ピラトの官邸からゴルゴダの丘までの『ヴィア ドロローサ』と言われる十字架への道を、主はご自分がかかる十字架の横木を背負って歩かれました。
当時、十字架刑は町の城門の外の処刑場で執行され、処刑場までのできるだけ長い距離を市中引き回しをされました。受刑者を四方を兵士が固め、先頭には罪状書きを掲げて行進しました。その罪状書きが、十字架の頭上に付けられました。イエスの罪状書きには『これはユダヤ人の王ナザレ人イエスである。』と書かれてありました。
十字架刑はローマの最高刑であり、受刑者を辱しめ、ゆっくりと苦しみながら死に向かわせるという非常に残酷な刑でした。
マタイ27:32ーイエスは途中で横木を背負う体力がなくなってしまったようです。一晩中裁判に引き回され、殴られ、むち打たれた状態でなお、重い十字架の横木を背負って歩かれるイエスの姿を想像してみましょう。
沿道の人々の様子はどのようなものだったでしょう?
その場の雰囲気や、自分がその場にいるとしたら、どのような思いで眺めていたでしょうか?
当時のイスラエルは軍事的にはローマの傘下にあって、諸外国からの攻撃からは守られていました。ローマ軍はその占領国において、いつでも、誰にでも、どんな仕事でも、人に命じることができました。ローマ兵から槍で肩を叩かれた者は、否応無しにその命令に従わなくてはなりませんでした。
ですから当時のイエスの教えの中には、このような日常に対するものも含まれていました。
マタイ5:41ーあなたに1ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに2ミリオン行きなさい。
*より長い距離を行くつもりで事に当たれば、苦にはならない。何事も自ら進んで喜んでできるようにという教えです。
おそらくイエスが途中で倒れられたのでしょう。
ローマ兵のひとりが大ぜいいる沿道の人々の中から、イエスの代わりに十字架の横木を運べそうな者を選びました。彼の目は誰に止まりましたか?
その人はどのような人ですか?
どこから、何のためにエルサレムに来たのでしょう?
*北アフリカのクレネ〜エルサレム間は、約1,500kmの距離です。
イエスはローマの鞭打ちの刑をすでに受けておられたので、おそらくイエスが背負っていた十字架の横木には、血がついていたと思われます。
人を死刑にするための、すでに血の付いた十字架の横木を、たまたまそこを通りかかっただけで負わされるはめになったシモンは、どのような気持ちだったでしょう?
シモンはこの時、何を信じていたのでしょうか?
以下の聖句から、彼は後にどうなったと思いますか?
マルコ15:21ーそこへ、アレキサンデルとルポスとの父で、シモンというクレネ人が、いなかから出て来て通りかかったので、彼らはイエスの十字架を、むりやりに彼に背負わせた。
ローマ16:13ー主にあって選ばれた人ルポスによろしく、また彼と私の母によろしく。
マルコの福音書は、ローマ人に向けて『王としてのキリスト』を伝えるために書かれたと言われています。また、ローマ人への手紙では、クレネ人シモンの息子アレキサンデルもルポスも、ローマの教会で良く知られた人たちだったと考えられます。
クレネ人シモンにとって、十字架を負わされたという屈辱は何に変わったのでしょう?
自分にとって嫌な事、マイナスに思われる事が、イエスとの関係においてどのように変えられていくと思いますか?
ローマ8:28ー神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
たまたま、過越の祭りの祭りの巡礼にいなかから出て来て、
たまたま、イエスが十字架の横木を運ぶ沿道に、
たまたま、同じ時間に居合せ、
たまたま、自分の近くでイエスが倒れて負えなくなり、
たまたま、ローマ兵の目に止まり、
たまたま、命令を受け、渋々イエスの代わりにゴルゴダの丘まで運ぶことになったシモン。
この『たまたま』を単なる偶然と捕えますか?
それは、神の目から見ても『単なる偶然』でしょうか?
ルカ23:26ー彼らは、イエスを引いて行く途中、いなかから出て来たシモンというクレネ人をつかまえ、この人に十字架を負わせてイエスのうしろから運ばせた。
すぐ目の前を(おそらく)よろめきながら歩くイエスの背中は、鞭打ちの刑による傷からの出血で赤く染まっていたことでしょう。
そのイエスの後ろ姿を眺めながら、ついて行くシモンの姿に何を思いますか?
イエスのその打ち傷は、誰のためでしょうか?
イザヤ53:5ーしかし、彼は、
私たちのそむきの罪のために刺し通され、
私たちの咎のために砕かれた。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
あなたは誰を仰ぎ見、誰の背中を見て信仰の歩みをしていますか?
イエスですか…?それとも、何か他のものですか…?
もし、みことばを読まないクリスチャンだとしたら、イエスを救い主と信じた結果救われてはいますが、霊的には幼子のままです。まだ信仰的に自分の足で歩いて、イエスの後をついて行けるところまで成長していないことになります。
今日からでも、少しずつでもみことばを読み、霊的に食事をし、祈ることにより霊的に呼吸して、成長していきましょう。神はキリストの身丈にまで私たちが霊的に成長することを望んでおられます。
マタイ16:24ーそれから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。