民数記34:11ーその境界線は、シェファムからアインの東方のリブラに下り、さらに境界線は、そこから下ってキネレテの海の東の傾斜地に達し、
申命記3:17ーまたアラバをも与えた。それはヨルダンを境界として、キネレテからアラバの海、すなわち、東のほうのピスガの傾斜地のふもとにある塩の海までであった。
*もう一度ご自分を弟子たちに現され…三度目
①ヨハネ20:19ーその日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」
マタイ28:7ーですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、お会いできるということです。では、これだけはお伝えしました。
*わたしの兄弟たち…弟子たちのこと。
イエスと出会い、仕事をしながら教えを受けていた場所です。
そう考えると、『ほかふたりの弟子』とは、ガリラヤ出身のピリポとペテロの兄弟アンデレの可能性が浮上しますね。
ヨハネ21:3ーシモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。
*私は漁に行く…私は元の漁師に戻る、という意味。
ペテロには姑も妻もいましたから、師であるイエスを失った以上、家族を養い、生きていくためには働かなくてはなりません。
マタイ8:14ーそれから、イエスは、ペテロの家に来られて、ペテロのしゅうとめが熱病で床に着いているのをご覧になった。
1コリント9:5ー私たちには、ほかの使徒、主の兄弟たち、ケパなどと違って、信者である妻を連れて歩く権利がないのでしょうか。
*私たちもいっしょに行きましょう…ほかの六人もペテロに合流することにしました。ここに十二使徒のリーダーだったペテロに従う弟子たちの姿が見られます。
みな同じような思いだったのでしょう。
元の仕事に戻ってはみたものの、その夜は何もとれませんでした。
生活のために元の仕事についたのに、何もとれなかったという現実に彼らはがっかりしたことでしょう。しかし、神様側からの視点ではどうだったでしょう?
*夜が明けそめたとき…空が白みはじめた頃、の意。
*子どもたちよ…弟子たちは全員ユダヤ人ですから、神の選びの民であると同時に、神の初子です。
*食べる物がありませんね…「何か食べる物はありますか?無いのではないですか?」の意。
*そこで、彼らは網をおろした…ペテロもゼベダイの子たちも元はプロの漁師であり、夜は明けていますから魚が取れると思っていなかったのではないでしょうか?
まだ誰だかもわからない『岸べの人』の言葉に、なぜ弟子たちはすなおに従ったのでしょう?
この出来事を思い出しますね。
ルカ5:2~11ー岸べに小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。
話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われた。
するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」
そして、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。
そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになった。
これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」と言った。
それは、大漁のため、彼もいっしょにいたみなの者も、ひどく驚いたからである。
彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。
*「主です。」…ペテロもルカ5:2~11のフルタイムの弟子としての召命の時の出来事を思い出したのでしょう。『岸べの人』が、主イエスだと気づきました。
ペテロはこのとき『裸だった』とあります。
湖に飛び込むのに、なぜわざわざ上着をまとったのでしょう?
聖書には記されていませんが、湖に飛び込んだ後ペテロはどうしたと思いますか?
ヨハネ21:8ーしかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。
*百メートル足らずの距離だった…『岸べの人』がイエスであるとわからなかった理由の一つが、岸べまでの距離だったことがわかります。
ペテロ以外の弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟で岸までやって来ました。
この時の弟子たちの気持ちはどのようだったでしょう?
ヨハネ21:9ーこうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。
弟子たちが陸地に上がると、そこにはすでに炭火と『その上に載せた魚』とパンがありました。この魚とパンはどこから来たのでしょう?
主が用意された魚とパンだけではなく、弟子たちが今とった魚も持って来るように言われました。イエスは弟子たちの働きも無駄にはされず、評価されました。
ヨハネ21:11ーシモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。
*シモン・ペテロは〜網を陸地に引き上げた…他の弟子たちではなく、リーダーとしてペテロが一人で網を陸地に引き上げました。
*153匹の大きな魚…『153』という数字が何かを象徴していると比喩的にとるのではなく、当時の漁師たちの均等に分けるという習慣から字義通りに理解すべき。
*網は破れなかった…主の守り。
*朝の食事をしなさい…イエス様からの和解の食事への招き
*パンを取り、彼らにお与えになった…最後の過越の食事を思い起こさせるもの
一度目ーヨハネ20:19~23
二度目ーヨハネ20:26~31
三度目ーヨハネ21:4~14
弟子たち全員に裏切られ、リーダーであるペテロに至っては三度も「主を知らない」と言ったにもかかわらず、イエスは和解の食卓を用意され共に食事をされました。
「傷跡に触って見なければ信じない」と言ったトマスには、傷跡を示し「触ってみなさい」とまで言われました。
罪人の身代わりとなって十字架で死なれ、墓に葬られ、復活されたイエス様の手には釘の跡が残っています。その手でパンを取り、弟子たちにお与えになりました。
その手からパンを受け取る弟子たちはどのような思いだったでしょうか?
その手からパンを受け取る弟子たちはどのような思いだったでしょうか?