たちも気をつけていないと、このパリサイ人たちのように『イエス以外のものに属している』という安心感・プライドを持ってしまいます。

 

ヨハネ9:29ーパリサイ人たちは、メシア(救い主)であるイエスに結びつくことを拒みました。それは結果、何を意味するのでしょう?

『救い』とは、何を受け入れ、信じることでしょうか?

 

ヨハネ9:30ーこの人は何に驚いているのでしょうか?

盲人だった自分の目を開けてくれたイエスのことを、彼はどう理解していますか?

 

ヨハネ9:31ー民の指導的立場にあるパリサイ人たちに対し、このように言っている彼のことをどう思いますか?

*当時は、一般的に罪の結果、病気になったり障害者になったりすると考えられていました。

 

ヨハネ9:32ー昔から聞いたことがありません。…直訳:古い時代以来聞かれなかった。

 

ヨハネ9:33ーこの時点で、彼はイエスのことをどういうお方だと理解していますか?

17節の『預言者です。』という理解から何か変化がありますか? 

 

ヨハネ9:34ー彼の発言を聞いたパリサイ人たちは、どのような結論を出しましたか?

パリサイ人たちは、この人をどのように見ていたことがわかりますか?

 

外に追い出した…ユダヤ教からの『破門』を意味します。

 

ヨハネ9:35ーイエスは彼が追放されたことを聞き、どうしておられますか?

エスの方から彼を『見つけ出して』くださることに対し、どう思いますか?

あなたは自分からイエスを見つけ出したのでしょうか、それともイエスに見つけ出されたと思いますか?

 

エスが彼に求めておられることは何でしょうか?なぜ、彼にとってそれが必要なのでしょうか?

 

ヨハネ9:36ー主よ…あるいは『先生』。

盲人だったことからの『癒し主』から、何を求める信仰へと変化していますか?

 

 ヨハネ9:37ーイエスは、ご自身について何と彼に教えられていますか?

 

ヨハネ9:38ー「主よ。私は信じます。」という彼の信仰告白は、大きな犠牲を伴うものでした。

cf ヨハネ9:22bーすでにユダヤ人たちは、エスをキリストであると告白する者があれば、その者を会堂から追放すると決めていたからである。

 

盲人だったときには、人々の『施し』によりかろうじて生活していた人が、イエスによって目が開けられ、健常者と同じように働いて生活することができるようになったと思ったら、ユダヤ教から破門されて普通の生活をすることもままならなくなりました。

 

にも関わらず、彼にこのような信仰告白させたものは、何だと思いますか?

彼の『目』開いたのは、肉体的だけですか?それとも『霊的』にも開眼したと思いますか?

 

あなたの信仰はどうですか?

 

霊的覚醒して、みことばに聞き従う信仰を主は求めておられます。

黙示録3:2目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。