イエスが、神の国を『種蒔きのたとえ』で群衆に語られたことは、共観福音書すべてにーマタイ13章、マルコ4章、ルカ8章ー記されています。
しかし、イエスはその解き明かしをいつも付き従っていた弟子たちになされましたーマルコ4:10。
それは、ユダヤ人たちは『民族として』すでにメシアのわざを『悪霊どものかしらベルゼブルの力による』としてイエスを退けたため、神の国の奥義はそれを求める一部の人々にのみ明らかにされたためです。
イエスは『求める者たち』に対して、丁寧に説明されています。
『種蒔きのたとえ』の解説の後、21~23節では『あかりのたとえ』、24~24節では『量り』でたとえ、そしてここでは『種』でたとえられています。
私たちも主に『求める者』でありたいですね。
マルコ4:26ーまた言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、
*神の国…旧約時代は、地上の『メシア的王国=千年王国』を指して用いられたことば。 イエスの初臨時のユダヤ人たちに、『神の国』は提供されていました。彼らが神の約束の民として律法と預言書が与えられ、『イスラエル民族としてメシアを受け入れること』が、神の国の到来の条件だったのです。
*種…みことば。この時点では、まだキリストの十字架、復活前なので、旧約聖書のメシア預言がイエスにおいて成就しているということを知ること。
ルカ24:44ーさて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」
十字架の贖いのみわざがなされ、種が復活された今、私たちが信じる『福音』は
①キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと
②また、葬られたこと
③聖書に従って、三日目によみがえられたことです。
マルコ4:27ー夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。
蒔かれた『福音の種』は、ひとりでに芽を出します。
種の内部にエネルギーがあるので、新芽を生み出すのです。
私たちは種を蒔いた後、日々どれほど成長したかと土を掘り起こして確認したりしませんよね。蒔いた後は、芽が出るのを楽しみに待つだけです。
*育つ…神は、人がメシアを信じるだけでなく、信じた人が『育つ』ことを望まれています。
マルコ4:28ー地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実が入ります。
*人手によらず…種が芽を出すことは、蒔く人に頼るのではないように、『福音』そのものが神の力なのです。
1コリント3:6~7ーわたしが植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。
それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。
*初めに苗…霊的幼子。福音を信じたばかりの者。
*次に穂…みことばの乳(神に対する基礎的知識)から離乳食・お子様ランチへの段階。
*穂の中に実が入り…堅い食物を食せる霊的大人となり、御霊の実を結ぶ人。
ヘブル5:12~14ーあなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。
まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。
しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。
ガラテヤ5:22~23ーしかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
マルコ4:29ー実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」
*収穫の時…教会時代の異邦人信者の数が満ちた時、神は御使いを送って信者を刈り取ります。これが『携挙』です。
現在はこの『携挙』を前に、神の収穫に与る人々をひとりでも多く増やすように、また豊かな御霊の実を結ぶ信者が増えるようにと祈りつつ、主の働きに奉仕する時なのです。