サザエのお裾分け

聖書を字義通り&文脈に沿って学び、理解したことの中からのお裾分け。内容は鵜呑みにせず、必ずご自分で聖書を開いて確認してくださいね。聖書理解の助けになれば幸いです。† 栄光在主 †

希望と恐れとの狭間での選択 〜ルカ12:22~32〜

私たちはキリストの福音を信じて救われた瞬間から、永遠のいのちという希望が与えられました。

しかし、今 私たちが生きているこの世にあっては、救われてもなお心配がつきまとうのが現実です。

 

それは、イエス様と公生涯を共にした弟子たちであっても同じでした。

彼らもまた、希望と恐れとの間で宙に浮いているような状態でした。

 

そんな弟子たちに、主は四つのことを教えられました。

①心配するのをやめなさい。

②考えてみなさい。

③求めなさい。

④恐れることはやめなさい。

 

 

ルカ12:22ーそれから弟子たちに言われた。「だから、わたしはあなたがたに言います。いのちのことで何を食べようかと心配したり、からだのことで何を着ようかと心配したりするのはやめなさい。

 

*弟子たち…この時点では、まだイスカリオテ・ユダを含む十二弟子。

28節では『信仰の薄い人たち』と言われ、

32節では『小さな群れよ』と呼ばれています。

キリストを信じ、そのみことばに従って歩む真の信者は、いつの時代も狭い道、小さな門から御国に入る『小さな群れ』なのでしょう。

 

*いのちギリシャ語:クシュケー/その人自身、内側を意味

食べ物は、その人自身のいのちを維持するのに必要なもの。

 

*からだ…外側、生活を意味

着る物は、その人の外側を覆うために必要なもの。

 

【①心配するのはやめなさい】

『心配』は『するもの』であって、『心配する』か『心配しない』かは、個々人の選択です。

それを主は「心配したりするのはやめなさい」と命じておられます。

 

私たちが取るべき選択は、『心配しない』ということです。

心配とは、ケアする、気遣うという意味であり、1コリント12:25では『互いにいたわり合う』と訳されています。

1コリント12:25ーそれは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。

 

主は闇雲に「心配するな」と命じておられるのではなく、心配しないための根拠をあげて説明しておられます。

 

 

ルカ12:23ーいのちは食べ物よりたいせつであり、からだは着物よりたいせつだからです。

 

*いのち>食べ物

*からだ>着物

 

神様はより大切なものを守られ、そのために必要なものは満たしてくださるお方です。

 

 

ルカ12:24ー烏のことを考えてみなさい。蒔きもせず、刈り入れもせず、納屋も倉もありません。けれども、神が彼らを養っていてくださいます。あなたがたは、鳥よりも、はるかにすぐれたものです。

 

【②考えてみなさい】

*烏新約聖書で出てくるのはここだけですが、旧約聖書では結構出てきます。

洪水の後、ノアが最初に放った鳥は烏でした。

 

創世記8:6~7ー四十日の終わりになって、ノアは、自分の造った箱舟の窓を開き、

烏を放った。するとそれは、水が地からかわききるまで、出たり、戻ったりしていた。

 

モーセの律法では、汚れたもの、忌むべきものとされていましたが、預言者エリヤに食べ物を運んで来たのは烏でした。

 

レビ記11:13~15ーまた、鳥のうちで次のものを忌むべきものとしなければならない。これらは忌むべきもので、食べてはならない。すなわち、はげわし、はげたか、黒はげたか、

とび、はやぶさの類、

烏の類全部、

 

1列王記17:6ー幾羽かの烏が、朝になると彼のところにパンと肉とを運んで来、また、夕方になるとパンと肉とを運んで来た。彼はその川から水を飲んだ。

 

その烏を養っておられるのが、烏を造られた神様なのです。

ヨブ記38:41ー烏の子が神に向かって鳴き叫び、

食物がなくてさまようとき、

烏にえさを備えるのはだれか。

 

詩篇147:9ー獣に、また、鳴く烏の子に

食物を与える方。

 

 

25~26節で主は、私たち人間が『できること』と『できないこと』を教えられています。

この区別は非常に大切なことであり、『できないこと』を『できる』と感違いすることは危険です。

 

ルカ12:25ーあなたがたのうちのだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。

 

*いのち…ここでは『クシュケー』ではなく、ギリシャ語:ペーキュス/長さを測る単位、『いのちの長さ』を意味

 

 

ルカ12:26ーこんな小さなことさえできないで、なぜほかのことまで心配するのですか。

 

*いのちの長さを司っておられるのは神様です。

寿命は、私たち人間がコントロールできるものではありません。

 

 

ルカ12:27ーゆりの花のことを考えてみなさい。どうして育つのか。紡ぎもせず、織りもしないのです。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。

 

ここでも【考えてみなさい】と命じておられます。

*ゆりの花…クロッカスとかアネモネとか諸説ありますが、美しい花の意。外見的なこと。

 

植物は烏と違って動き回ったりはしませんね。

夜毎に花びらの手入れをしたりしないのに、その花でさえ、神が装ってくださるのです。

 

 

ルカ12:28ーしかし、きょうは野にあって、あすは炉に投げ込まれる草をさえ、神はこのように装ってくださるのです。ましてあなたがたには、どんなによくしてくださることでしょう。ああ、信仰の薄い人たち。

 

*炉に投げ込まれる草イスラエルでは、熱風を伴う東風が吹くとあっという間に草花は枯れてしまいます。

 

*信仰の薄い人たち…弟子たちのこと

信仰が薄いからといって、エス様は弟子たちのことを見捨てたりはしていないことに注意❗️

エス様を見捨てたペテロや弟子たちの信仰を回復され、最後まで面倒を見てくださいました。

 

信仰は『ある』か『ない』であって、信仰が厚いか薄いかは、直接救いには影響しません。影響するのは、御国に入る前のキリストの御座の裁きでの報酬です。

 

ここを感違いしているクリスチャンが多いのですが、もしキリストの福音の三要素全てに「アーメン」と言えるのなら、その人は救いを失うことはありません。

「良い行いが伴わないと、御国に入れるかどうかわかりません」という教えは、偽りの教えです。

 

神は人々がキリストの福音を信じて救われること、

救われた人々がみことばによって、信仰的(霊的)に成長することを望まれています。

 

 

ルカ12:29ー何を食べたらよいか、何を飲んだらよいか、と捜し求めることをやめ、気をもむことをやめなさい。

 

川のほとりに身を隠したエリヤを、烏に命じてパンと肉を運ばせ、養われたのは神様でした。

 

 

ルカ12:30ーこれらはみな、この世の異邦人たちが切に求めているものです。しかし、あなたがたの父は、それがあなたがたにも必要であることを知っておられます。

 

*この世の異邦人たち…神を知らない民、不信者の意

 

*あなたがた…ここでは、弟子たち。

適用として、私たちクリスチャンと理解可能。

 

 

ルカ12:31ー何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。そうすれば、これらの物は、それに加えて与えられます。

 

【③求めなさい】

神の国…この時点では、まだ十字架前の旧約時代なので千年王国/メシア的王国』のこと。

黙示録21~22章の『永遠の秩序』のことではありません!

 

ユダヤ人たちが民族として、初臨のイエスを『メシア』として受け入れ、信じたなら、千年王国はすぐに来るはずでした。だから、イエス様は「神の国を求めなさい」と命じられたのです。

 

*これらのもの…この世で生きていくのに必要なものは、内面的なものも外面的なものも必ず与えられます。

 

 

ルカ12:32ー小さな群れよ。恐れることはない。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。

 

【④恐れることはない】

*小さな群れ…ここでは、弟子たちのこと。

主がゲッセマネの園で捕らえられた時、散り散りになった群れでした。

 

 

現在、主を信じ、みことばに従う者は『小さな群れ』です。その『小さな群れ』の牧者として、イエス・キリストは私たちを導かれているのです。

 

ヨハネ10:11ーわたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。

  

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