サザエのお裾分け

聖書を字義通り&文脈に沿って学び、理解したことの中からのお裾分け。内容は鵜呑みにせず、必ずご自分で聖書を開いて確認してくださいね。聖書理解の助けになれば幸いです。† 栄光在主 †

二段階の癒し 〜マルコ8:22~26〜

 『ベツサイダ』は、ガリラヤ湖畔の北1.5kmのヨルダン川東岸にあり、五千人の給食をした後に渡った村で、そこに向かう時にイエスが湖の上を歩かれました。マルコ6:30~56

これはキリストの公生涯三度目の過越の祭りの頃の出来事です。* 

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ベツサイダの盲人の癒しの出来事だけは、二段階で癒しの奇蹟が行われています。

盲人の目を開けるという奇蹟は、メシア預言の成就としての『しるし』の一つでした。

イザヤ35:5~6ーそのとき、目の見えない者の目は開き、

耳の聞こえない者の耳はあく。

そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、

口のきけない者の舌は喜び歌う。

荒野に水がわき出し、

荒地に川が流れるからだ。

 

マタイ11:5~6ー目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。

だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。

 

マルコ8:22ー彼らはベツサイダに着いた。すると人々が盲人を連れて来て、彼にさわってくださるよう、イエスに願った。

*彼ら…イエスと弟子たち

*人々…ベツサイダの村の人々

 

癒しを願っているのは誰でしょう?

本人の気持ちは、どうだったのでしょう?

この盲人は、自ら進んでイエスのもとに来たでしょうか?

 

 

マルコ8:23ーイエスは盲人の手を取って村の外に連れて行かれた。そしてその両目につばきをつけ、両手を彼に当てて「何か見えるか」と聞かれた。

*村の外…イエスはこの盲人の癒しを、村の人々の前ではしませんでした。

 

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すでに『ベルゼブル論争』によって、ユダヤ人たちは民族的にイエスのメシア性を拒否していましたから、彼らはイエスを正しく『メシア』だと信じるよりは、奇蹟が見たいという好奇心やローマの圧政から救い出してくださる政治的な王かもしれないという期待感の方が強かったのでしょう。

 

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 *つばき…『つばきをかけ(られ)る』というのは、通常『侮辱』をあらわす行為です。

申命記25:9ーその兄弟のやもめになった妻は、長老たちの目の前で、彼に近寄り、彼の足からくつを脱がせ、彼の顔につばきして、彼に答えて言わなければならない。「兄弟の家を立てない男は、このようにされる。」

 

ヨブ記17:6ー神は私を民の物笑いとされた。私は顔につばきをかけられる者となった

 

イザヤは、十字架の苦難を預言して次のように記しています。

イザヤ50:6ー打つ者に私の背中をまかせ。

ひげを抜く者に私の頬をまかせ、

侮辱されても、つばきをかけられても

私の顔を隠さなかった。

 

この預言と同じように、イエス自身も預言しています。

マルコ10:34ーすると彼らはあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺します。しかし、人の子は三日の後に、よみがえります。」

 

そしてついに十字架の苦難で成就しました。

マルコ14:65ーそうして、ある人々はイエスにつばきをかけ、御顔をおおい、こぶしでなぐりつけ、「言い当ててみろ」などと言ったりし始めた。また、役人たちは、イエスを受け取って、平手で打った。

 

マルコ15:19ーまた、葦の棒でイエスの頭をたたいたり、つばきをかけたり、ひざまずいて拝んだりしていた。

 

イエスは不信仰な人々の中での盲人を癒す時や耳が聞こえず、口のきけない人の癒しを行う時に『つばき』を用いておられます。

マルコ7:33ーそこで、イエスは、その人だけを群衆の中から連れ出し、その両耳に指を差し入れ、それからつばきをして、その人の舌にさわられた。

ヨハネ9:6ーイエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。

 

ここで盲人の癒しに『つばき』を用いたのは、おそらくイエスご自身が受ける十字架の受難を示唆されているのでしょう。

この出来事の約一年後には、イエスは十字架にかかることになります。

 

*「何か見えるか」と聞かれた…しきりに聞き続ける、という意味。

イエスは、完全な癒し主であられるメシアです。

他の盲人の癒しの箇所では、ことばだけで、または触れただけで癒されています。

マタイ9:28~29ー家に入られると、その盲人たちはみもとにやって来た。イエスが「わたしにそんなことができると信じるのか」と言われると、彼らは「そうです。主よ」と言った。

そこで、イエスは彼らの目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われた。

 

マタイ20:33~34ー彼らはイエスに言った。「主よ。この目をあけていただきたいのです。」

イエスはかわいそうに思って、彼らの目にさわられた。すると、すぐさま彼らは見えるようになり、イエスについて行った。

 

福音書の中で、癒しのみわざの途中でこのように聞かれるという箇所は他にはありません。

なぜ、イエスはこの盲人にこのようにわざの途中で聞かれたのでしょうか?

 

マルコ8:24ーすると彼は、見えるようになって、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます」と言った。

*見えるようになって…『見上げて』の意味。それまでは、盲人としての苦難の人生を象徴するように『うつ向き』だったのかもしれません。

 

今まで昼も夜も関係なく『暗闇』の世界にのみ生きていた彼が、たとえぼんやりとでも『見える』ということは、彼の心にどのような変化をもたらしたでしょうか?

 

*木のようですが…しかし、彼は何かが動いているのが見えただけで、クリアには見えていないことがわかります。これが『第一段階の癒し』です。

 

マルコ8:25ーそれから、イエスはもう一度彼の両目に両手を当てられた。そして、彼が見つめていると、すっかり直り、すべてのものがはっきり見えるようになった。

*もう一度…二度目の癒し。第二段階。

*見つめていると…時間的な要素がありますね。しばらくじっと見つめ続けていたのでしょう。そると『すっかり直り、すべてのものがはっきりと見えるようになった』のです。

 

この直後(マルコ8:27~30)に、ペテロがピリポ・カイザリヤで「あなたは生ける神の御子キリストです。」マタイ16:16ーと信仰告白をした『第一段階』へと続きます。

この信仰告白の時はまだ、弟子たちはイエスを信じ、従うということがどういうことなのか、そのすべてを理解してはいませんでした。

 

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しかし、キリストの十字架と復活を目撃し、『第二段階』としてペンテコステ聖霊に与る者となってからは、その宣教は力強いものとなりました。

十二使徒のうちヨハネ以外はみな殉教の死を遂げています。パウロもステパノもまた殉教しています。

 

私たちの救いは、神の恵みによって『キリストの福音の三要素ー十字架の死、葬り、復活ー』を信じた時に与えられ、御子を信じる信仰によって義と認められました。

その後、『イエスを見つめ続ける』ことにより、『すべての物事がはっきりとわかるようになる』のです。

 

イエスを信じるまでは、罪の暗闇の中を生きてきた私たちですが、誰かに祈られ、福音を伝えられ、キリストの福音を信じる者となりました。そこからキリストと共に生きる光の中を歩む人生が始まり、キリストを見つめ続けることにより、自己中心の時には見えなかった神のご計画まで(神からの視点で)見えるようになっていくのです。

それには時間的経過を必要とすることですが、少しづつすべてのものが見えるようになっていきます。そして、いつの日か復活の栄光のからだをいただいた時には、キリストと同じように見えるようにしていただけるのです。

 

この盲人が特に望んだわけではなかったのに、キリスト・イエスのもとに連れて来られたことにより、目が見えるようになりました。

私たちの周りの多くの人々は、今もこの盲人のように自らイエスのもとに来ようとはしません。村人たちのように、私たちがイエスのもとへ導いていく必要があるのです。

隣人のために祈り、キリストの福音を伝える…これが伝道です。

 

マルコ8:26ーそこでイエスは、彼を家に帰し、「村に入って行かないように」と言われた。

*村に入っていかないように…なぜ、イエスはこのように命じられたのでしょう?

彼らは正しい心で、イエスを信じてはいなかったのでしょう。

 

イエスは次のように命じています。

マルコ4:9, 23, ルカ8:8, 14:35ー聞く耳のある人は聞きなさい。

黙示録2:7, 11, 17, 29, 3:6, 13, 22ー耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。