聖書のみことばを理解する時に、大事なことは時代背景。
特にどの時代の誰が、誰に対して語っているのかはとても重要です。
『◯◯時代』とは、始まりがあり終わりがあることを意味します。
クリスチャンの中には「聖書の教えを時代で区分することはおかしい」と言う方もおられますが、そのような方々でも「旧約時代」「新約時代」「教会時代」「終わりの時代」という言葉を時々用いますし、また、聖書自体も『時代』という言葉を使っています。
創世記6:9ーこれはノアの歴史である。ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。
申命記4:32ーさあ、あなたより前の過ぎ去った時代に尋ねてみるがよい。神が地上に人を造られた日からこのかた、天のこの果てからかの果てまでにこれほど偉大なことが起こったであろうか。このようなことが聞かれたであろうか。
ルカ17:25ーしかし、人の子はまず、多くの苦しみを受け、この時代に捨てられなければなりません。
Ⅱテモテ3:1ー終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。
ですから、聖書的には『時代区分』はあるのです。
一般的によく使われるのが『旧約時代』『新約時代』ですが、その定義を聞いたことはありますか?
旧約と新約の境界線は、どこにあるのでしょう?
イエスの誕生でしょうか?
マタイ11:13ーヨハネに至るまで、すべての預言者たちと律法とが預言をしたのです。
もしも『イエスの誕生』境界線だとするならば、バプテスマのヨハネは『旧約時代最後の預言者』ではなく、『新約時代最初の預言者』になってしまいます💦
旧約時代に従うべき命令とは何でしょう?
『モーセの律法』ですか?
新約時代に従うべき命令とは何でしょう?
キリストの公生涯の中での教えですか?
このようにに問われて改めて考えてみると、矛盾点に気がつきませんか?
時代区分をして聖書を理解するディスペンセーションに異を唱える方が多いことは知っています。しかし、異を唱える方であっても『旧約時代』『新約時代』という表現は使い、私たちは教会生活の中でも時折耳にしています。
⑴ 旧約時代と新約時代の境界線はどこ?(・・?)
このことを深く考える人は、そんなにいないかもしれません。言葉として聞いてきたので、なんとなく旧約聖書の書かれていることが『旧約時代』であり、新約聖書に書かれているので『新約時代』だと思っている人が多いでしょう。
しかし『時代』というからには始まりがあり、終わりがあるものです。
旧約時代の始まりは、『アダムの創造』です。この時から神に似せて造られた人類の歴史が始まりました。
では、旧約時代の終わりは本当にマラキ書の最後でしょうか?
マタイの福音書で始まる新約聖書に至るまでの『約400年間』は、旧約時代、新約時代どちらに入るのでしょうか?
『旧約聖書』だから旧約時代、『新約聖書』に書かれているから新約時代という境界線や、歴史を分ける『BC/AD』を境界線にするのでは矛盾があるのです。
⑵ 旧約時代に従うべき命令とは(・・?)
もし、旧約時代に従うべき命令が『モーセの律法』だとするのなら、モーセよりも前のアブラハムやイサクやヤコブ、ノアやアダム、エバたちはどうなるのでしょう?
イエス様の初臨時のイスラエルの人々も『モーセの律法』や口伝律法に従って生きていた人々ではありませんか?
これも613ある『モーセの律法』としてしまうと、矛盾が生じてしまいます。
その時々(時代)に与えられた命令に従って生きる、つまり、神の命令や神のことば(約束)を信じることが求められていました。
救いはいつの時代も『神の恵みに応答する信仰によって』であり、アブラハムも主のことばを信じた結果、義とされました。
創世記15:6ー彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。
『旧約時代』『新約時代』の境界線は、キリストの十字架の死なのです。
ヨハネ19:30ーイエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。
⑶新約時代に従うべき命令とは(・・?)
多くの人は『イエス様の命令』『キリストの教え』と思われることでしょう。
しかし、イエス様の十字架の死までは『旧約時代』であり、公生涯での教えの多くはユダヤ教の律法の下に置かれたユダヤ人たちに対するものでしたから、復活後の聖霊の内住のある『教会時代』の信者にそのまま適用するには無理があります。
キリストの十字架前の律法の下にいるユダヤ人に対する教えなのか?それとも、復活後のイエスをメシアとして信じる人々に対する教えなのかを、まず判断する必要があります。聖書は次のように記しています。
ローマ9:31ーしかし、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しませんでした。
律法を託されたユダヤ人たちは律法の行いによる義に到達できませんでした。
ローマ10:4ーキリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。
キリストが律法を終わらせてくださいました。
ガラテヤ3:2ーただこれだけをあなたがたから聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰を持って聞いたからですか。
律法による義では、御霊を受けることができません。御霊を受けるには、キリストの福音を信じる信仰による義が必要です。
ガラテヤ3:12~13ーしかし律法は。「信仰による」のはありません。「律法を行う者は律法によって生きる」のです。
キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。
律法を守りきれない人間のために、その律法ののろいからキリストが贖い出してくださったのです。
ですから、今もなお人々に『モーセの十戒』を含む律法を守るように教える人は、
①自分たちが、律法を託されてはいない『異邦人』であること、
イスラエルには、おきてとさばきを告げられる。
主は、どんな国々にも、
このようには、なさらなかった。
さばきについて彼らは知っていない。
*おきてとさばき…旧約聖書
ローマ3:1~2ーでは、ユダヤ人のすぐれたところは、いったい何ですか。割礼にどんな益があるのですか。
それは、あらゆる点から見て、大いにあります。第一に、彼らは神のいろいろなおことばをゆだねられています。
②律法は既にキリストによって終わっており、そのキリストが律法ののろいから贖い出してくださった
ということを、今一度思い出してください。
礼拝の出席人数や献金の額に心を奪われるのではなく、キリストが私たちに何を教え、神様は私たちにどのようなご計画をお持ちなのかに軸足を置くことが大事です。
そして、私たち教会時代の信者が従うべき教えは、実は『使徒たちの教え』なのです。
なぜなら、 イエスご自身が「わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼ら(キリストの弟子となり、バプテスマを受けた者たち)を教えなさい。」ーマタイ28:19~20ーと命じておられるからです。
つまり、その教えとは、使徒たちが書き残した新約聖書の書簡の命令です。
これこそが、教会時代の信者である私たちが従うべき教えです。
⑷旧約時代の定義とは…(・・?)
以上のことから『旧約時代』とは、
①アダムの創造からキリストの十字架の死までの期間であり、
②従うべき命令や教えは、その時々で神がどこまで明らかにしておられたかによる
ということになります。
実際には、旧約時代という大きな枠の中に
A)『無垢の時代』…アダムの創造から人が罪を犯すまで。
従うべき命令は、創世記2:17ーしかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。
B)良心の時代…人が罪を犯してからノアの洪水で箱舟から出るまで。
従うべき命令は、創世記3:14~19の神の宣言に基づいて、神がご自身に似せて造られた『良心』に基づいて生きることでした。
C)人間による統治の時代…ノアたち一家が箱舟を出てから、患難時代中期に反キリストが政治的支配権を持つまで。
土台となる『ノア契約』には、七つの戒めがありました。
①生めよ。ふえよ。満ちよ。➡︎ 一カ所に固まって住み着いた。→ テストに失敗。
②動物を人に委ねられた。➡︎再び人間の管理下に置かれた。
③肉食も許可された。➡︎ 動物には身を守るために、人を恐れておののくようになった。
④血(生肉)を食することは禁止。➡︎ いのちは、血の中にあるから。
(イエスは私たちの罪のために十字架で血を流し、いのちを捨てられました。)
⑤死刑制度の導入。➡︎ 過失致死の場合は『逃れの町』へ。
⑥再び洪水で世界を滅ぼさない。➡︎ 人々は神の約束を信じず、防水加工を施した、天にまで届く『バベルの塔』を建て、洪水が起きても生き延びるように備えようとしました。→ 途中で頓挫。
⑦しるしは『虹』。➡︎現在でも虹がかかるということは、この時代はまだ続いていて、神はこの約束を覚えておられるということ。
D)約束の時代…アブラハムから患難時代の終わりまで。
神がアブラハムに約束された『子孫・土地・祝福』は、イサク→ヤコブ→イスラエルの十二部族へと引き継がれ、最終的に千年王国/メシア的王国ですべて成就します。
私たち異邦人信者は信仰により、このアブラハム契約の『祝福』に与る者となりました。
E)律法の時代… 出エジプト後『仲介者モーセ』を通して律法が与えられてから、イエスの十字架の死まで。
その『律法』の中に
①モーセの後に登場する預言者たちに従うこと → イスラエルの民は、預言者たちを迫害し、時には殺したのです。
Ⅱ歴代誌36:14~16ー神の使者たちを笑いものにし、そのみことばを侮り、その預言者たちをばかにしました。
②後に、モーセのような預言者(メシアのこと)が現れたら、その人に従うこと。
申命記18:15~19 → イスラエルの民は、イエスのメシア性を否定し、十字架にかけました。マタイ12章、23:13
という、とても重要な命令が含まれていました。
『モーセ契約』は、律法に従えば祝福が、不従順なら裁きが来るという『条件付き契約』です。
律法に不従順となったイスラエルの民は、神に裁かれました。
その裁きというのが、
北イスラエル王国ーBC721年、アッシリヤ捕囚
南ユダ王国ーBC586年、バビロン捕囚
「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」ーマタイ27:25ーの民衆の発言どおり、AD70年に『世界離散の民』となったのです。
さらに、近い将来の『七年間の患難時代通過』という裁きが予定されています。ーエレミヤ30:1~11, ダニエル12:1, マタイ24:21~22
一言で『旧約時代』と言っても、その中身はこれだけの『時代』が含まれています。
『律法の時代』は人間側が契約を破ったので、神の 御子が人として来てくださり、人類の代わりに613ある律法のすべてを守り、また罪を犯した人類の身代わりとなって十字架につき、その代価を全て払って律法ののろいから贖い出してくださったのです。
その結果、律法は無効とされ、キリストの十字架の死と葬り、復活というみわざを自分のためだったと信じる『信仰による義』を与えてくださいました。
ですから、私たちは二度と『くびき』をつけられないように注意すべきなのです。
使徒15:10ーそれなのに、なぜ、今あなたがたは、私たちの父祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みようとするのです。
ガラテヤ5:1ーキリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたはしっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。
モーセの律法が終わったのは、キリストの誕生ではなく、十字架で死んだ時です。
ですから、キリストの十字架前の教えは、まだモーセの律法が有効であった時のユダヤ人たちに対して、パリサイ人らによる口伝律法ではなく、モーセの律法の本来の意味を教えられました。
私たち異邦人信者は、モーセ契約の対象外ですし、律法はすでに主の十字架で終わっているので、福音書の出来事をすべて適用することはできません。
旧約の律法の時代がいつまでなのかの境界線を理解していないと、新約聖書(特に福音書)の適用を間違えてしまう危険があります。モーセの律法はその中の幾つかを守ればいいというものではなく、守るなら613すべて守らなくてはならないものです。
間違った適用に苦しむことがないように、一人一人が聞いたことをみことばで確認することを心掛けていけますように。