普段の通読の時、何気なく読み過ごしてしまっているみことばに、とても重要なことが書かれていることがあります。その大切さに気づいた時、そのみことばを一瞬で覚えてしまうほどの衝撃を受けることがあります。私にとって、そのようなみことばの一つが使徒17:11なのです。
使徒17:11ーここのユダヤ人たちは、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかと毎日聖書を調べた。
ここには『良いユダヤ人たち』の例が記されています。
なぜ彼らが『よい人たち』と言われているのか…それは、非常に熱心にみことばを聞くだけでなく、はたしてそのとおりかと毎日聖書を調べたからです。
それはまた、彼らの信仰が『みことばを語り、取り次ぐ指導者』にあるのではなく、『神のことばである聖書』にあることを示しています。
さて、そこで今回このブログをお読みくださる方々といっしょに考えてみたいのは、『クリスチャンは、だれに祈るのか?』ということです。
私の義理の両親は、とても熱心なカトリック信者であり、朝に夕に祈りを捧げていますが、祈りの冒頭に来るのは『マリアさま』です。
彼らが言うには「イエス様はとても忠実な神のしもべであり、従順な親孝行者です。その母マリアさまにお願いすることにより、マリアさまが取り次いでくださる私たちの祈りや願いに対して、イエス様は息子として母の言うことを聞いてくださるからです。」
う〜ん…本当にそうでしょうか?
ルカ3章にあるマリヤの系図は、アダムにまで遡ることができます。
このアダムから『原罪』が始まり、このアダムが全人類の祖なのですから、その系図に父ヘリの名を連ねるマリヤだけが『無原罪』ということはありえないことです。
神に造られた当初のアダムは無垢な存在でした。生まれながらに罪のない存在だったのですが、蛇の誘惑に惑わされた妻エバにより、善悪の木の実を食べて『罪ある者』となってしまいました。
聖書には、造られた当初のアダムのように『罪のない存在』として誕生された方が、ひとりだけおられます。それが聖霊によって、処女マリヤから『人の子』として誕生された神の御子イエスなのです。
だから、聖書はこのイエスのことを『最後のアダム』と呼んでいます。
1コリント15:45ー聖書に「最初のアダムは生きた者となった」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。
プロテスタントの教会の礼拝で唱えられる『主の祈り』は、イエスが弟子たちに「このように祈りなさい」と、祈り方を教えられた模範とすべき祈りであり、マタイ6:9~13に記されています。
そこで祈りの冒頭に来るのは、9節ー『天にいます私たちの父よ』です。
イエスは常に『父よ』と祈られました。イエスの地上生涯において一度だけ『父よ』と言えずに『わが神、わが神』と祈られたことがあります。ーマタイ27:26, マルコ15:34
そのとき、イエスは十字架の上ですべての人類の罪の身代わりとなられ、神から断絶されたために『父よ』と呼ぶことができなかったのです。
キリストを信じる者は「天の父なる神様」と呼びかけることができますが、信じない者は神との関係が確立されていないため、悩み苦しみの中で助けを叫び求めるときでさえ、ただ漠然と「神様〜」としか言うことができないのと同じです。
主の祈りの最後には、私たちがいつも祈る『主イエスの御名によって祈ります』はありません。これはヨハネの福音書のイエスの教えに基づくものです。
ヨハネ14:13~14ーまたわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。
あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。
ヨハネ14:26ーその日、あなたがたはわたしの名によって求めるのです。わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません。
『天の父なる神』というのは、三位一体の第一位格の『御父』のことだけを指すのでしょうか?
メシア預言の一つであるイザヤ9:6では、御子に対しても『とこしえの父』と記しています。
イザヤ9:6ーひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。
ひとりの男の子が、私たちに与えられる。
主権はその肩にあり、
その名は「不思議な助言者、力ある神、
永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
これらの聖句から、私たちは「天の父なる神様」「ご在天なる父なる神様」「天におられる私たちの父よ」など、直接御父に呼びかけて祈ることも、「イエス様」と祈ることもできることがわかります。
しかし、「マリアさま」と祈ることを勧めたり、誰かがそう呼びかけて祈っている記述は聖書にはありません。
また、エホバの証人のように「愛するエホバ」と呼びかけて、イエス様が祈られたり、祈るように教えている記述も聖書にはありません。
このように、私たちは教えを熱心に聞いた後に、『はたしてそのとおりかどうかと聖書で確認する』ということが非常に重要なのです。
なぜなら、サタンは神の真理の中に『パン種』を隠し入れて、信じる人々さえも惑わしているからです。
サタンのパン種が入った『ほかの福音』を土台にした信仰は、パウロによれば『無駄になる信仰』です。
1コリント15:2ーどんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。(新共同訳)
*無駄ということは、どんなに熱心に奉仕をしたり、良い行いをしたとしても、本当の救いに至っていないということです。 だから私たちは聞いたことを聖書のみことばで確認することなく、『ほかの福音』を宣べ伝えることのないようように注意する必要があります。
キリストに結びつく真の信者となれますように、御霊の導きを祈ります。