『モーセ五書』と聞いてピンとこなくても、『律法』と言い換えたら理解できる人は多いと思います。創世記〜申命記までの五書を記したのがモーセのため、『モーセ五書』と呼ばれます。
『律法の書』といっても、実際に『律法』が記されているのは出エジプト後〜申命記であり、創世記は主に世界の創造から人類の堕落、そして『女の子孫』として誕生するメシアの家系について記されています。
ヘブル11:1ー信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確証させるのです。
*目に見えないもの…将来の神の約束の成就だけでなく、過去の天地創造も『目で見た者』はいません。神からの啓示を受けてモーセが記し、神のことばとして聖書66巻に収められていることを信仰によって受け入れるのです。
ほとんどの人は『律法』と聞いて最初に思いつくのは、『モーセの十戒』ではないでしょうか?
お裾分けブログでも繰り返し伝えていますが、律法は十戒だけでなく、全部で613あります。その内の最初の十の戒めを『十戒』と呼んでいるのに過ぎません。
『十戒』は、出エジプト記20章と申命記5章に記されていますが、実は、ユダヤ人、カトリック、プロテスタントでは微妙に異なります。
出エジプト記20:1~17
1 それから神はこれらのことばを、ことごとく告げて仰せられた。
2 「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。
3 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
4 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。
5 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、
6 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。
7 あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。
8 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
9 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。
10 しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。--あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も--
11 それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。
12 あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。
13 殺してはならない。
14 姦淫してはならない。
15 盗んではならない。
16 あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。
17 あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」
【ユダヤ人にとっての第一戒】は、
2節「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。
これは400年間奴隷として過ごしたエジプトの国から救い出し、奴隷から解放してくださったイスラエルの神とイスラエルの民の関係を明記しています。
80もの偶像の神々を持つエジプトにあって、生きて働かれる真の神が『イスラエルの神』であり、偶像神との『区別』を意味します。
と同時に、私たち異邦人信者はエジプトでの奴隷生活から救い出されたわけではないので、イスラエルの民と異邦人信者との『区別』でもあります。
申命記4:35ーあなたにこのことが示されたのは、主だけが神であって、ほかには神はないことを、あなたが知るためであった。
この2節を『十戒』の第一番目に置くのが、ユダヤ人たちにとって大きな意味を持ちますが、【カトリック・プロテスタントによる第一戒】は次の3節から始まります。
3節 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
プロテスタントは、宗教改革の時に教理的には軌道修正できましたが、イスラエルと教会の区別をしなかったことにより、出エジプト記20:2の重要性を見落としてしまっています。
【ユダヤ人にとっての第二戒】は、3~6節が偶像に関する一つの命令となっています。
3〜6節
あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。
それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、
わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。
彼らが奴隷として生活していたエジプトの国から救い出してくださった『イスラエルの神』を、偶像の神々と『区別せよ』という命令です。
*父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし…影響を及ぼす、の意。
親が偶像崇拝をするなら、子孫に影響を及ぼすということ。
この『偶像崇拝の罪』には、石打ちの刑という罰則が伴います。申命記13:1~10
申命記13:10ー彼を石で打ちなさい。彼は死ななければならない。彼は、エジプトの地、奴隷の家からあなたを連れ出したあなたの神、主から、あなたを迷い出させようとしたからである。
一方【プロテスタントの第二戒】は、第一戒が3節から始まるため4~6節になります。
それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、【主】であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、
わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。
ユダヤ人にとっての十戒の意味と、カトリック・プロテスタントによる異邦人信者にとっての十戒の意味は、出だしから大きく異なるのです。
ローマ10:4ーキリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。
第一戒をどこに置くかにより、律法の一部が現在でも有効と取るのか、キリストによって律法は全て現在は無効とされたと取るのか、また、律法の時代/旧約時代がいつまでなのかを理解するのに影響すると思います。
ピリピ2:6~8ーキリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。
初臨のイエスは生前、次のように言われていました。
マタイ5:17ーわたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。
メシアが何故ユダヤ人として誕生されたのか、キリストが『死に至るまで従順であられた』とは、律法に対して従順であられたことによるのです。だからこそ、その十字架の死をもって613ある律法の全てに従い抜き、律法を成就され、終わらせてくださいました。
その証拠に、現在の信者がたとえ偶像崇拝の罪を犯した場合、聖霊を悲しませることになりますが、石打ちの刑に処せられることはありません。
律法が有効であるなら、違反した場合の罰則も有効のはずです。
第三戒〜第九戒までは、ユダヤ人とプロテスタントも同じ区分をしています。
しかし、カトリックだけは偶像に関する【第二戒】を丸ごと削除していますので、第三戒が第二戒となり、一戒ずつズレが生じています。
【第三戒】7節 *カトリックでは【第二戒】
あなたは、あなたの神、【主】の御名を、みだりに唱えてはならない。【主】は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。
*みだりに唱えてはならない…別訳:あなたの神、主の名によって偽りの誓いをしてはならない。
*罰せずにはおかない…別訳:無罪にはしない。
レビ記19:12ーあなたがたは、わたしの名によって、偽って誓ってはならない。あなたの神の御名を汚してはならない。わたしは主である。
【第四戒】8~11節 *カトリックでは【第三戒】
安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。
しかし七日目は、あなたの神、【主】の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。--あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も--
それは【主】が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、【主】は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。
安息日の命令は、『仕事を休む日とせよ』というものです。これも『第一戒』をどこに置くのかによって、異邦人指導者たちによる誤導の原因となっています。
エジプトで奴隷生活をしていたイスラエルの民には、休日はありませんでした。その彼らを奴隷から解放し、自由人として、また神の選びの民として、神と同じく第七日目に休むことを命じられました。
『安息日』は奴隷生活から解放され、自由人とされたイスラエルの民とみわざをなしてくださった神との『モーセ契約』のしるしです。
出エジプト記31:17ーこれは、永遠に、わたしとイスラエル人との間のしるしである。それは主が六日間に天と地を造り、七日目に休み、いこわれたからである。」
この『安息日』に対する戒めに違反すると、罰則が伴いました。
出エジプト記31:15ー六日間は仕事をしてもよい。しかし、七日目は、主の聖なる全き休みの安息日である。安息の日に仕事をする者は、だれでも必ず殺されなければならない。
もしもまだイスラエルにおいても、異邦人信者においてもこの命令が有効であるなら、罰則も有効ということになります。罰則通りに石打ちの刑に処せられたら、処罰した者が殺人罪を問われることになります。
このことからも、キリストの十字架の死によってモーセ契約が終わったと同時に、そのしるしである『安息日』の規定も終わっていることがわかります。
ある人々は、「安息日の規定は現在でも有効である」という自らの主張を正当化するために、預言書からみことばを引っ張り出しきます。
エゼキエル書46:3ー一般の人々も、安息日と新月の祭りの日には、その門の入口で、主の前に礼拝をしなければならない。
この引用は、文脈を無視した引用です。
これは、エゼキエル書44章から千年王国の預言の中での一節であり、千年王国でのイスラエルの民に対する命令です。
*その門…千年王国のオリーブ山の上に建つ第四神殿の門。
律法によれば、礼拝をするのはエルサレムの神殿です。
しかし、キリストの律法によれば、場所も曜日も時間も関係なく、内住の御霊により信者一人一人が神の宮であるので、いつでも、どこでと礼拝することができます。
ヨハネ4:23~24ーしかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」
1コリント6:19ーあなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
【第五戒】12節 *カトリックでは【第四戒】
あなたの父と母を敬え。あなたの神、【主】が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。
第一戒から第四戒までは『対 神』に関する命令です。第五戒では『対 人』の関係に言及しています。人が誕生して最初に自分以外の人との関係を持つのが、両親です。
この命令も違反した場合の罰則があります。
レビ記20:9ーだれでも自分の父あるいは母をのろう者は、必ず殺されなければならない。彼は自分の父あるいは母をのろった。その血の責任は彼にある。
もしもこの命令が現在の異邦人信者にも有効だとしたら、この罰則により多くのクリスチャンホームの子どもたちは思春期の時点で殺されていることにならないでしょうか?
マタイの福音書19:16~22でのイエスの教えは、まだ十字架前のモーセの律法が有効だった時代のあるユダヤ人の金持ちの青年に対するものであって、現代の異邦人信者に直接言われたものではありません。
私たちは、異邦人への使徒となったパウロが命じているキリストの律法に従うべきです。
エペソ6:2~3ー「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、
「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする。」という約束です。
ここには祝福の約束はあっても、呪いの罰則はありません。
なぜでしょうか?
それは、キリストがすでに十字架で呪われた者となり、神の小羊として身代わりに死んでくださったからです。
だから、私たちが両親を敬うのは、モーセの律法に従うのではなく、キリストの命令に従ってのことなのです。
【第六戒】13節 *カトリックでは【第五戒】
殺してはならない。
第六戒から第十戒までは『自分自身』に対する戒めであり、この戒めにも罰則があります。
民数記35:21ーあるいは、敵意をもって人を手で打って死なせるなら、その打った者は必ず殺されなければならない。彼は殺人者である。その血の復讐をする者は、彼と出会ったときに、その殺人者を殺してもよい。
ただし、殺意をもって殺した場合であり、過失致死罪の場合はさばきを受けるまで、もしくは、その年の大祭司が死ぬまで『のがれの町』に逃げることができました。
民数記35:9~11ー主はモーセに告げて仰せられた。
「イスラエル人に告げて、彼らに言え。あなたがたがヨルダンを渡ってカナンの地に入るとき、
あなたがたは町々を定めなさい。それをあなたがたのために、のがれの町とし、あやまって人を打ち殺した殺人者がそこにのがれることができるようにしなければならない。
ヨシュア記20:6ーその者は会衆の前に立ってさばきを受けるまで、あるいは、その時の大祭司が死ぬまで、その町に住まなければならない。それから後、殺人者は、自分の町、自分の家、自分が逃げて来たその町に帰って行くことができる。」
【第七戒】14節 *カトリックでは【第六戒】
姦淫してはならない。
この戒めにも罰則があり、姦淫の罪を犯した『男も女も』石打ちの刑に処せられました。
レビ記20:10ー人がもし、他人の妻と姦通するなら、すなわちその隣人の妻と姦通するなら、姦通した男も女も必ず殺されなければならない。
また、男女間の姦淫だけでなく、親子間、同性間の姦通罪も同罪でした。
レビ記20:11~13ー人がもし、父の妻と寝るなら、父をはずかしめたのである。ふたりは必ず殺されなければならない。その血の責任は彼らにある。
人がもし、息子の嫁と寝るなら、ふたりは必ず殺されなければならない。彼らは道ならぬことをした。その血の責任は彼らにある。
男がもし、女と寝るように男と寝るなら、ふたりは忌みきらうべきことをしたのである。彼らは必ず殺されなければならない。その血の責任は彼らにある。
13節は、現代社会の問題を考える上で参考になりますね。
どうか、クリスチャンは人権と罪の問題を切り離して考えることができますように。
また、人間同士の姦淫だけでなく、獣相手の場合も殺されることになっていました。
出エジプト記22:19ー獣と寝る者はすべて、必ず殺されなければならない。
この律法がわかると、ヨハネの福音書8章の出来事がより深く理解できるようになります。
盗んではならない。
窃盗罪は死刑にこそなりませんでしたが、かなりの賠償をするようにと出エジプト記22章に記されています。
あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。
出エジプト記23:1~2ー偽りのうわさを言いふらしてはならない。悪者と組んで、悪意のある証人となってはならない。
悪を行う権力者の側に立ってはならない。訴訟にあたっては、権力者にかたよって、不当な証言をしてはならない。
申命記19:16~20ーもし、ある人に不正な証言をするために悪意のある証人が立ったときには、
相争うこの二組の者は、主の前に、その時の祭司たちとさばきつかさたちの前に立たなければならない。
さばきつかさたちはよく調べたうえで、その証人が偽りの証人であり、自分の同胞に対して偽りの証言をしていたのであれば、
あなたがたは、彼がその同胞にしようとたくらんでいたとおりに、彼になし、あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。
【ユダヤ人にとっての第十戒】と【プロテスタントが主張する第十戒】17節
あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」
*すなわち…『隣人の家』の内容を言い換えているだけで、17節全部で【第十戒】となります。
【カトリックでの第九戒】17節前半
あなたの隣人の家を欲しがってはならない。
すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」
カトリックは第十戒を二つに分けて、抜かした偶像崇拝に関する【第二戒】の代わりに数を補っています。
『モーセの十戒』と一言で言っても、どの立場かによって戒めが変わってきます。
ちなみに、ヘブル的視点の立場に立つ私は、ユダヤ人たちにとっての【十戒】の区分が、キリスト・イエスの十字架の贖いとの関係で一番辻褄が合うと思っています。
出エジプトをして自由人となったイスラエルの民に、一気にドンと613もの律法を与えても、守ることも、覚えることもできません。神は荒野の旅を通して徐々に彼らを教え、繰り返し教え、導いて来られました。
創世記で『エデン契約』『アダム契約』『ノア契約』と人類代表と契約を結び、『アブラハム契約』によって、アブラハムとその子孫に、子孫、土地、祝福の約束をされ、
出エジプト記前半で430年間のエジプトでの生活を通して、純粋な『アブラハム、イサク、ヤコブの子孫としてのイスラエル民族』を増やし、ある意味子孫の約束を成就されました。
そして、キリストの型であるモーセをリーダーに立てて出エジプトさせ、約束の地へと導かれる過程において、彼らを神の民としてふさわしく教育されました。
申命記4:7~8ーまことに、私たちの神、主は、私たちが呼ばわるとき、いつも、近くにおられる。このような神を持つ偉大な国民が、どこにあるだろうか。
また、きょう、私があなたがたの前に与えようとしている、このみおしえのすべてのように、正しいおきてと定めとを持っている偉大な国民が、いったい、どこにあるだろう。
*偉大な国民…律法を託されたイスラエルの民
私たち異邦人信者が『神の民』とされたのは、信仰によって『アブラハム契約の祝福の約束』を受け継ぐ者とされたからです。『子孫と土地の(祝福も)約束』は、いまでも神の長子イスラエルのものです。
ヨハネ1:12ーしかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
ローマ11:24ーもしあなたがたが、野生種であるオリーブの木から切り取られ、もとの性質に反して、栽培されたオリーブの木につがれたのであれば、これらの栽培種のものは、もっとたやすく自分の台木につがれるはずです。
*野生種であるオリーブの木…異邦人信者
異邦人信者である自分を『神によって接ぎ木されたオリーブ』と取るのか、『霊的イスラエル』と取るのかで、聖書理解の着地点は大きく異なります。
今まで聞かされてきたことを鵜呑みにするのではなく、みことばが何と言っているのかを確認し、みことばに立つ信仰を目指したいですね。