サザエのお裾分け

聖書を字義通り&文脈に沿って学び、理解したことの中からのお裾分け。内容は鵜呑みにせず、必ずご自分で聖書を開いて確認してくださいね。聖書理解の助けになれば幸いです。† 栄光在主 †

不信者の責任と信者の責任

Q:どうしたら “クリスチャン” になれるのでしょうか?

未信者からこのような質問を受けることがありますよね!?

 

ある人は「教会に毎週通うように」と言うかもしれません。

また「信じて “バプテスマ” を受けるように」と言う人もいるかもしれません。

 

教会に毎週通うことが『クリスチャン』なのでしょうか?

信じてバプテスマを受けたら『クリスチャン』なのでしょうか?

 

聖書で言う『教会』とは、新約聖書が書かれたギリシャ語では『エクレシア』という『信者の集まり』を指す言葉です。『エクレシア』が一つの『地域教会』を指して使われている例はありません。

 

信者が集まる場所を指す『地域教会』は、ユダヤ教の会堂=ヘブル語の『シナゴーグ』からきています。

『地域教会』には、信者だけでなく、求道者も来ますし、またサタンから送られた反対者や異端信者など、キリストを信じる信仰の有無に関わらず、だれでも集うことができる場所です。

 

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またクリスチャンであっても、何らかの理由で『地域教会』に集えていない人もいます。ですから、教会に毎週日曜日に集うことにより、クリスチャンになるわけではありません。

 

では、バプテスマを受けたら『クリスチャン』になるのでしょうか?

いいえ、聖書は『信じること』が先だと教えています。

マルコ16:16ー信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。

 

初代教会時代『信じること』と『バプテスマを受けること』は、同日に行われました。

使徒8:35~37ーピリポは口を開き、この聖句から始めて、イエスのことを彼に宣べ伝えた。 

道を進んで行くうちに、水のあるところに来たので、宦官は言った。「ご覧なさい。水があります。私がバプテスマを受けるのに、何かさしつかえがあるでしょうか。

そして馬車を止めさせ、ピリポも宦官も水の中へ降りて行き、ピリポは宦官にバプテスマを授けた。

 

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『罪に定められる』のは、キリストを『信じない者』であって、『バプテスマを受けない者』ではありません。

しかし、水の中に入ることができない病人や飲料水が足りないなど、生命に関わる理由以外で、キリストを信じているのにバプテスマを受けないというのは、キリストの最初の命令に逆らっていることになり、みことばに従っていない信者ということになります。

 

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『クリスチャンになる』というのは、『キリストの福音を信じた時』であり、本当に信じた者は『バプテスマを受ける』ことが、最初にキリストの命令に従うことになるのです。

キリストを信じるとは、聖書の三位一体の神の第二位格である『キリストの福音』ー1コリント15:3~4を信じることです。

 

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神の恵みは、御子イエスの十字架の贖いがすべての人に有効であるということ。

ヨハネ3:16ー神は、実に、そのひとり子をお与になったほどに、世を愛された。それは、御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 

人間(不信者)の責任は、この神からのみことばの招きに、正しく応答することです。それは神との関わりを持たず、神との関係を無視し、自分勝手に生きてきた生き方を止め、神との正しい関係の中に入ることを意味します。この決断をした者を、神は『選び』、『救われる』のです。そして救われた者のたましいは、たとえ肉体が滅びても、やがて新しい栄光のからだをいただき、神の御国で永遠に生きるという特権が与えられるのです。

 

 

Q:福音を聞くことなく亡くなった親族、知人はどうなるの?

Q:アフリカ等、また福音を聞く機会すら与えられてなく、紛争などで犠牲になる人でも死んだら “地獄” というのは、愛の神だとは思えないんだけど…。

これらは、伝道すると必ずと言っていいほど質問されることですよね。


大切なのは、『私』や『あなた』がどう感じるか?ではなく、聖書が何と言っているか?です。

ルカ16章『金持ちとラザロ』の譬え(個人名があるので、実話ということはあまりしられていないけど…)からもわかるように、死後にセカンドチャンスはありません。

 

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聞いていないこと、知らないことに、神から責任を問われることはありません。

ユダヤ人には『キリストへ導く養育係』としてのモーセの律法が与えられていますが、ユダヤ人以外には律法は与えられていないので、同じ基準では裁かれないという意味です。

 

ローマ2:14~15ー律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをするばあいは、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。

彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。ー

 

ノアの洪水以降、『良心の時代』になりました。ですから、福音を聞くことなくなくなった人々は、『福音を聞いたことがなかった』という条件のもと、その人の『良心』に基づいて裁かれることになるのです。

 

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聞いていない事柄からではなく、ローマ1章から自然界を見て(一般啓示)創造主を求める者には、神は何らかの方法で『福音』を届けてくださいます。

 

ローマ1:19~20ーなぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。

神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。

 

ローマ1:28ーまた、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。

(言っても言っても言うことを聞かない子どもに「もう勝手にしなさい。」と叱る親のようですね。^^;)

 

ローマ10:12ユダヤ人とギリシャ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。

 

すでに亡くなった人々の救いを考える術はありません。神様の御手にお委ねすることです。
生きている人々に関しては『信仰はキリストについてのみことばを聞くことから始まる』ので、私たちは伝道するのです。

 

ローマ10:17ーそのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。

 


Q:福音を信じた後、クリスチャンなのに自殺する人は本当に救われてはいなかったということなのでしょうか?

この質問は時々、クリスチャンから聞かれますね。


神様は一人一人にご計画をお持ちです。
パウロがまだ『サウロ』と呼ばれ、パリサイ人としてクリスチャンを迫害していた『不信者』の時でさえ、主は次のように言われました。


使徒9:15~16ーしかし、主はこう言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。
彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。」

 

キリストの弟子たちを迫害し苦しめていたサウロ(パウロ)は、『キリストの名のために』苦しむパウロとされるというご計画がありました。

 

しかし人生半ばで自ら命を絶ってしまうと、神様のその人に対するご計画も途中で頓挫してしまいます。その責任は問われ、御国での報酬は減らされる結果となるでしょう。しかし、その人が本当に『キリストの福音』を信じていたのであれば、たましいの救いを失うことはないのです。

 

クリスチャンであっても生身の人間ですから、時に誘惑に勝てずに誤った判断をしてしまうことがあります。『肉体の死』はサタンによってもたらされたものであり、キリストの最後の『敵』です。

 

 

しかし、誤った判断により自らの死を選んでしまったとしても、その人のたましいが救いを失うわけではありません。

1コリント5:5ーこのような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。

 

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たましいの救いは『信仰』によるものであって、『行い』によって得るものではありません。

 

エペソ2:8~9ーあなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

 

しかし信じた後、どれだけみことばに従順であったかによって報酬が決まるのです。

みことばに従順であれば、それが『良い行ない』となってあらわれます。

 

エペソ2:10ー私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。

 

人が救われて、永遠のいのちを得るために必要なのは、良い行いではなく『キリストの福音』を信じる信仰です。しかし信じた後は、キリストに属する者としてキリストの戒めを守る必要があります。これが、『信者の責任』です。

 

ヨハネ14:23~24ーイエスは彼に答えられた。「だれでも、わたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、私たちはその人のところに来て、その人とともに住みます。

わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わした父のことばなのです。

 

十字架の贖いにより救ってくださったキリストを愛する者は、キリストのことばを守ることによりその愛を示すのです。

キリストのことばを守り、行いの伴う信仰こそが『生きた信仰』だからです。


ヨハネ14:24ーわたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わした父のことばなのです。

主の異父兄弟ヤコブもこのことを書簡に記しています。
  

不信者の場合は、生前どれだけ福音を聞き、どれだけ拒否したかにより『大いなる白い御座の裁き』で罪の重軽が決められることになります。

だからこそ、不信者は、神のみことばに正しく応答する必要があり、それが不信者の責任だということです。

正しい応答とは、キリストについてのみことば(福音)を、素直に受け入れ、信じることです。


義認…キリストの福音を信じた時。(正しい応答が、不信者の責任)
聖化…信じた後、みことばを学び、みことばに従い、行いの伴う信者へと成長する過程。(キリストのみことばに従うことが、信者の責任)
栄化…キリストと同じ栄光のからだに変えられること。(信者は、神によって変えられます)

『義認』だけで成長しないクリスチャンは、霊的幼子のままなのです。

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