サザエのお裾分け

聖書を字義通り&文脈に沿って学び、理解したことの中からのお裾分け。内容は鵜呑みにせず、必ずご自分で聖書を開いて確認してくださいね。聖書理解の助けになれば幸いです。† 栄光在主 †

不信仰な私をお助けください 〜マルコ9:14~29〜

この出来事の直前に『山上での変貌』の出来事がありました。cf マルコ9:1~13

 

マルコ9:14ーさて、彼らが、弟子たちのところに帰って来て、見ると、その回りに大ぜいの人の群れがおり、また、律法学者たちが弟子たちと論じ合っていた。

 

*彼ら…ペテロ、ヤコブヨハネ。この三人が『山上での変貌』の目撃者です。

マルコ9:2ーそれから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。そして彼らの目の前で御姿が変わった。 

 

*弟子たち…イエスと一緒に山にいかなかった9人の弟子たち。

 

 

マルコ9:15ーそしてすぐ、群衆はみな、イエスを見ると驚き、走り寄って来て、あいさつをした。

 

*イエスを見ると驚き…イエスを求めて集まってきたはずなのに、イエスはその時いなかった。そこに突然イエスが戻って来たことに驚いたのでしょう。

 

*走り寄って来て…人々のイエスを求める姿勢。

 

 

マルコ9:16ーイエスは彼らに、「あなたがたは弟子たちと何を議論しているのですか」と聞かれた。

 

*「あなたがたは弟子たちと何を議論しているのですか」全知全能なる神の御子はすべてご存知ですが、こう質問することにより、人々に問題点をはっきりさせるという意味があったのかもしれません。 

息子の苦しみを抱えた父親を前に、群衆は弟子たちと議論していたのですから…。 

 

 

マルコ9:17ーすると群衆のひとりが、イエスに答えて言った。「先生。口をきけなくする霊につかれた私の息子を、先生のところに連れて来ました。

 

 *口をきけなくする霊…他の福音書では、別な表現がされています。

マタイ17:15ー「主よ。私の息子をあわれんでください。てんかんで、たいへん苦しんでおります。何度も何度も火の中に落ちたり、水の中に落ちたりいたします。

 

ルカ9:39ーご覧ください。霊がこの子に取りつきますと、突然叫び出すのです。そしてひきつけさせてあわを吹かせ、かき裂いて、なかなか離れようとしません。

 

 

マルコ9:18ーその霊が息子にとりつくと、所かまわず彼を押し倒します。そして彼はあわを吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせます。それでお弟子たちに、霊を追い出すよう願ったのですが、できませんでした。」

 

この人の息子の症状は

*所かまわず押し倒し…何度も何度も火の中に落ちたり、水の中に落ちたり

*あわを吹き…あわを吹かせ

*歯ぎしりして、からだをこわばらせひきつけさせて 

 

*お弟子たちに、霊を追い出すよう願ったのですが、できませんでした…この時、この父親はどのような気持ちだったでしょう?

 

落胆している時に、突然イエスが戻って来られたということに、この父親はどのような気持ちになったでしょう?

 

エスの弟子たちは、私たちと同じく100%人間です。

しかし、イエスは100%人間であると同時に、100%神であられます。

このみことばを思い出しますね。

ルカ18:27ーイエスは言われた。

「人にはできないことが、神にはできるのです。」

 

 

マルコ9:19ーイエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。その子をわたしのところに連れて来なさい。」

 

*ああ、不信仰な世だ…メシアが来られ、共におられるのに『信じる』ということができなかった人々に対する主の嘆き。

 

マタイでは、弟子たちに対しても嘆かれています。

マタイ17:20ー イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。

 

*その子をわたしのところに連れて来なさい…このことばを聞いた時の、この父親はどんな気持ちだったでしょう?

 

私たちは何か問題を抱えた時、人のところにそれを持っていくべきでしょうか?それとも、イエスのところに直接持っていくべきでしょうか?

 

 

マルコ9:20ーそこで、人々はイエスのところにその子を連れて来た。その子がイエスを見ると、霊はすぐに彼をひきつけさせたので、彼は地面に倒れ、あわを吹きながら、ころげ回った。

 

*霊…イエスのところに連れて来られた子を、すぐにひきつけさせるこの『霊』はどこから来ていると思いますか?背後で働いているのは、誰でしょう?

 

彼は地面に倒れ、あわを吹きながら、ころげ回った…自分の愛する子どもが、このような状態になったのを見る親の心情はどのようなものでしょう?

 

 

マルコ9:21ーイエスはその子の父親に尋ねられた。「この子がこんなになってから、どのくらいになりますか。」父親は言った。「幼い時からです。

 

*幼い時から福音書には、この時点でこの子が何歳くらいだったのかは明記されていませんが、イスラエルでは13歳で『バル・ミツバ』という成人式がありますから、すくなくとも12歳以下でした。ですから、10年近くこのような状態だったことが想像できます。 

 

 

マルコ9:22ーこの霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」

 

*彼を滅ぼそう… 悪霊は、自分たちがやがて永遠の滅びである『ゲヘナ』に行くことを知っています。だから、人が救われることを妨害するのです。

 

*火の中や水の中…マタイの記述と一致しています。cf マタイ17:15

 

*もし、おできになるものなら…この父親の言葉には、イエスをどのような方と捉えていたでしょう?なぜ、彼はこのように言ったのでしょう?

 

 

マルコ9:23ーするとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」

 

*「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです」 …このことばが自分に向けられているとしたら、どのように感じますか?

 

私たちが祈る時、『できるものなら…』という思いはないでしょうか?

 

神の御心に沿った祈りは、必ずきかれると信じているはずのクリスチャンに、このような『疑いの心』が起こる時は、みことばを土台にした祈りになっていない、自己中心の祈りの時が多い気がしませんか?

ヤコブ4:3ー願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。

 

 

マルコ9:24ーするとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」

 

*「信じます。不信仰な私をお助けください。」…私たちも『できるものなら…』という不信仰な思いから、考え方を変えて(悔い改めて)「人にはできないことが、神にはできるのです。」と、信仰告白をしつつ歩んでいきたいですね。

 

 

マルコ9:25ーイエスは、群衆が駆けつけるのをご覧になると、汚れた霊をしかって言われた。「口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊。わたしがおまえに命じる。この子から出て行け。二度とこの子に入るな。」

 

*駆けつける…群がり寄って来る、の意。 

 

*汚れた霊…堕天使。聖なる御使いとして造られた存在でしたが、サタンに組みして堕天使となった者たち。

osusowake.hatenablog.com

 

*口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊…当時の悪霊の追い出し方としては、名前を聞き出し、その名を呼んで出て行くように命じていました。しかし、耳が聞こえず、口もきけない人の場合、悪霊の名前を聞き出すことは出来ず、指導者たちには不可能だったのです。そのため、彼らは「耳が聞こえず、口もきけない人から悪霊を追い出すのは、メシアしか出来ない『メシアのわざ』だ。」と人々に説明していました。

 

*わたしがおまえに命じる…このように言われるイエスとは、どういうお方でしょうか?

 

 

マルコ9:26ーするとその霊は、叫び声をあげ、その子を激しくひきつけさせて、出て行った。するとその子が死人のようになったので、多くの人々は、「この子は死んでしまった」と言った。

 

*その霊は〜出て行った…弟子たちの追い出しには応じなかった悪霊が、イエスの一言で出て行きました。この悪霊は、イエスをどういうお方だと捉えていたのでしょう? 

『敵』であるはずの悪霊でさえ、イエスの命令に従うということに、この世界は最終的に誰の支配下にあると思いますか?

 

 

マルコ9:27ーしかし、イエスは、彼の手を取って起こされた。するとその子は立ち上がった。

 

*彼の手を取って起こされた…このイエスの行動には『愛♡』がありますね。

 

 

マルコ9:28ーイエスが家に入られると、弟子たちがそっとイエスに尋ねた。「どうしてでしょう。私たちには追い出せなかったのですが。」

 

弟子たちには、何が欠けていたのでしょう? 

 

マルコ9:29ーすると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」

 

*祈りによらなければ…私たちも『自力』で何かをするのではなく、祈りにより、主に依り頼んで物事を主と共に行うことが出来ますように。

 

「主よ。不信仰な私をお助けください。」

アーメン。

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