サザエのお裾分け

聖書を字義通り&文脈に沿って学び、理解したことの中からのお裾分け。内容は鵜呑みにせず、必ずご自分で聖書を開いて確認してくださいね。聖書理解の助けになれば幸いです。† 栄光在主 †

神の小羊としての吟味〜マルコ11:27~33〜

出エジプト記12:6~7ーあなたがたはこの月の十四日までそれをよく見守る。そしてイスラエルの民の全集会は集まって、夕暮れにそれをほふり

その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに、それをつける。

 

イエスは過越の祭りで屠られる『神の小羊』として、火曜日〜十字架まで『よく見守る=吟味され』ました。

吟味しに来たのは、祭司長、律法学者、民の長老たちでした。

 

マルコ11:27~33は、エルサレム入城後三日目、火曜日の出来事です。

 

 

マルコ11:27ー彼らはまたエルサレムに来た。イエスが宮の中を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちが、イエスのところにやって来た。

 

*彼ら…イエスと十二弟子たち。

 

*宮の中…神殿域。

 

 

マルコ11:28ーそして、イエスに言った。「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにこれらのことをする権威を授けたのですか。」

 

祭司長、律法学者、長老たちの質問は二つ。

①何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。

②だれが、あなたにこれらのことをする権威を授けたのですか。

 

*これらのこと…マルコの福音書によれば、イエスはエルサレム入城後、宮に入りし、すべてを見て回り、前日の月曜日に宮きよめをされています。

 

マルコ11:11ーこうして、イエスはエルサレムに着き、宮に入られた。そして、すべてを見て回った後、時間ももうおそかったので、十二弟子といっしょにベタニヤに出て行かれた。

 

マルコ11:15~16ーそれから、彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮に入り、宮の中で売り買いしている人々を追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒し、

また宮を通り抜けて器具を運ぶことをだれにもお許しにならなかった。

 

 

マルコ11:29ーそこでイエスは彼らに言われた。「一言尋ねますから、それに答えなさい。そうすれば、わたしも、何の権威によってこれらのことをしているかを、話しましょう。

 

イエスは彼らの質問に、質問で答えられています。

正しい心で神を求めていない人からの質問には、効果的かもしれません。

 

 

マルコ11:30ヨハネバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか。答えなさい。」

 

イエスの質問は、バプテスマのヨハネの権威がどこから来たのかということでした。

天からなのか…?

人にからなのか…? 

 

 

マルコ11:31ーすると、彼らは、こう言いながら、互いに論じ合った。「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったかと言うだろう。

 

*天から…神から、の意。

彼らは、バプテスマのヨハネのことも受け入れていなかったので、「天から」とは答えられなかったのです。

バプテスマのヨハネが世に現れた頃、パリサイ人、祭司、レビ人たちはヨハネのもとに来て吟味しています。ヨハネ1:19~28

 

 

マルコ11:32ーだからといって、人から、と言ってよいだろうか。」――彼らは群衆を恐れていたのである。というのは、人々がみな、ヨハネは確かに預言者だと思っていたからである。

 

 

*人から…群衆は、バプテスマのヨハネのことを『預言者』だと思っていたので、「人から」と答えることはできませんでした。

なぜなら、この時はまだ十字架前の旧約時代だったので(十字架〜ペンテコステまでは、旧約時代から教会時代への移行期)、祭司、王、預言者は神によって立てられ、油そそがれた者となったからです。 

 

 

マルコ11:33ーそこで彼らは、イエスに答えて、「わかりません」と言った。そこでイエスは彼らに、「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい」と言われた。

 

*わかりませんバプテスマのヨハネの権威を認めず、信じなかった彼らは「天から」とも「人から」とも、答えようがありませんでした。

 

バプテスマのヨハネの権威を認めようとも、信じようともしない彼らに、より優れた『神の御子の権威』について語っても、受け入れることはできません。

彼らが認めるのは、ただ自分たちの権威ー自己義認ーだけです。

キリストを認め、受け入れるには、謙遜さが必要です。

 

クリスチャンは、特別に何かができるわけでもなく、特別に精神的に強いわけでもありません。

自分が罪人であり、足りない者であることを認めた上で、キリストの十字架の贖いを必要としている人々であり、キリストのみわざにより、それを信じる信仰により、神に『義』と認められているということを知っている人々です。

時に傷つき、時に落ち込むことはあっても、どんな時にも主が共にいてくださり、すべてを益に変えてくださるということを知っている人々です。

そして、それらはすべて、申し分のない『神の小羊』なる御子の十字架の贖いと復活のゆえなのです。

 

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