サザエのお裾分け

聖書を字義通り&文脈に沿って学び、理解したことの中からのお裾分け。内容は鵜呑みにせず、必ずご自分で聖書を開いて確認してくださいね。聖書理解の助けになれば幸いです。† 栄光在主 †

一度得た『救い』を失うことはあるのか? 〜ヘブル6:1~8〜

ヘブル人への手紙全体のテーマは、信者の『霊的成長』です。

6章3〜6節は難解な箇所とされています。この手紙がどのような状況の中で、誰が誰に宛てて書いたのかを理解してからでなければ、簡単に私的解釈に陥ります

なので、是非イントロダクションをよく理解してから、読み進んでください。

 

この手紙のイントロダクションは、こちらから⬇︎ 

osusowake.hatenablog.com

 

 

ヘブル5:11~14によると、著者は『メルキゼデク』の話しをしたいところでしたが、この手紙の受取人たちは、霊的には未熟であり『耳が鈍くなっている』ため、『メルキゼデク』の件は7章1節まで横に置き叱責しています。

 

ヘブル6:1ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。死んだ行いからの回心、神に対する信仰、

*成熟ギリシャ語では『完全』『完成』の意。目標達成から来ることば。

 

ヘブル6:2ーきよめの洗いについての教え、手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばきなど基礎的なことを再びやり直したりしないようにしましょう。

 

マタイ5:48だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。

 

この時代のエルサレム近郊のメシアニックジューたちにとって、

良いものメシアてあるイエスに留まること。
悪いものパリサイ派神学では、『イエス=悪霊付き、悪霊のかしらベルゼブル』とされていたユダヤ教に戻ること、でした。

 

回心に関わる教え。
①死んだ行ないからの回心ユダヤ教のレビ的祭儀制度は、メシアの十字架の死で完了した。

ヘブル9:14まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。

 

②神に対する信仰…神に対する肯定的側面。
きっぱりと全面的献身を決断すること‼︎

 

③きよめの洗いギリシャ語では複数形:浸す、浸して洗う、洗礼の意。cf ヘブル9:10の教え(洗礼の教えを含む)。

ヘブル9:10それらは、ただ食物と飲み物と種々の洗いに関するもので、新しい秩序の立てられる時まで課せられた、からだに関する規定にすぎないからです。

*キリストの名による洗礼は、ユダヤ教との完全な分離・決別を意味する。

 

④手を置く儀式…旧約時代、祝福を伝える方法でした。それが、新約時代にも受け継がれました。

マタイ19:13そのとき、イエス手を置いて祈っていただくために、子どもたちが連れて来られた。ところが、弟子たちは彼らをしかった。

使徒8:14~17さて、エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところへ遣わした。

ふたりは下って行って、人々が聖霊を受けるように祈った。

彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。

二人が彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。


任命、任職…使徒6:6この人たちを使徒たちの前に立たせた。そこで使徒たちは祈って、手を彼らの上に置いた

1テモテ4:14長老たちによる按手を受けたとき、預言によって与えられた、あなたのうちにある聖霊の賜物を軽んじてはいけません。

1テモテ5:22また、だれにでも軽々しく按手をしてはいけません。また、他人の罪にかかわりを持ってはいけません。自分を清く保ちなさい。


罪の転嫁…レビ1:4その人は、全焼のいけにえの頭の上に手を置く。それが彼を贖うため、彼の代わりに受け入れられるためである。

 

⑤死者の復活ヨブ19:25私は知っている。

私を贖う方は生きておられ、

後の日に、ちりの上に立たれることを。

イザヤ26:19あなたの死人は生き返り、

私のなきがらはよみがえります。

さめよ、喜び歌え。

ちりに住む者よ。

あなたの露は光の露。

地は死者の霊を生き返らせます。

ダニエル12:2地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。

 

⑥とこしえの裁き…大いなる白い御座のさばきー黙示録20:11~12
火の池ーイザヤ66:24、ダニエル12:2

 

ここまでが『キリストについての初歩の教え』ヘブル6:1ーであり、信者たちは信じた後すぐにそれらを学ぶ『信仰の乳』であり、さらなる成熟を目指すべきであることを教えています。

ヘブル6:3神がお許しになるならば、私たちはそうすべきです。
*初歩の教えをあとにして前進すべきです。

 

神がお許しになるならば『いや、神は絶対にお許しになる』と想定しています。
神は、霊的成熟することを奨励している。ヘブル書の受取人たちは霊的幼子であり(ヘブル5:11~14)霊的成長が不可能になる程の後退に陥る危険性が迫っていた。回帰不能点を越えそうでした。

 

聖書の難解箇所として有名なヘブル6:4~6』のギリシャ語本文は、長い一つの文となっています。ギリシャ語では6:6の『そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返させることはできません。』が冒頭にあります。そして6:4の冒頭には、接続詞 “ For ”ー『なせなら』があり、

『そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。なぜなら、一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば、彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。』という順序となります。

 

ヘブル書の著者は、受取人たちが経験した5つの霊的特権について挙げています。


①一度光を受けた…福音を理解し、信じた『新生体験』を指す。真理の知識をつかんだことを意味します。
*一度…繰り返されないことを強調する言葉。

 

②天からの賜物の味を知った…『味を知り』は、真の体験を指す言葉。
ある人々は『ヘブル書の受取人たちは、救いをかじっただけで飲み込まなかったので、本当に救われてはいなかった』と主張します。しかし、ギリシャ語の『味を知り』はそのような意味を指してはいません。

 

ヘブル2:9ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。

*イエスは、死をかじっただけで死ななかったのでしょうか?

そうではなく、『味わわれた』は、実際にイエスが死んだことを示しています。ヘブル書の受取人たちも『天からの賜物』をかじったのではなく、実際に体験したのです。それは、メシア自身ヨハネ4:10救いエペソ2:8~9聖霊1コリント12:4を指し、真の霊的生活を共有するようになったことを意味します。

 

聖霊にあずかる者となった…『真に参加者となる』という意味。

ヘブル2:14aそこで、子たちはみな血と肉を持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。

*イエスは『血と肉を持ちそうになった』のはなく、事実血と肉を持ち、人間となられた。

 

同じように、ヘブル書の受取人たちも『聖霊にあずかりそうになった』のではなく、事実あずかり、内住による聖霊との重要な関係を持ったのです。
つまり、それは彼らが『救われていた』ことを指します。

 

④神のすばらしいみことば〜を味わったみことばギリシャ語:reima『語られたみことば』のこと。単純な参加ではなく『個人的体験』を指す言葉。

このユダヤ人信者たちは、神からと認識される特別なことばを聞きました。

1ペテロ1:23あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。

 

⑤後にやがて来る世の力とを味わった後にやがて来る世ーメシア的王国(千年王国)を指してユダヤ人が一般的に用いていた言葉。

ー同じ言葉が、ヘブル2:4では『奇跡』を指して使われています。

味わったー真の体験を指す。


彼らは、千年王国で明らかにされる『力』をある程度見せて頂いていました。

 

しかも堕落してしまうならば…時制に関わらず『堕落するなら』の意。原語的意味では、『背教』つまり一度受け入れた道から離れることを指すことば
ヘブル書の受取人たちがメシアを信じたのにも関わらず、信仰の道から外れるのならば『そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできない』の意。

 

その理由は2つ!
a)自分で神の子をもう一度十字架にかけることはできない…イエスは、もう一度十字架にかかるために戻ってくることはない、それは不可能です。
b)恥辱を与える人たちだから…イエスを公に侮辱する行為。

 

『そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません』
*この聖句によって、信者は救いを失い得ると解釈すると、再度救いに至る信仰を持つことも不可能になるので要注意!

 

この聖句の解釈は、少なくとも10の異なる立場があります。

⑴ ヘブル書の受取人たちは、自称『信者』であって、『真の信者』ではないとするもの。
➡︎ヘブル3:1aそういうわけですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。

『天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち』という呼びかけからして、この解釈はあり得ません。

 

⑵ 真の信者となった後、真に救いを失ったとするもの。
➡︎聖書全体の教えから逸脱。

 

⑶ 『できません』ということばを、一度人々が堕落すると、彼らを悔い改めに立ち返らせることは『難しい』とするもの。
➡︎聖書本来の単語の意味を変えています。ギリシャ語:アドゥーナトス。(impossible) 不可能、できないの意。

 

⑷ 堕落する人たちは、何度も繰り返し回帰不能点を越えた人たちと解釈するもの。

➡︎『しかも堕落してしまうのならば』は、一度の堕落のことであり、繰り返しを示唆するものではありません。

 

⑸ 『立ち返らせる』を、旧約時代のささげ物制度とする解釈。
➡︎この解釈を主張する人々は「すでにささげ物を行なう者もなく、神殿もなかったので、そこに戻ることは不可能だ。」と言います。しかしこの手紙が書かれた時点では、まだ第二神殿はあり、犠牲のささげものはささげられていました

 

⑹ この箇所を『仮説文』として捉える解釈。実際にそのことは起こり得ないが、もし起きたなら、著者が主張した結果を招くという解釈。
➡︎もしそうだとしたら、著者が受取人たちにこれだけ厳しい警告を発する理由がなくなる。警告される理由は、単なる仮説ではないからです。

 

⑺ 報酬と行ないについて言及されているという解釈。
➡︎この解釈は、一理あるが説明不足です。報酬については、後の文脈で語られていますが、この節においてではありません。

 

⑻ 堕落したことにより、将来の地上での祝福を失うという解釈。
➡︎信者は救いを失うことはありませんが、将来の祝福を失うという立場。これも一理あるが、著者の意図を十分に説明していません。

 

⑼ ヘブル書の受取人たちは、真の知識を受け取った後に、『自称信者』となるが、ユダヤ教に戻ってしまい、AD70年のエルサレム陥落の時に身を滅ぼす危険があったとする解釈。
➡︎⑴と同じように、真の救いを受けた者は『自称信者』にはなりません。

 

(10) ヘブル6:6は、包括的及び直前の文脈を基に解釈されるべきであり、一度限り回帰不能の決断をすることについて言及しているという解釈。
➡︎💮最も推奨する解釈。
ユダヤ教に逆戻りする危険性を持つ、真の信者について扱ったものと理解します。

 

ユダヤ教に回帰するなら、彼らはAD70年に、ローマ軍によって身を滅ぼされることになるのです。イエスのメシア性を『サタンのわざ』として拒否したユダヤ教に戻るなら、彼らには二つの点で『不可能』となってしまうものがありました。

 

①『彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて』…メシア拒否したユダヤ教と、再同一化することを意味し、そこから立ち返るためにはメシアを再び十字架につけることが要求されます。
②『恥辱を与える人たちだから』…イエスの初臨の十字架の死を、不十分かつ未完成な救いだったとすることになります。

 

一度生まれた人は、再び母の胎に戻ることはできないように、そこまで堕落した信者は、それ以上霊的に成長することはなくなります。一度救われた上で、キリスト教に対する迫害が止むまでという期限付きで信仰を捨て、再び信仰に立ち返るというオプションは、そもそも存在しないのです。

 

メシア拒否したユダヤ教に戻って、霊的に成長することはあり得ません。ヘブル5:12にあるように、霊的幼子だった彼らのオプションは、このままキリスト教にとどまって成長するか、ユダヤ教に戻って霊的に成長しない者となるかでした。
ユダヤ教に戻ったとしても、彼らが『救い』を失うわけではありません。

 

しかし、ユダヤ教に戻れば、AD70年のローマ軍によるエルサレム陥落に巻き込まれて命を失うことになります。霊的救いは失わなくても、地上でのいのちを失うことになるのです。


『悔い改め』を『救い』と解釈する者が多いですが、悔い改めは『考えを変える』という意味であって『救い』だけを意味するのではありません。

cf ルカ17:3~4、使徒2:38、Ⅱコリント7:9、ヘブル12:17等。

 

カデシュ・バルネアで出エジプトを体験した世代は『霊的に成長する』ことを放棄しました。cf 民数記14:1~10、14:22、

カデシュ・バルネアでの出来事 - サザエのお裾分け

彼らは、神のみことばを『信じていない・聞いていない』のです。cf 出エジプト23:27~31、33:1~3

彼らは、明らかに神の約束を信じていませんでした。
民数記14:4そして違いに言った。「さあ、私たちは、ひとりのかしらを立ててエジプトに帰ろう。」

 

ヘブル6:7~8は、1~6節で語られた内容を絵画的に表現し、人に与えられた祝福とそれを無視することへの非難を自然界の法則に例えています。

 

ヘブル6:7ー雨⇨地が吸い込む⇨人が耕す⇨農作物の祝福というように、すべての信者に注がれた神の祝福の雨(地…すべての信者、の意)⇨ある信者は『有用な実、作物』を生じ、ある信者は『無用ないばらやあざみ(呪いの象徴。肉の行ない、の意)を生えさせるのです。

 

すべての信者は、携挙の時に『キリストの裁きの座』で裁定され、報酬にあずかることになります。信者は『キリストの中/in Christ)』で祝福を受け、神の栄光のために有用な実を結ぶなら、メシア的王国(千年王国)での祝福に与るのです。

ルカ16:10小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。

ヘブル6:10神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。

 

ヘブル6:8ーしかし、6:11の『耳が鈍くなっている信者』は、ガラテヤ5:19~21にある『肉の行ない』、無用ないばらやあざみを生えさせるのです。
無用…不承認、拒否される、却下、失格、の意。

1コリント9:27私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。


キリストの裁きの座での裁定1コリント3:10~15

現代のクリスチャンへ 〜決算報告書を準備せよ〜 - サザエのお裾分け

 

神に火によって真価を試される時、結果としていばらやあざみ(信者ではなく、信者の行ない)は焼かれることになります。

一方、金・銀・宝石などは、火によって精錬されると、より一層輝きを増すようになるのです。

1コリント3:15もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。

信者自身が焼かれることはありません。『木・草・わら』の信者の働きが焼かれて却下されるのです。信者本人は、火の中をくぐるようにして救われます。失うのは、メシア的王国での報酬です。

 

ヨハネ15:6エスにとどまり、みことばを学び、行なう信仰生活を主は喜ばれます。

 

あなたは『御霊の実』を結んで、霊的成熟を目指していますか?