サザエのお裾分け

聖書を字義通り&文脈に沿って学び、理解したことの中からのお裾分け。内容は鵜呑みにせず、必ずご自分で聖書を開いて確認してくださいね。聖書理解の助けになれば幸いです。† 栄光在主 †

モーセの律法 〜出エジプト記20章~申命記28章〜

モーセの十戒』で有名な律法は、出エジプト記20章〜申命記28章までの広範囲に記されている613ある戒めです。

『十戒』はその中の最初の十の戒めを指し、四百年間奴隷として生活していたエジプトから解放されたイスラエルの民に与えられたものです。

 

ある日突然奴隷生活から解放され、今日からは自由人だと言われても、それまで主人の命令だけを聞いて従っていればいいだけの生活でしたから、自由人としての生き方がわからないイスラエルの民に、指針として最初に与えられたものが『十戒』です。この時にはまだ、罰則規定は与えられていません。

 

私たち異邦人信者は、キリストの十字架によって『罪の奴隷から解放された』のであって、エジプトでの奴隷生活から解放されたわけではありません。

この点だけを見ても、今の私たち異邦人信者に『十戒』を適用することはできませんね。

 

モーセの律法は、神がイスラエルの民(契約の仲介者:モーセ)と結ばれたモーセ契約』の内容です。


・素晴らしい律法を持っている民は、偉大な国民イスラエルしかない申命記4:7~8
・他のどんな国々にも、神のおきてとさばきは与えられていない詩篇147:19~20
イスラエルのみに神の律法が与えられたマラキ4:4

モーセの律法は『ユダヤ人に与えられたもの』であって、異邦人や教会に与えられた
 ものではないということを理解しなくてはなりません!

 

モーセ契約の条項は『十戒』だけではなく、全部で613あり、守るなら全て守る義務があります。
その内訳は、248の積極的命令と365の禁止命令です。
条件付契約のため従うなら祝福を受け、不従順なら裁きを受けるというものです。

 

出エジプト記15:26ーそして、仰せられた。「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見ら
れることを行い、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である。」

出エジプト記19:5~6ー今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがた
はすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。
あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。
これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである。」

 

レビ記1章〜7章には、五つの違った捧げ物が列記されていますが、ヘブル語の『贖う』という言葉は『罪を覆う』という意味であり、罪を取り除くという意味はありません。

旧約時代のイスラエル偶像崇拝を拒否し、イスラエルの神を信頼する信仰によって救われました。
旧約時代の聖徒立ちが捧げる動物の犠牲の血は、彼らの罪を覆うことはできても、それを取り除く力はありませんでした。『神の小羊』として来られたキリストが十字架で流される血だけが、最終的に罪人の罪を取り除くことができるのです。

罪を犯した者が捧げる律法による動物の犠牲は、神との交わりを回復するための手段だでした。
『救いは、イスラエルの神に対する信仰による』というのが、旧約時代も新約時代も同じです。

 

しかし、律法の規定の中には『神への冒涜/両親をのろう罪/姦淫(不品行)/殺意のある殺人/偶像崇拝の罪/安息日を破る罪/魔術を行う罪』などの罪に対する犠牲の動物はありませんでした。そなため、これらの罪を犯した者は、罪を犯した本人が自らのいのちを持って償わなくてはなりませんでした。

この点において、『律法には欠けがあった』とヘブル書の著者は述べています。

ヘブル8:7ーもしあの初めの契約が欠けのないものであったなら、後のものが必要になる余地はなかったでしょう。

*初めの契約モーセ契約

*後のもの…新しい契約

 

アブラハム契約では、割礼が『ユダヤ人のしるし』でしたが、モーセ契約では『割礼は律法に対する従順を表すため』のものとなりました。異邦人でもユダヤ教徒になりたい者は、律法に従うという意味で割礼を受けなければならなりませんでした。
割礼だけを受けて、ほかの律法を横に置いておくというわけにはいかず、律法は613すべてやるか、やらないかのどちらかしかありません。
ガラテヤ5:3ー割礼を受けるすべての人に、私は再びあかしします。その人は律法の全体を行なう義務があります

 

安息日』は律法の中心的条項であり、安息日は、モーセ契約のしるし。
モーセ契約はイスラエルのみに与えられたものであるため、安息日の規定もイスラエルのみに与えられているものです。

出エジプト記31:12~17によれば、安息日を守ることによって、イスラエルの人々が他の民族から区別された、ということを表す『しるし』であり、神とイスラエルとの間にのみ成立する契約の『しるし』です。

 

申命記5:12~17…神がエジプトからイスラエルの民を導き出した『出エジプトのしるし』として安息日の規定が与えられました。
エゼキエル20:12…神は『教会』をエジプトから導き出したのではなく、イスラエルをエジプトでの奴隷生活から導き出し、自由人として『安息日』を与えられ、出エジ
プトの記念とされました。

エゼキエル20:12…【主】が、イスラエルの神であることを示すしるし。*安息日は、神が天地を創造した時に全人類に与えられた命令ではありません。

 


安息日を守れ」という命令は、出エジプト記16:23~30が最初の命令であり、これが『十戒』の中に盛り込まれました。

イザヤ58:13~14信者が集まって礼拝する日ではなく『休息する日』ですが、現在のような過労死をみこして命じたわけではありません。
モーセは「安息日毎に集まって礼拝せよ」という命令は一度も出していないことに目をとめるべきです。
申命記16:16…律法が集まって礼拝するように命じているのは、過越の祭り、七週の祭り、仮庵の祭りの年に三回のみです。

 

ローマ10:4ーキリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。

キリストの十字架によって、モーセの律法が終わると、安息日の規定も自動的に終わります。

 

エレミヤ31:32ーその契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約
のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。ーー主の御告げーー

*エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約モーセ契約、律法。
*彼らはわたしの契約を破ってしまったイスラエルの民が『モーセ契約』を破りました。

 

ガラテヤ3:10ーというのは、律法の行いによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。
「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」

ヤコブ2:10~11ー律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。なぜなら、「姦淫してはならない」と言われた方は、「殺してはならない」とも言われたからです。そこで、姦淫しなくても人殺しをすれば、あなたは律法の違反者となったのです。

律法のすべてを守り行うことができなかった神の民イスラエルに代わって、神の御子がイスラエルのユダ族から誕生され、人の子として律法のすべてを守り、成就された。

 

律法が異邦人とイスラエルユダヤ人)を仕切る『隔ての中垣』となるため、私たち異邦人は、

a) 契約については他国人
b) 契約から遠く離れている人々

だと、パウロが記しています。

 
エペソ2:11~16ーですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。
すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の
人々と呼ばれる者であって、
そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束
の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでし
た。
しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にある
ことにより、キリストの血によって近い者とされたのです。
キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、
ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成
り立っている戒めの律法なのです。このことは二つのものをご自身において新しい
ひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、
また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。
敵意は十字架によって葬り去られました。


律法の時代の異邦人が神の祝福を得るためには、ユダヤ教に改宗し、割礼を受け、モーセの律法に従ってユダヤ人のように生きることが求められました。

 

律法の要求は、すでに奴隷生活から救われた人々が、自由人としていかに生きるべきかを教えるものであり、律法を行うことによって救われるのではありません。
ローマ3:19~20, ローマ7:7~8, ガラテヤ3:19ー律法が罪が何であるかを明確に教える
ため、人は律法が与えられるまでは『罪』ということを知りませんでした。
ローマ4:15, 5:20, 7:7~11ー律法によって、罪の誘惑を感じます。罪を犯すまいと努力すればするほど、内側にさらに罪の誘惑を感じるようになるのです。
1コリント15:56ー律法が、罪を犯す力を与えてしまいます。

 

私たちの罪の性質は「◯◯してはいけない」という規定があって初めて、それを否定
するものとして働き始めます。律法の命じることとは逆のことを罪の性質は望み、律法
への応答として罪の性質はより多くの罪を犯したいという思うようになると、パウロは記しています。
ローマ7:12~15ーですから、律法はせいなるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。

では、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。絶対にそんなことはありません。それはむしろ、罪なのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされ、戒めによって、極度に罪深いものとなりました。

私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。

私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。

 

律法により、救いを得るためには自らのわざを積み重ねていくのではなく、神を信頼
するという信仰』による方法しかないことを知るのです。

ガラテヤ3:24~25ーこうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信によって義と認められるためなのです。
しかし、信仰が現れた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。

osusowake.hatenablog.com

 


つまり、
・私たち異邦人は、モーセの律法には初めから関わってはいないということ。
・キリストの十字架以降は、ユダヤ人もモーセの律法の要求から完全に解放されているということ。
・私たちは新約の恵みの原則に違反しない限り、自分の意思において律法を実行することは可能だということ。
・他の人々に強制しない限り、信者は律法を守る自由も守らない自由もあるということ。

 

ただし、律法を実行したからといって、
 ⑴ 神から義と認められるわけではないということ

 ⑵ 実行する前よりきよくなるわけではないということ

 ⑶ 褒められるわけではないということ

 ⑷ その人がよりユダヤ性を高めたり、霊的になるのではないということ

を知っておく必要があります。

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モーセの律法を正しく理解することが、正しい適用に繋がります。適用を間違えると、辛く苦しい信仰生活となり、いつまで経ってもキリストによって救われた喜びを実感することは難しくなります。