1コリント1:11~13ー実はあなたがたのことをクロエの家の者から知らされました。兄弟たち。あなたがたの間には争いがあるそうで、
あなたがたはめいめいに、「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケパに」「私はキリストにつく」と言っているということです。
キリストが分割されたのですか。あなたがたのために十字架につけられたのはパウロでしょうか。あなたがたがバプテスマを受けたのはパウロの名によるのでしょうか。
*キリストが分割されたのですか…別訳:キリストが分割されています。
キリスト教会と言われるものは、『カトリック』『プロテスタント』『東方教会』と大きく三つありますね。そしてさらに、『◯◯派』とまるで国会の派閥のように細かく分かれています😥
それが『キリスト教』を複雑化しているように感じることもしばしば…。
最近、ツイッター上でキリスト教のリベラル派と福音派の論争のようになっているやりとりを見かけました。
最初に導かれた教会がどこの『派』なのか、その教会を建てたのがどこの『派』なのか、その『派』を作った人々は聖書のどの箇所が大事だと考えたのか…その影響がモロに出ていて『コリントの教会の兄弟たち』のようで、パウロが記したように『キリストが分割』されたように思えます。
パウロは、次のように勧めています。
1コリント1:10ーさて、兄弟たち。私は、私たちの主イエス・キリストの御名によって、あなたがたにお願いします。どうか、みなが一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保ってください。
エペソ4:13ーついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。
ピリピ2:2ー私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。
*『信仰の一致』『同じ心』『同じ判断』『同じ愛の心』『志を一つ』…これらは、キリストの福音を信じ、神のご計画と御心を知り、神の愛とキリストの十字架の愛を知り、聖書のみことばという基準に従い、神のご計画に共に参加することによってのみ可能となります。
それが出来ていなからこそ、未だにリベラル派と福音派の論争のようなことが起こってしまうのではないでしょうか?
ある人々は「キリストを信じている」と言いながら律法を守ることに熱心だったり、また、聖書にはない教会の伝統や慣習を守ることに熱心だったりします。
そのような中で「みことばは何と言っているかを確認すべきです」などと発言しようものなら、『原理主義者』とレッテルを貼られることもあるほどです💦
しかし、キリスト教会から、また、クリスチャンから『聖書のみことば』という基準を取り除いてしまったら、王がいない時代の神の民イスラエルのようになってしまいます。
士師記21:25ーそのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた。
現在、多くの教会、信徒たちがこの状態に陥っているのではないかと思います。
新約の時代であってもモーセの律法を守ることが大事だと思われている方は、聖書そのものよりも『◯◯信仰問答』のような副読本の方を重んじてはいませんか?
ローマ人への手紙やガラテヤ人への手紙を是非読んでみてください。
ローマ10:4ーキリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。
ガラテヤ3:24~26ーこうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。
しかし、信仰が現われた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。
あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。
ガラテヤ4:9ーところが、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうしてあの無力、無価値の幼稚な教えに逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのですか。
*無力、無価値の幼稚な教え…613あるモーセの律法
キリストが十字架で終わらせたので、無効となりました。
*神に知られている…何を信じたら『クリスチャン』として、神に知られ、認められるのでしょう?
この定義はすごく大事です。
この『信仰の土台』さえ一致していれば、それ以外のことで解釈の相違があっても、御国の働きのために協力することは可能となります。
この土台は、キリストの使徒たちが宣べ伝えた福音と一致するものでなくてはなりません。
パウロは、自身が宣べ伝えた『福音』について次のように述べています。
1コリント15:2ーどんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかりと覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。
さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。
では、パウロが宣べ伝えた『無駄にならない福音』とは何でしょうか?
これこそが『クリスチャン』を名乗るすべての人が、自分の信仰と一致しているかどうかの『基準』となるものです。
また、クリスチャンになりたいと願う人にとって、何を信じるべきかを明らかにしているものです。
パウロは、その基準となる『福音』を宣べるにあたり、このように前置きしています。
1コリント15:3aー私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。
*最もたいせつなこと、私も受けたこと…私たちが信じるべき福音は、使徒たちと同じ福音です。
その上で、パウロは『福音の三要素』を語り始めます。
1コリント15:3b~5ーキリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、
また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。
自分の信仰の基準が、パウロが宣べ伝えたこの福音と異なる場合、その人は『自称クリスチャン』であって、神の目にはキリストの弟子にはまだなっていない『求道者』です。
では、このパウロが宣べ伝えた『福音』と異なることを伝える者たちのことを、パウロはどのように記しているでしょうか?
ガラテヤ1:8~9ーしかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。
私たちが前に言ったように、今もう一度私は言います。
もしだれかが、あなたがたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者はのろわれるべきです。
*パウロが宣べ伝えた福音に反することを伝える者は『のろわれるべき』だと繰り返しています。それほど、何を福音として伝えるのかが重要なのです。永遠のいのちに関わることですからね。
パウロが宣べ伝えた『福音の三要素』抜きにクリスチャンだと思い込み、反することを伝えているのなら、たとえ『◯◯キリスト教会』の看板を掲げていたとしても、神の御前には『信じたことが無駄になってしまう』信仰であり、異端です。
この信仰の土台を信じるには、御父がその人を引き寄せーヨハネ6:44、御霊が真理に導いて「イエスは主です。」と信仰告白させるのです。
御霊の働き無くして、だれもキリストを信じる信仰告白はできません。
ヨハネ6:44ーわたしを遣わした父が引き寄せないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
1コリント12:3bーまた、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。
*聖霊によるのでなければ…聖霊は、『信じた時』にその人に内住されます。
一度内住された聖霊は、その人がキリストの教えに対し不従順だと悲しまれますが、決してその人から離れたりすることはありません。
エペソ4:30ー神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。
1テサロニケ5:19ー御霊を消してはなりません。
*御霊を消し…霊の働きを押しのけて、自分の古い罪の性質を押し通すこと。
キリストを信じる者に『もう一人の助け主』として主が与えてくださったのです。
ヨハネ14:16~17ーわたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。
その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。
内住する聖霊が、私たちの信仰の度合いに応じて出たり入ったりすることはありません。
ですから、「聖霊様、来てください。」という祈りは、求道者の祈りであって、信者の祈りとしてはおかしな意味になってしまいます。
なぜなら、キリストはご自分を信じる者を『孤児にはしない』と言われているからです。
ヨハネ14:18ーわたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。
ローマ10:9~10ーなぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
このように、今まで大切なこととしてきたことが、聖書のみことばと照らし合わせることによって、実はちょっと違っていた😅ということはあり得ます。だからこそ、聞いたことが果たしてそのとおりかどうかみことばで確認するということが必要となるのです。
使徒17:11bー非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。
クリスチャンの間でよく使われる『悔い改め』は、常に過去に犯した罪を引っ張りだしてきて、まだ赦しを得ていないかのように毎回「ごめんなさい」をすることではありません。
キリストを信じた時に、それまでの神を無視した生活基準のゆえに犯してしまった罪も、クリスチャンになった後も古い罪の性質に負けてしまって犯してしまった不従順の罪も、これから先に犯してしまう罪もすべて、十字架のキリストが身代わりとなってくださったので、赦されているのです。十字架が及ばない罪などありません!
聖書が命じる『悔い改め』とは、原罪という罪の性質により、ともすれば自己中心に陥って『道』であるキリストから逸れてしまう考え方や基準を、考え方を変え、聖書に書かれた神の基準『キリストの教え』に軌道修正することを意味します。
パウロが『最もたいせつなこととして、自身も受け、私たちに伝えた福音』という、この信仰の土台がない未信者や自称クリスチャンたちは、まだ神の真理を受入れておらず、御霊の内住がないため、人から伝え聞いたことをただ鵜呑みにしたり、自分の価値判断で誤ったことを『キリスト教の教え』として広めてしまいます。
たとえば、「クリスチャンであっても自殺をしてしまえば、それは自分自身に対する殺人罪に当たるので、必ず地獄に堕ちる。それが、キリスト教で自殺を禁じる理由」などというものは、十字架の贖いの意味を全く理解していないか、誤解している人々の勝手な理由です。
神様はご計画と目的を持っておられ、クリスチャン一人一人に参加させてくださっています。もし、信者が自殺してしまったら、その人を通して働く神のご計画はそこで終わってしまうので、その責任は問われることになるかもしれませんが、すべての苦難、試練を経験し、私たちのすべての罪の身代わりとして十字架で贖い、死に勝利されたキリストが弁護人として守ってくださいますから、罪に問われることはありません。御国(千年王国)での報いが減るだけであって、たましいの救いには何の影響も与えません。
1コリント5:1, 4~5ーあなたがたの間に不品行があるということが言われています。しかもそれは、異邦人の中にもないほどの不品行で、父の妻を妻にしている者がいるとのことです。
あなたがたが集まったときに、私も、霊においてともにおり、私たちの主イエスの権能をもって、
このような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。
『エホバのクリスチャン』を名乗るエホバの証人は、祈るとき「愛するエホバ」と呼びかけます。
まだ、神の子としての御霊を受けてない証拠でしょうね。
ガラテヤ4:6ーそして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。
彼女たちは、御子イエスは十字架ではなく、一本の杭にかかって死んだと教えられています。そして「御子の十字架の贖いを信じる」とは言わず「イエスに信仰を働かせる」と言います。
キリストの十字架の贖いの意味を理解せず、まだ神の子どもになっていません。
だから、御子の御霊を持っていないために神を『父』と呼べないからでしょう。
未信者や異端信者だけではありません。
教会が、同じ主を信じるはずの他の教会員との交わりを禁じるというのは、本当に聖書的でしょうか?
パウロはダマスコ途上でキリストに会い、以後ずっとダマスコの兄弟たちとだけ交わりを持っていたのでしょうか?
多くのクリスチャンが、キリストの十字架の贖いを過小評価しているのではないでしょうか?。
だから、救いに良い行いを足して、完成しようと努力しているのではないでしょうか?
救いは人間の行いや努力によるのではなく、ただただキリストの十字架のみわざによる恵みと信仰によって与えられるもの。
その恵みを信じる者が、感謝と喜びを持ってみことばに従った結果が良い行い。
良い行いはその人の信仰を証明するものであって、救いの条件ではないのです。
行いのない信仰は神を悲しませ、御国の報酬は減ることになるけれど、救いを失うことにはなりません。
信仰義認…確かにそうなのですが、そこを強調し過ぎると、バプテスマを授けたら一丁上がりになって、その後の信仰の成長は自己責任的になってしまいます。
本当は『霊的に生まれたばかりの乳飲み子』としてのスタートなのですから、新しく神の家族となった方をみんなでケアしながら、共に成長することが大切です。
聖書の教えの優先順位とバランスをとること…これがきちんと理解されていないと、『重いくびき』と化してしまいます。
だからこそ、すべてをご存知の聖書の神はあらかじめ警告を与えておられるのです。
ガラテヤ5:1ーキリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。
確かに私たちはこの世にいる間は、上に立つ権威に従うべきだと聖書は教えています。
ローマ13:1~2ー人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。
したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。
しかし、神の和解の十字架と復活を宣べ伝える教会には、牧師や役員会よりも更に上の権威としてキリストがおられます。
そこで決められることは、キリストの教えに基づいていることが必要不可欠です。
そうでなければ、モーセの律法を私的解釈して付け加えた人間の教え『口伝律法』に従ったパリサイ人のようになってしまいます。
常に注意とみことばによる確認が必要なのはそのためです。
ここまで読んでくださった方々は、誰につく信仰でしょうか?
教会の伝統や慣習に基づく信仰なのか、副読本に基づく信仰なのか、
自分が良いと思う良心に基づく信仰なのか、有名な宣教師の教えに基づく信仰なのか…
これらを『信仰の土台』とするならば、キリストにある信仰の一致は難しいでしょう。
それとも、パウロが伝えた『福音』に基づくキリスト・イエスを土台とする信仰でしょうか?もしそうであるのなら、平和の実を結ぶことはできるはずですね。
すべての『クリスチャン』の上に、キリストの平安がありますように。
シャローム