サザエのお裾分け

聖書を字義通り&文脈に沿って学び、理解したことの中からのお裾分け。内容は鵜呑みにせず、必ずご自分で聖書を開いて確認してくださいね。聖書理解の助けになれば幸いです。† 栄光在主 †

『ふたりの人の祈りの違い』の譬え 〜ルカ18:9~14〜

主イエスは『自分を義人だと自任する人』を辱めるためにこのたとえ話をされたのではなく、『行いによる義』に陥りやすい私たち人間を正し、『信仰による義』を得るように導くためにこのたとえを話されました。
 
ルカ18:9ー自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。
 
*自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たち…パリサイ人。
 
*たとえを話された…ルカ17:37~18:1の文脈上、このたとえを聞いているのは『弟子たち』です。
ルカ17:37~18:1ー弟子たちは答えて言った。「主よ。どこでですか。」主は言われた。「死体のある所、そこに、はげたかも集まります。」
いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。
 
 
ルカ18:10ー「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
 
*パリサイ人当時の一般のユダヤ教徒(レビ族以外)の中で、信仰に熱心な敬虔な人々。

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至聖所に偶像を立てるには、大祭司の協力が必要でした。つまり、サドカイ派の大祭司自身が霊的に堕落していたのです。一方、信仰を守り通した者たちを『ハシディーム(分かたれた者たち)』と呼び、パリサイ派・人の語源になりました。

異邦人アンティオコス・エピファネスに立ち向かった『ユダ・マカベア』は、このハシディームに属する者でした。

 

後に、律法を守ろうとする熱心さから『口伝律法』を作り出し、自分たちだけが神を信じ、その律法を守っていると自負していました。

彼らは記述律法(モーセ五書)よりも自分たちの口伝律法を重んじ、また、旧約の預言書の権威も認めていたため、御使いも復活も信じていました。

 

〜サドカイ人とは〜
主に、祭司とサンへドリンの議員たちからなる上流階級の少数派で保守的。
語源はおそらく、ダビデとソロモンに仕えた祭司『ツァドク』の相続人というところから発生したと思われる。モーセ五書にのみ権威を認め、復活も御使いも信じなかった。

マルコ12:18ーまた、復活はないと主張していたサドカイ人たちが、イエスのところに来て質問した。

使徒23:8サドカイ派は、復活はなく、御使いも霊もないと言い、パリサイ人はどちらもあると言っていたからである。

この見解の違いから、両者は対立していましたが、イエスという共通の敵ができてからは、お互い協力するようになりました。

 

*取税人…当時のローマ政府からの税金の取立人。異邦人であるローマ人のために働き、同胞のユダヤ人たちから必要以上の税金を取り立てて、私服を肥やしていた人々。一般のユダヤ人からは『売国奴』として嫌われていました。

つまり、ここでのイエス様のたとえに登場する二人とは、宗教的な側面から見れば敬虔な人と最低な罪人の祈りということになります。
 
 
ルカ18:11ーパリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
 
*ゆする者、不正な者、姦淫する者〜ことにこの取税人のようではないパリサイ人の祈りの注目すべき点は、『私は』という自己中心と『他者との比較』です。
 
 
ルカ18:12ー私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
 
*週に二度断食し〜その十分の一をささげております…水も飲まず、やつれた姿を人に見せる断食、律法的には収入の10%ではなく、22.3%になる。

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 この時はまだ、十字架前の律法が有効な旧約時代だというとを理解する必要があります。

 
ルカ18:13ーところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
 
*遠く離れて立ち…至聖所と取税人の心の距離。自分が『罪人』であることを自覚している。
 
*目を天に向けようともせず…当時は両手を目を天に向けて祈るのが一般的。
詩篇123:1ーあなたに向かって、私は目を上げます。
天の御座に着いておられる方よ。
 
詩篇63:4ーそれゆえ私は生きているかぎり、
あなたをほめたたえ、
あなたの御名により、両手を上げて祈ります。
 
*胸をたたいて…悲しみを表す行為。
ルカ23:48ーまた、この光景を見に集まっていた群衆もみな、こういういろいろの出来事を見たので、胸をたたいて悲しみながら帰った。
 
ルカ18:14ーあなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」
 
当時の認識では、律法を守っていたパリサイ人の方が義と認められると思われていました。しかし、それは『行いによる義』です。
 
*この人が、義と認められて家に帰りました…イエスはその当時の認識を覆す教えをされました。
 
ガラテヤ3:24ーこうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。
 
モーセの律法は『キリストへ導くための養育係』として、神の基準をユダヤ人たちに教え、行いではその基準の達することのできない欠けのある『罪人』であることを認めさせ、メシア(救い主)が必要だということをわからせるためのものでした。
そのことを理解していたのは、取税人の方でした。
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『行いによる義』は、他者の目を気にし、人に見せるためのものであり、自己義人に陥りますが、神に届くものではありません。
しかし、自分の罪を認め、神により頼む悔い改めによる信仰は、神が義と認めてくださる『信仰による義』を得ることができます。
キリストの御国(=神の国/天の御国)に入るのに必要なのは、『信仰による義』です。
 
マタイ5:20ーまことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に入れません。
 
エペソ2:9ー行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
 
そして、何を信じれば救われ、神に『義』とされるのかは、異邦人への使徒となったパウロ『最も大切なこと』として記しています。

 

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信仰による良い行いは、キリストを信じる者が神のみことばに従った結果であって、救いの条件ではありません。

エペソ2:10ー私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。 

 

ヨハネ14:23aーイエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。

 

多くの人が『信仰による義』とされ、キリスト・イエスを愛し、キリストのみことばに従順な信仰の歩みへと導かれますようにー祈ー。