ピリピ3:1ー最後に、私の兄弟たち。主にあって喜びなさい。前と同じことを書きますが、これは、私には煩わしいことではなく、あなたがたの安全のためにもなることです。
パウロは『主にあって喜ぶ』ことが、ピリピの信者たちの『安全のため』にもなると記しています。
*主にあって喜ぶ…主とは、キリスト・イエスのことです。この書簡が書かれたのは、AD61年頃ですから、主イエスは復活後、すでに天に帰っておられました。では、どうしたら『主にあって喜ぶ』ことができるのでしょうか?
それは、神のみことばに堅く立つことによってです。聖書のみことばこそ、神であり、救い主であられる御子イエスそのものなのですから…。
ヨハネ1:1ー初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
ヨハネ1:14ーことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
*安全のため…当時、「イエスをメシアとして信じるだけでは不十分であり、アブラハム契約のしるしである割礼を受けなければ救われない(一部のユダヤ人たちは、異邦人信者にユダヤ人のようになるように)」という『ユダヤ主義者』と呼ばれる誤った教えが入り込んで来ていました。
ピリピ3:2ーどうか犬に気をつけてください。悪い働き人に気をつけてください。肉体だけの割礼の者に気をつけてください。
*犬、悪い働き人、肉体だけの割礼の者…『犬』は異邦人を指すことばとして用いられていましたが、ここでパウロは『ユダヤ主義者』の者たちを指して使っています。
マタイ15:26ーすると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」と言われた。
マルコ7:27~28ーするとイエスは言われた。「まず子どもたちに満腹させなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。
しかし女は答えて言った。「主よ。そのとおりです。でも、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます。」
ユダヤ主義者たちは、キリストの福音に触れながらも元のユダヤ教の教えに戻って行ったのです。
箴言26:11ー犬が自分の吐いた物に帰って来るように、
愚かな者は自分の愚かさを繰り返す。
『悪い働き人』…キリストの福音を受け入れ、その十字架の贖いによる罪の赦し、罪からの解放、喜びを救われた人々から奪い、元の律法の教えに引き戻そうとする働きをしているからです。彼らは以下のことを理解していませんでした。
ローマ10:4ーキリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。
ガラテヤ3:3:8~10ー聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される。」と前もって福音を告げたのです。
そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。
というのは、律法の行ないによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。「律法の書に書いてある、*すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」*すべてのこと…律法は全部で613あります。
『肉だけの割礼の者』…神の契約の民として生まれたユダヤ人たちは、アブラハム契約のしるしの『割礼』の傷を持ち、『神の選びの民である』ということを誇りに思っていました。しかし、心に割礼のないままでは神に喜ばれることはないのです。
ローマ2:29ーかえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。
ガラテヤ5:6ーキリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。
ガラテヤ6:12ーあなたがたに割礼を強制する人たちは、肉において外見を良くしたい人たちです。彼らはただ、キリストの十字架のために迫害を受けたくないだけなのです。
しかし、パウロは本当の信者に対しこう教えています。
ピリピ1:29ーあなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです。
それは、イエスも教えられたことでした。
ヨハネ15:20ーしもべはその主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。もし彼らがわたしのことばを守ったなら、あなたがたのことばをも守ります。
ピリピ3:3ー神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。
現代版ユダヤ主義のように、モーセの律法に一部をあたかも今でも有効であるかのように『什一献金』や『断食』、『〜をしないと救われているかどうかわからない』などと行ないを強制して来る人がいます。
しかし、聖書が教える『救い』は、神が備えてくださった、御子イエスの十字架による贖いの死、葬り、復活を『信じる』者に、無条件で提供されるものであり、救われるための『良い行ない』は必要ありません。だからこそ『恵み』なのです。
エペソ2:8~10ーあなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
行ないによるのではありません。だれも誇らないためです。
私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。
*良い行ない…みことばに聞き従うことが、結果として『良い行ない』となります。
御子イエスを信じた時に『救い』は得ています。そこに何かを付け加える者は、この恵みを薄めてしまっており、肉の行ないで救いを完成させようという誤解をしています。
『断食』については、こちらを参考にしてください。
惑わされないようにするためには、
①主にあって、喜ぶこと…ピリピ3:1。
②違ったことを教える者に気をつけること…使徒17:11。
③神の御霊によって礼拝すること…ピリピ3:3。
④人間的なものを頼りにしないこと…ピリピ3:3。