『礼拝』の中心は何でしょう?
ある人は困難の中で慰めを、ある人は苦しみの中で励ましを求めているかもしれません。また、別な人は喜びの中で感謝を捧げに集まって来ているかもしれません。
慰めや励ましは、神のことばを聞き、理解し、心に響く時に得られます。
感謝の祈りを捧げる対象は、喜びをくださった神に対してです。
南ユダ王国の民は、律法をくださった神に対する信仰から反れ、偶像の神々を慕い、七年に一度の『土地の安息』を70年分守らなかったために、70年間バビロン捕囚となりました。
バビロニア帝国がメド・ペルシャ連合帝国に倒されると、ペルシャの王クロスによって帰還命令が出されます。クロス王は、ユダヤ人を捕囚から解放し、エルサレムと神殿の再建命令を出した、旧約時代の異邦人で唯一『油そそがれた者』となった人物です。
イザヤ45:1ー主は、油そそがれた者クロスに、
こう仰せられた。
「わたしは彼の右手を握り、
彼の前に諸国を下らせ、
王たちの腰の帯を解き、
彼の前にとびらを開いて、
その門を閉じさせないようにする。
エズラ1:1~4ーペルシャの王クロスの第一年に、エレミヤにより告げられた主のことばを実現するために、主はペルシャの王クロスの霊を奮い立たせたので、王は国中におふれを出し、文書にして言った。
「ペルシャの王クロスは言う。『天の神、主は、地のすべての王国をわたしに賜わった。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることを私にゆだねられた。
あなたがた、すべて主の民に属する者はだれでも、その神がその者とともにおられるように。その者はユダにあるエルサレムに上り、イスラエルの神、主の宮を建てるようにせよ。この方はエルサレムにおられる神である。
残る者はみな、その者を援助するようにせよ。どこに寄留しているにしても、その所から、その土地の人々が、エルサレムにある神の宮のために進んでささげるささげもののほか、銀、金、財貨、家畜をもって援助せよ。』」
バビロンに捕囚として捕らわれていた間に、ユダの人々は悔い改め、偶像の神々からイスラエルの神に立ち返りました。
途中で妨害によって中断されたこともありましたが、民はエルサレムの町と神殿を再建しました。
ネヘミヤ7:72bーイスラエル人は自分たちの町々にいたが、第七の月が近づくと、
*第七の月…『チスリの月』ー秋の祭り三つが、すべてこの月に行われるため、大事な月でした。
・1日ーラッパの祭り『ロシュ・ハシャナー』
・10日ー贖罪の日『ヨム・キプール』
・15日ー仮庵の祭り『スコット』
ネヘミヤ8:1ー民はみな、いっせいに、水の門の前の広場に集まって来た。そして彼らは、主がイスラエルに命じたモーセの律法の書を持って来るように、学者エズラに願った。
*いっせいに…『ひとりの人のように』の意。
私たち信者が御霊の一致を保つことは、敵(サタン)が一番嫌がること。
*水の門の前の広場で…神殿ではなく、エルサレムの城壁の東側にある『水の門』の前の広場。民はそこに集まって来て、“神の律法の書を持って来るように学者エズラに願った” ほど、みことばに飢え渇きを覚えていたのです。
『みことば』こそ、神が与えてくださる『いのちの水』です。
ヨハネ4:14ーしかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。
*モーセの律法の書…有名な『十戒』は、律法全体の中の最初の十の戒め。
『律法の書=Torah(トーラー)』は、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の『モーセ五書』を指し、全部で『613』あります。
その内訳は、『365の禁止命令』と『248の積極的命令』になっています。
その中には、新約時代になって『キリストの愛の律法』と被るものもあるため、モーセの律法を『祭儀律法・社会律法・道徳律法』の三つに分けて、『道徳律法だけは、現在でもまだ有効』だと考える人々がいます。
しかし『モーセの律法』はキリストの十字架の死をもって終了していますので、同じ命令がキリストによって新たに与えられたと理解すべきです。
*学者エズラ…学者(律法の教師)であり、大祭司ヒルキヤの子孫であり、祭司(レビ族)。
エズラ記7:1ーこれらの出来事の後、ペルシャの王アルタシャスタの知性にエズラという人がいた。このエズラはセラヤの子、順次さかのぼって、アザルヤの子、ヒルキヤの子、
エズラ記7:11aーアルタシャスタ王が、祭司であり、学者であるエズラに与えた手紙の写しは次のとおりである。
ネヘミヤ8:2ーそこで、第七の月の一日目に祭司エズラは、男も女も、すべて聞いて理解できる人たちからなる集団の前に律法を持って来て、
*第七の月の一日目…ラッパの祭り(ロシュ・ハシャナー)の日。 ラッパを吹いて、聖なる会合を開く日。
第七の月の第一日は、あなたがたの全き休みの日、ラッパを吹き鳴らして記念する聖なる会合である。
*男も女も、すべて聞いて理解できる人たち…おそらく13歳以上の成人男女と思われます。
ネヘミヤ8:3ー水の門の前の広場で、夜明けから真昼まで、男や女で理解できる人たちの前で、これを朗読した。民はみな、律法の書に耳を傾けた。
*夜明けから真昼まで…イスラエルでは、一日を大きく三つ(更に、“夕” を『日が傾いてから日没まで』と『日没〜暗くなるまで』の二つにした四分割)に分けていました。『夜明けから真昼』は、約6時間を費やしています。
詩篇55:17ー夕、朝、真昼、私は嘆き、うめく。すると、主は私の声を聞いてくださる。
*民…男や女で理解できる人たち
*律法の書に耳を傾けた…神のみことばに耳を傾けた。
ネヘミヤ8:4ー学者エズラは、このために作られた木の台の上に立った。彼のそばには、右手にマティテヤ、シェマ、アナヤ、ウリヤ、ヒルキヤ、マアセヤが立ち、左手にペダヤ、ミシャエル、マルキヤ、ハシュム、ハシュバダナ、ゼカリヤ、メシュラムが立った。
*木の台の上…特設ステージ
*マティテヤ、シェマ、アナヤ、ウリヤ、ヒルキヤ、マアセヤ、ペダヤ、ミシャエル、マルキヤ、ハシュム、ハシュバダナ、ゼカリヤ、メシュラム…計12人。これらの人々は『民の長老たち』と思われます。
ネヘミヤ8:5ーエズラはすべての民の面前で、その書を開いた。彼はすべての民よりも高い所にいたからである。彼がそれを開くと、民はみな立ち上がった。
*その書…モーセの律法の書
*高い所…木の台の上
*民はみな立ち上がった…『モーセの律法の書』に対する敬意を表す行為。
ネヘミヤ8:6ーエズラが大いなる神、主をほめたたえると、民はみな、手を上げながら、「アーメン、アーメン」と答えてひざまずき、地にひれ伏して主を礼拝した。
*アーメン…神のみことばに対し「そうです」「そのとおりです」「従います」と同意を表明することば。
聖書の中で初めて「アーメン」ということばが出て来るのは、申命記27:15。そこで禁じられているのは、モーセの十戒の第二戒と同じく『偶像崇拝(に繋がる)禁止命令』。
申命記27:15ー「職人の手のわざである、主の忌みきらわれる彫像や鋳像を造り、これをひそかに安置する者はのろわれる。」民はみな、答えて、アーメンと言いなさい。
*地にひれ伏して…礼拝行為
バビロン捕囚で悔い改めた民は、律法を与えてくださったまことの神を礼拝した。
ネヘミヤ8:7ーヨシュア、バニ、シェレベヤ、ヤミン、アクブ、シャベタイ、ホディヤ、マアセヤ、ケリタ、アザルヤ、エホザバデ、ハナン、ペラヤなどレビ人たちは、民に律法を解き明かした。その間、民はそこに立っていた。
*レビ人…祭司たちが民に『律法を解き明かした』
*その間、民はそこに立っていた…民はずっと『律法』に敬意を払いつつ聞いていた。
ネヘミヤ8:8ー彼らが神の律法の書をはっきりと読んで説明したので、民は読まれたことを理解した。
礼拝の中心は『神』であり、
説教とは
①『神のみことば』を読み
②(祭司たち/指導者たち)が、その意味を解き明かし
③聞いている民が理解することが大事。
詩篇138:2ー私はあなたの聖なる宮に向かってひれ伏し、
あなたの恵みとまことを
あなたの御名に感謝します。
あなたは、ご自分のすべての御名のゆえに、
あなたのみことばを高く上げられたからです。
聖歌隊や特別賛美が目立ち過ぎるのではなく、重点は『神』にあり、『神のみことば』にあります。
教会での礼拝の中で、『神のみことば』がちゃんと解き明かされているでしょうか?
いつまで経ってもみことばの解き明かしに入らず、世間話や説教者の個人的見解ばかりが語られたりしてないでしょうか?
みことばを聞く私たちはどうでしょう?
学者エズラに律法を読むように願ったこの時の民のように、みことばに対する飢え渇きを持って、神の御前に出て行っているでしょうか?
説教の間に居眠りしたり、何か他のことを考えたりしてはいないでしょうか?
他の信徒仲間との交わりだけを求めてはいませんか?
説教者も私たち信徒側も、今一度原点に戻り、主に喜ばれる礼拝を捧げられますように。
ネヘミヤ8:9ー総督であるネヘミヤと、祭司であり学者であるエズラと、民に解き明かすレビ人たちは、民全部に向かって言った。「きょうは、あなたがたの神、主のために聖別された日である。悲しんではならない。泣いてはならない。」民が律法のことばを聞いたときに、みな泣いていたからである。
*総督であるネヘミヤ… バビロニア帝国を倒し、次に統治したペルシャ帝国の王アルタシャスタの献酌官であった。エルサレムの城壁再建の総督。
*民が律法のことばを聞いたときに、みな泣いていた…神のみことばを聞き、理解した時に心が探られ、悔い改めへと導かれるため。
ネヘミヤ8:10ーさらに、ネヘミヤは彼らに言った。「行って、上等な肉を食べ、甘いぶどう酒を飲みなさい。何も用意できなかった者にはごちそうを贈ってやりなさい。きょうは、私たちの主のために聖別された日である。悲しんではならない。あなたがたの力を主が喜ばれるからだ。」
*上等な肉…脂ののった肉。
*何も用意できなかった者…貧しさゆえに、上等な肉も甘いぶどう酒も用意できなかった者。
*あなたがたの力を主が喜ばれるからだ…別訳:主を喜ぶことは、あなたがたの力であるから。
(脚注に『別訳』があるとき、往々にして別訳の方が良訳なのはなぜでしょ!? ^^;)
ネヘミヤ8:11ーレビ人たちも、民全部を静めながら言った。「静まりなさい。きょうは神聖な日だから。悲しんではならない。」
*民全体を静めながら…みことばにより良心が探られ、また捕囚の時の苦しみ等を思い出し、泣いている民が大勢いたのでしょう。
ネヘミヤ8:12ーこうして、民はみな、行き、食べたり飲んだり、ごちそうを贈ったりして、大いに喜んだ。これは、彼らが教えられたことを理解したからである。
*大いに喜んだ…『捕囚』という神の裁きよりも、神の慈しみの方がまさっています。
そして、その喜びの源は『彼らが教えられたことを理解した』ことにあります。
私たちは、毎週礼拝に出席して、喜びを持って帰って来ているでしょうか?
もし、喜びを感じていないのであれば、その主な理由の可能性としては二つあります。
①みことばの意味が解き明かされていないからー説教者の資質の問題。
②説教にちゃんと耳を傾けて聞いていないからー信者の不信仰のゆえ。
神は、この時のレビ人たちのように説教者がきちんとみことばを解き明かし、信徒たちが教えられたことを理解し、喜んで世に出ていくことを望んでおられます。
神のみことばに対する飢え渇きを持って御前に集い、喜びに満たされる礼拝を捧げることができますようにー祈ー。
黙示録1:3ーこの預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。