サザエのお裾分け

聖書を字義通り&文脈に沿って学び、理解したことの中からのお裾分け。内容は鵜呑みにせず、必ずご自分で聖書を開いて確認してくださいね。聖書理解の助けになれば幸いです。† 栄光在主 †

弟子たちの足を洗うイエス 〜ヨハネ13:1~20〜

イエスが弟子たちの足を洗ったのは、『過越の食事』の時の出来事です。ルカ22:14~27に背景がもう少し詳しく記されています。

 

 

ヨハネ13:1過越の祭りの前…公生涯最後の過越の祭り。

『自分の時』とは、何を指すのでしょう?

イエスは今、どのような心境だと思いますか?

 

残るところなく…別訳:最後まで

イエスに残された地上での歩みはあとわずかですが、何を残そうとされてますか?

あなたがもし『余命宣告』を受けたとしたら、どのように生き、何を残そうと思いますか?

 

ヨハネ13:2ー夕食の間のことであった。…最後の晩餐のどのタイミングで、弟子たちの足を洗われたのかはこちらから:

 

過越の食事と聖餐式 http://osusowake.hatenablog.com/entry/2013/03/24/_%E3%80%9C%E3%82%A4%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%80%9C_%E9%81%8E%E8%B6%8A%E3%81%AE%E9%A3%9F%E4%BA%8B%E3%81%A8%E8%81%96%E9%A4%90%E5%BC%8F%EF%BC%88%E5%8D%81%E5%AD%97%E6%9E%B6%E3%81%AE%E6%AD%BB

 

この時のユダの心は、どのような状態でしたか?その理由は何でしょう?

 

イスカリオテ・ユダは、他の弟子たちと同じように3年半のイエスの公生涯をともに過ごしてきました。

熱心党員だったシモンと一緒に伝道にも遣わされました。cf マタイ10:1~8、マルコ6:7

 

しかしそれは表面的であり、同じ弟子としてともに過ごしていたヨハネは、次のように証言しています。

ヨハネ12:4~6ーところが、弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしているイスカリオテ・ユダが言った。

「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」

しかしこう言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである。

 

マタイやマルコによると、何人かの弟子たちがユダと同じように『無駄だ。』と思っていたことが分かります。しかし、イスカリオテ・ユダが盗人であったことには触れていないことから、ヨハネだけが気付いていたのかもしれません。cf マタイ26:8~9、マルコ14:3~4 

 

いつ、ユダの心にイエスを売ろうとする思いが入ったかについては、ルカがそのタイミングを記しています。cf ルカ22:1~6

ルカ22:3ーさて、十ニ弟子のひとりで、イスカリオテと呼ばれるユダに、サタンがはいった。

*イエスは公生涯で『悪霊に憑かれた人々』を癒されてこられました。しかし、イスカリオテ・ユダに入ったのは『悪霊』ではなく、『サタン』だったのです。イエスを裏切るという行為は、『サタン』でなければできないのかもしれません。

 

サタンが躍起になってしようとしていることは、何でしょう?

クリスチャンに対してと、求道者に対してとわけて考えてみてください。

 

人がサタンに心を支配されるとどうなると思いますか?

それは今、現実にどのようなところに見られますか?

 

ヨハネ13:3ー『父が万物を自分の手に渡された』とは、イエスがどのような方であることを示しているのでしょう? cf ヨハネ10:30

 

それは具体的には、何のことを言われているのでしょう?

 

ヨハネ13:4上着を脱ぎ…神の御子イエスがまとっておられた『肉体』を脱ぎ捨てるという、十字架の贖いを象徴。

 

cf マルコ10:46~52ー盲人バルテマイの信仰。

マルコ10:50ーすると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。

上着を脱ぎ古い自己中心の罪の性質を脱ぎ、キリストにある『義の衣』を着るため。

 

手ぬぐいを取って腰にまとわれた…謙遜をまとうことを示唆。

 

ヨハネ13:5ーcf ピリピ2:6~7ーキリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、

ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。

 

4〜5節は、①罪のきよめと、②互いに謙遜を身にまとい、仕え合うことを教えておられます。

 

ヨハネ13:6ーペテロはどのようにイエスの行為を受け止めていますか?

 

ヨハネ13:7ーなぜイエスはこのとき、ペテロに『今はあなたにはわからない』と言われたのでしょう?

その意味を理解するのに必要なものとは何でしょう?

いつペテロはわかるようになるのでしょう?

 

cf ヨハネ14:26ーしかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

 

ヨハネ13:8ーなぜイエスに『足を洗ってもらう』必要があるのでしょう?

『足を洗う』という行為とイエスにどのような関係があるのでしょう?

 

足を洗う…汚れをきよめることを表わす。

 

ヨハネ13:9ー「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください。」と言うペテロについて、どう思いますか?

なぜ彼は『手も頭も』洗って欲しいと思ったのでしょうか?

 

ヨハネ13:10水浴…イエスを罪のさばきからの『救い主』として信じた者が受ける、水の『バプテスマ』を意味します。

 

足以外は洗う必要がない…きよめの『水浴び』をした者も水槽から自宅に戻る間に、土埃で足が汚れるので、家に入る前に足だけ洗いました。

同じようにイエスを救い主として信じてバプテスマを受け、きよめられた者も、天の御国に入るまでのこの世の旅路で、罪の埃が付くので、日々悔い改める必要があるのです。

 

みながそうではない…教会に集い、交わりに参加していても、本当にイエスを『救い主』として信じていなければ救いを得てはいません。信仰の対象がイエスではなく、『教会に行っていること』『教祖』『聖書以外を正典としている』などは『みながそうではない』方に該当してしまいます。

*自分の信仰の土台が、本当にキリスト・イエスにあるのか、ズレていないか、聖書のみことばによって吟味する必要があります。

 

ヨハネ13:11イエスはご自分を裏切る者を知っておられたイスカリオテ・ユダは、イエスを『メシア』として信じていたのに裏切ったのではなく、初めから信じてはいなかったのです。cf ヨハネ12:4~6『いつも』に注目。

 

cf 1サムエル16:7b人はうわべを見るが、は心を見る。

 

ヨハネ13:12上着を着けて …十字架につかれる準備。

ご自分が教えようとされたことを、弟子たちがどれだけ理解できたかを確認されてます。

 

ヨハネ13:13あなたがたがそう言うのはよい。…あなたがたは正しい、の意。

 

ヨハネ13:14ーcf ヤコブ5:16ーですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。

 

*ですから私たちも教会の交わりの中で、本当に主にある人と『互いに罪を言い表わし、互いのために祈り合う』べきです。いつまでも『救われた時の証し』ばかりを語るのではなく、今どのような罪を示され、どのように戦っているのか、どのように勝利へと導かれたのか等、信仰生活の歩みも証しできるようになりたいものですね。

 

ヨハネ13:15模範を示した…だからこそ罪がない御子が、① ヨルダン川バプテスマを受け(滴礼ではありませんでした)、②山で祈られ、③税を納められ、④カナの婚礼で喜ぶ者とともに喜ばれ、⑤棺に手をかけて悲しむ者とともに悲しまれ、⑥パンを分け与え、⑦人々を教え、導かれたのです。(他にもたくさんあります。)

 

私たちは、このイエスを『主』とし、その後に従っていくのです。

 パウロもこのキリストに出会い、このキリストに従った結果、次のように勧めています。

cf 1コリント4:16ーですから、私はあなたがたに勧めます。どうか、私にならう者となってください。

 あなたは、このパウロのように人に言えるでしょうか?

 

 

テサロニケのクリスチャンたちは、使徒たちと主とにならう者になりました。

cf 1テサロニケ1:6ーあなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。

*主に従うクリスチャンとして、パウロやテサロニケの人々のような信仰を求めていきたいですね。

 

ヨハネ13:16ーcf ヨハネ15:20しもべはその主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。もし彼らがわたしのことばを守ったなら、あなたがたのことばをも守ります。 

 

 ヨハネ13:17それを行なう…キリスト・イエスのみことば(戒め、命令)に従うこと。

 

 ヨハネ13:18ー『わたしのパンを食べている者が、わたしに向かってかかとを上げた。』…cf 詩篇41:9ー私が信頼し、私のパンを食べた親しい友までが、

私にそむいて、かかとを上げた。

 

*この後、イエスを裏切るためにゲッセマネの園にやって来たイスカリオテ・ユダに対し、イエスは最後まで諦めずに彼の救いを願って、こう呼びかけておられます。

cf マタイ26:50ーイエスは彼に、友よ。何のために来たのですか。」と言われた。そのとき、群衆が来て、イエスに手をかけて捕えた。

 

ヨハネ13:19あなたがたが信じるため詩篇のみことばを引用して話し、ヨハネ13:26の行為へと続くのです。

 

cf ヨハネ13:26ーイエスは答えられた。「それはわたしがパン切れを浸して与える者です。」それからイエスはパン切れを浸し、取って、イスカリオテ・シモンの子ユダにお与えになった。

 

ヨハネ13:20わたしを遣わした方…御父。

cf ヨハネ10:30わたしと父とは一つです。

 

私たちを罪の裁き、永遠の滅びから救い出してくださった三位一体の神に、栄光が代々にありますように。

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