サザエのお裾分け

聖書を字義通り&文脈に沿って学び、理解したことの中からのお裾分け。内容は鵜呑みにせず、必ずご自分で聖書を開いて確認してくださいね。聖書理解の助けになれば幸いです。† 栄光在主 †

1ヨハネの手紙 1章

新約聖書の書簡は、全部で21巻あります。

そのうち、ローマ人への手紙〜ピレモンへの手紙までの13巻は、異邦人の使徒となったパウロによって『異邦人の教会』または『個人のキリスト者ピレモンー異邦人、または混血ーテモテ)』に宛てた手紙です。

 

ヘブル人への手紙〜Ⅱペテロの手紙とユダの手紙は、ユダヤ人信者(メシアニックジュー)に宛てて書かれた手紙です。ヘブル人への手紙は、作者不明。

 

1〜Ⅲヨハネの手紙も実は、著者が誰か明記されていません。

誰が受取人なのか、宛先も不明です。

ただ、『光とやみ、真理と偽り、義と不義、愛と憎しみ』などの書き方と内容が『ヨハネ福音書』を書いたヨハネと酷似していることから、伝統的に『ヨハネの手紙』と言われています。

 

この手紙はAD80-年代後半〜90年代始めに、アジアの諸教会宛てに書かれたもので、特定の教会に宛てた手紙ではないこと、またヨハネ福音書』が世界中の人々に『イエスが神の御子キリストであることを示すため』に書かれたことを考慮すると、著者はヨハネだと言われることに納得がいくと思います。この手紙は公同書簡と定義されています。

 

著者は、当時ギリシャ哲学から発生した『グノーシス主義』の影響を受け、キリストの受肉を否定した異端的教えから信者を守るために、この書簡を書いています。

 

グノーシス主義

グノーシスギリシャ語:『知識』『認識』の意。

ギリシャ哲学の影響を受けた一種の『思想運動』。

紀元1〜2世紀にかけて盛んで、教会を危機に追い込んだ異端。徹底した『霊・肉二元論』の立場で、霊ー純粋で神秘的、肉ー堕落したものとしました。

 

キリストは悪である肉体をとって来ることはできないため、仮の人間の姿で現れたとする『仮現説(ドケチズム)』を唱えていました。

肉を持つがゆえに人間が罪ある者であると考え、内面的な罪を認めることをせず、キリストの受肉を否定し、恵みと信仰による救いの教理を否定しました。

 

グノーシス主義の教えは、禁欲的、戒律的であり、霊的神秘性を強調するものであり、キリスト教の教えとはかけ離れた『異端』でした。パウロが書いた『コロサイ人への手紙』もこのグノーシス主義の教えの影響を受けていました。

 

 

ヨハネ1:1ー初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、

*初めからあったもの…永遠の昔から存在していた神。

創世記1:1初めに、神が天と地を創造した。

 

*私たち…イエスの公生涯を目撃した(十二)使徒たち、復活の主にお会いした使徒たち(主の兄弟ヤコブパウロなど)のこと。


*聞いた、目で見た、じっと見、また手でさわった…『十二使徒』の条件は、キリストのバプテスマから昇天までの目撃者であることですから、それが出来た『十二使徒』以外のヨハネは考え難いでしょう。


使徒1:21~22ーですから、主イエスが私たちといっしょに生活された間、

すなわち、ヨハネバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした者の中から、だれかひとりが、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません。

 

*いのちのことば…イエスご自身。

ヨハネ6:68ーすると、シモン・ペテロが答えた。「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。

 

 

ヨハネ1:2 ――このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのちです。――


*それを見たので、そのあかしをし…いのちであるキリストを見た上で、そのあかしをするように命じられたのは、イスカリオテ・ユダを除く十一使徒たちでした。


マタイ28:19~20ーそれゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、

また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」


*私たちに現された永遠のいのち…この方が、受肉して『人』となられたキリストです。

ヨハネ1:14ーことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

 

著者は、キリストの受肉を否定するグノーシス主義の教えを否定するために、キリストが人として来られたことを強調して証言しています。

 

 

ヨハネ1:3ー私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。

*私たち…『見たこと、聞いたこと』を伝えると言っているので、キリストの公生涯を共にした(もしくは、直接復活の主にお会いした)『使徒たち』を指していることをお忘れなく!

 

聖書に『私たち』とあると、すぐに現代のクリスチャンである自分たちのことだと勘違いして読み込む癖があるので、要注意です❗️

 

*私たちと交わりを持つグノーシス主義を支持する人たちは、使徒たちとのこの交わりから離れていきました。

現代を生きる私たちクリスチャンは、どのようにして『使徒たちとの交わり』を保つのでしょうか?

それは『使徒たちが書き残してくれた教え=新約聖書の書簡』を守ることによって可能です。それはまた、初代教会の教えでもあり『教会生活』の原点でもあります。

 

 

ヨハネ1:4ー私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。

*私たちの喜び…古い写本には『あなたがたの喜び』となっているものもあります。

つまり、この書簡の読者が『御父および御子イエス・キリストとの交わり』に入ることが、著者(使徒)たちの喜びとなり、また、現代のクリスチャンである私たち(あなたがた)の喜びになるのです。それは『主にある喜び』の一つです。

 

 

ヨハネ1:5ー神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。

*キリストから聞いて…著者は、自分の考えではなく『キリストから聞いたこと』を伝えています。そして、キリスト自身も御父から聞いたことを伝えられました。

ヨハネ8:26ーわたしには、あなたがたについて言うべきこと、さばくべきことがたくさんあります、しかし、わたしを遣わした方は真実であって、わたしはその方から聞いたことをそのまま世に告げるのです。

 

 

ヨハネ1:6ーもし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行ってはいません。

著者はここで『やみ』と『光』を比較しています。このような比較は、ヨハネ福音書の中に多く見られます。そのため、この書簡の著者は『十二使徒のひとり、ヨハネ』だと言われる理由です。

 

ヨハネ福音書では、『光』はキリストのこととして用いられています。

ヨハネ1:4~5ーこの方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。

光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。

 

ヨハネ3:19~21ー そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。

悪いことをするものは光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。

しかし、真理を行う者は、光のほうに来る。その行いが神にあってなされたことが明らかにされるためである。

 

これはまた、グノーシス主義者への批判にもなっています。彼らは『神との交わりがある』と言いながら、その『光』を反映することなく、使徒たちの教えから離れ、自分勝手に『やみ』の中の歩む堕落した生活をする人々でした。

 

ヨハネ1:7ーしかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

ユダヤ人たちは、イエスのメシアとしてのわざを見ても、イエスをメシアだと信じることはできませんでした。それは『神のことば』よりもユダヤ教の指導者たちの『人間の教え』を信じたからです。

ベルゼブル論争 〜マタイ12:22~28〜 - サザエのお裾分け

 

ヨハネ8:31~32ーそこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうに私の弟子です

そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。

 

 

ヨハネ1:8ーもし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。

*罪はないと言うならグノーシス主義の人たちは、キリストが罪を取り除けてくださったので「自分たちには、罪はない。」と主張していました。だから、肉体をどのように悪用しても、純粋な霊に影響を及ぼすことはないと考えていたのです。

 

しかし、キリストを信じて救われた者は、罪を赦されきよめらてはいるけれど、この世にある間はクリスチャンになってからも日々罪を犯す者であることには変わりはありません。だから、日々悔い改めの祈りが必要なのです。

ヨハネ13:10ーイエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」

*足を洗う…日々の悔い改め。

 

私たちクリスチャンには、二つの性質が宿っているのです。

キリスト者の「二つの性質」と「三つの救いの段階」 - サザエのお裾分け

 

 

ヨハネ1:9ーもし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

 *自分の罪を言い表すなら①自分の罪を認めること。

                   ②自分の罪を告白すること。

 

*ほとんどの場合、9節のみことばに従った時、神の赦しと同時に『神にある平安』が来ます。しかし、罪によっては祈っても祈っても平安が来ないことがあります。そのような時は、このみことばに従う必要があるのかもしれません。誰かのとりなしの祈りが必要なのかもしれません。

ヤコブ5:16ーですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。擬人の祈りは働くと、大きな力があります。

 

ヨハネ1:10ーもし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。

*罪を犯していない…過去においてどのような『罪』も犯したことがない、の意。

『罪がない』という人には、キリストの十字架の贖いの必要性はなくなります。

救いはまず、自らの罪を認めることからです。