先日、『苦難の意味』について、以下のことを学びました。
【苦難の意味】
a) 信者を訓練するため…ヘブル12:3~13
b) 過ちを犯すことから信者を守るため…Ⅱコリント12:7
c) 信者に従順を学ばさせるため…ローマ5:3~6
d) 信者は、キリストの御名のために苦しむことを賜っている…使徒9:16
e) 苦しみは、神に捧げる礼拝の要素
*旧約では、没薬は礼拝のささげ物だった。出エジプト30:23~25
苦難に遭う時、その苦難がどのような意味があるのかがわかれば、希望と忍耐も与えられます。
ローマ5:3~5ーそればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
しかし、気をつけなければならないのは、『信者は、キリストの御名のために苦しむ』ということです。
何故なら、自分が今受けている『苦難・試練・迫害』が、時に『キリストの御名のため』ではなく、組織による誤った教えのために苦難に遭うこともあるからです。
輸血の禁止、墓参りの禁止、何があっても教会行事厳守等による迫害の例は聖書にはない、人が後から作り出した教えによるものです。
ヨハネ15:19ーもしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。
確かに私たち信者は、キリストによって『世から選び出され』ました。
でも、それは空中の支配者であるサタンからの罪の誘惑に勝利する者として、また、キリストに従う者として、御国の相続人として選び出されたのであって、私たちの生活の場はまだ『この世』にあります。
ですから、住んでいる国の法律に従い、属している会社や学校、町内等のルールに従うことも命じられているのです。
ローマ13:1~2ー人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。
したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。
別な言い方をすれば、クリスチャンはこの世の常識に従う者でもあるわけです。それが、クリスチャンとして社会的責任を果たすということですね。
この社会的責任を果たさないことによって起こる迫害は、神に受け入れられる『苦難』とは別物ですから、もし今、自分は苦難の中にいると思えるのであれば、その理由が何かを考えなくてはいけません。
社会的責任を果たすといっても、それには優先順位があります。
地上の権威が、神の権威に逆らっている場合は、私たちは信仰によって立ち上がる必要があります。
①もし、上に立つ権威が、キリストを信じる信仰を棄てるように命じたら…?
②もし、上に立つ権威が、キリストの福音を伝道してはならないと命じたら…?
③もし、上に立つ権威が、偶像崇拝を強制したら…?
あなたは従えますか?
それとも、上に立つ権威に背いて『キリストの御名による苦しみ』を甘んじて受ける覚悟がありますか?
ヨハネ15:20ーしもべはその主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。もし彼らがわたしのことばを守ったなら、あなたがたのことばも守ります。
使徒たちの時代、このような苦難は現実のものでした。
使徒4:17~18ーしかし、これ以上民の間に広がらないために、今後だれにもこの名によって語ってはならないと、彼らをきびしく戒めよう。」
そこで彼らを呼んで、いっさいイエスの名によって語ったり教えたりしてはならない、と命じた。
使徒5:27~28ー彼らが使徒たちを連れて来て議会の中に立たせると、大祭司は使徒たちを問いただして、
言った。「あの名によって教えてはならないときびしく命じておいたのに、何ということだ。エルサレム中にあなたがたの教えを広めてしまい、そのうえ、あの人の血の責任をわれわれに負わせようとしているではないか。」
使徒5:40~41ー使徒たちを呼んで、彼らをむちで打ち、イエスの名によって語ってはならないと言い渡したうえで釈放した。
そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。
使徒9:13~14ーしかし、アナニヤはこう答えた。「主よ。私は多くの人々から、この人がエルサレムで、あなたの聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを聞きました。
彼はここでも、あなたの御名を呼ぶ者たちをみな捕縛する権限を、祭司長たちから授けられているのです。」
そんな中で、迫害に耐えきれずユダヤ教に回帰しようと考えていた人々を、キリストを信じる信仰に引き止めようとして書かれたのが『ヘブル人への手紙』です。
再び、キリストを否定すること、伝道の禁止、偶像崇拝の強制が、日本だけでなく世界中で行なわれる時がきます。
それが、七年間の患難時代です。
現在は、歴史的にそこに向かっていますから、少しずつキリスト教会に背教が広がり、この世(サタンの権威)と妥協し、みことばの真理が薄められてきています。
ヨハネの黙示録2:22ー見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行う者たちも、この女の行いを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。
*この女…女預言者と自称する『イゼベル』。聖書の真理とは異なる『偽りの教え』ーキリストの十字架の意味を誤解し、継続した犠牲を捧げたり、モーセの十戒の内容を変えたり、わざによる救いや洗礼による生まれ変わり、セカンドチャンス(煉獄の教え)などーを『ペルガモにある教会』に持ち込みました。
教会として悔い改め(みことばの真理へと考え方を変えることをし)なければ、背教の教会は携挙の恵みから漏れ『大きな患難=七年間の患難時代』に投げ込まれてしまいます。
それほどの危機が迫って来ている時代に、私たちは生きているのです。
確かに、救いは
ローマ10:9~10ーなぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
ですが、
『キリストの福音の三要素』
①キリストは、私たちの罪の身代わりとして十字架で死なれたこと、
②罪の無い者として葬られたこと、
③聖書に従って、三日目によみがえられたこと
どれか一つでも欠けていたら、その人はまだ御霊の内住のある本当の信者ではありません。
まず、この信仰の土台に立ち、そこからスタートしてみことばを学び、信仰を強く成長させていかなくてはならないのです。
「信じるだけでいい。後は、今までと同じように好きに生きていい。」というのは、サタンの惑わしです。
聖書は次のように記しています。
ヨハネ14:23~24ーイエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。
わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わした父のことばなのです。
エペソ4:12~13ーそれは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、
ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。
サタンの惑わしによる妥協した信仰生活を送って大きな患難に投げ込まれないように、しっかりと岩なるキリストの福音に立ち、たとえキリストの御名のゆえに苦難を受けるとしても、神に喜ばれる信仰生活を送ることができますように。
そして、携挙を待ち望む者とされますように。