どんな人でも、求道者の時もあれば、霊的幼な子の時があるもの…。
久しぶりのブログ更新は、これまでの『あゆみ』を記しておきたいと思います。
キリストの福音を信じ、バプテスマを受けた後、私は聖書を知りたいと心から思いました。でも、周りには誰も『聖書のみことばを説き明かす』人はいませんでした。説き明かすどころか、聖書の読み方すら教えてくれる人もいなかったのです。
リビングバイブルを買ってみたけど、ひとりでは続かなかったし、せめてみことばを覚えようと、その時々に励ましてくれた聖句をメモして、見返しもしたけれど、覚えた先から忘れていくという状態でした。
受洗後2ヶ月でニュージーランドにワーホリで行った時、ウェリントンの教会で知り合った老姉弟の家に食事に招かれました。
食後の団欒の中で自分の犯した罪を告白した時、老弟の口から即座に出てきたのが、1ヨハネ1:9でした。
「このみことばを君は今 実行したんだよ。たがらもう、きよめられたんだよ。」と彼は言いました。
その後も何か話す度に、彼の口からは適切なみことばが飛び出し、私を圧倒しました。
(こんなふうにみことばが生きて働くクリスチャンになりたい‼️)
クリスチャンとしての生き方が定まった日でした。
日本に帰国し、母教会が出版した初心者向けのデボーションブックを買い、先輩クリスチャンにお願いしてご指南してもらうことにしました。
でも、信仰の先輩はただテキストに沿って進めるだけで、噛み砕いた説明は一切なかったのです。
(あれ⁈ もしかして人に説明できる程 理解されてないのかな…?)
そんな疑問さえ持ちました。
その後、転勤で渡豪。シドニーの教会に導かれました。
説教も祈りも賛美も全て英語…段々と飢え渇きを覚え、「同年代の日本人の信仰の友を与えてください」と祈るようになりました。
約半年間祈り続けた答えは、通っていた教会に『日本人教会』ができるという形で叶えられました。
祈ったこと以上の応えが、具体的に与えられた最初の経験でした。
初めは少人数のため、様々な奉仕に携わることになりました。
日本の母教会は大きい教会だったので、特にこれという奉仕をすることもなく、ただ日曜日毎に礼拝だけに出席するという『お客様信者』状態が続いていたので、直接奉仕に参加できることは大きな恵みでした。
牧師からは何事も祈りで始め、祈りで終わることの大切さ、みことばを一字一句確認しながら、聖書を読むことの大切さ、信徒の交わり、互いに仕え合うことの大切さなど、信仰生活の基本を教えられました。
みんなが神の家族として、互いに仕え合い、支え合いながら、個々の家庭生活を一緒に営んでいる感覚で、初代教会の営みにも似た感じを覚えました。
しかし、サタンの攻撃もありました。
「神の教会を潰すには、牧師の足をすくうこと。牧者がコケれば、羊は散り散りになる」とよく言われますが、その通りのことが起こりました。
牧師が講壇の上から一部の信徒に対するあからさまな個人攻撃(批判)をするようになり、礼拝説教は聞くに耐えないものとなっていきました。
礼拝場所を貸してくれていたオーストラリアの教会の牧師が、日本人牧師と信徒たちとの間に立ち、「日本人教会が主にあって正常な働きをしていない。信徒たちの顔に喜びがなくなってしまっています。牧会に問題があります。牧師は悔い改めるか、自分の義だけを主張するのなら、どこか他でやってください。その場合、この日本人の群れは我々で養っていきますから!」とはっきりとした対応で臨んでくれました。
40名前後になった群れは振るいにかけられ、わずか十数名だけが残されました。
ある者は別の教会へ、ある者は信仰そのものから離れていきました。
でも、残った者たちは神の栄光を見ることになりました。
教会運営に必要な受付、司会、奏楽、録音、週報作り、教会学校の教師、会計など、奉仕経験者が、それぞれ1~2名ずつ残されていたのです。
礼拝は、AUSの教会の牧師と本部から交代で説教を取り次いでくれることになり、いろんな方面でのサポートもしてくれました。
信徒たちは自発的に自宅を解放し、祈祷会やバイブルスタディをするようになり、日曜日だけでなく平日も毎日のようにどこかで集会が開かれている教会生活となりました。私の信仰の基礎の時代は、このようにして築かれていきました。
その後子どもたちが生まれ、家計の足しにと始めたホームステイを受け入れることにしました。
ある時、二週間の予定でステイすることになった日本人の女の子が引っ越して来たのは、我が家での家庭集会の真っ最中でした。
少しだけ学びを中断して部屋に案内し、学びが終わるまで荷解きをしてもらうことにしました。
子どもたちの就寝後、寛いでいると「聖書を学ばれているんですか?私も学んでます目が笑っている笑顔」と彼女。
私「えっ⁈クリスチャンなの?どこの教会に行っているの?」
彼女「教会には行っていないんです。でも集会で勉強してます。」
…???…
私「あっ、もしかしてエホバの証人なの⁈」
彼女「はい」
教会では「エホバの証人、モルモン教、統一教会は異端です」とは聞かされてはいたものの、何がどう違って『異端』なのかの知識はほとんどありませんでした。
二十歳くらいの頃、宣教師を名乗る外人女性に駅で声をかけられて、連れて行かれた先がモルモン教会でした。
何の知識もなく、2、3回モルモン教会に通ったこともあります。
勧められるままに『モルモン經』(当時¥400)を買ったものの、キリスト教は聖書のはずなのに、何でモルモン經?と疑問を感じていました。
モルモン教の礼拝で行われた聖餐式。キリスト教会の儀式だと思い、礼拝に参加したらやるものだと思ってた私は、何の躊躇いもなくパンを取って食べたところ、私を誘った宣教師から注意されてしまいました💦
「信じていないのに、聖餐式に与ってはダメです」と。
何故、事前に教えてくれないの?
信者しか与れないものなら、未信者を礼拝には誘わないで欲しいと思いました。
ここから私の中で「何か変!」という警報が鳴ったのです。
礼拝後、別な部屋に移動すると、壁には棒グラフがありました。
教会員の誰が、どこまで『モルモン經』を読んだのかを競わせるためのものでした。
(どっかの会社の営業マンみたい…)
やっぱり変だ‼︎
彼らはいつか宇宙の中の別な地球のような星の神になるのを目指していると言う。
…なんだ、それ?!
絶対変、間違いない!
私の直感がそう警報を鳴らしていました。
更にモルモン教会員になると、ジュースは100%果汁のものだけ、お酒類、カフェイン飲料は一切禁止だと言われました。
大好きな珈琲も飲めなくなるの?!
それでは、私が入信しても長く続けることは出来ない。絶対無理!!!!
そう思って行くのを止めました。
イザヤ書14:12~15によれば、『神のようになりたい』というのは、元々サタンの思いであり、それを蛇を介してエバを誘惑し、人間を罪ある者としました。
モルモン教の教えは、サタンの思いそのものだ!…そう確信しました。
ヨハネ16:8ーその方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。
これらのみことばを知った時、モルモン教に入信しなかったのは御霊の守りだったと確信しました。
統一教会については、芸能人の合同結婚式等でマスコミが騒いだこともあり、何となく変だと知っていました。
でも、エホバの証人の教えはどんなものなのかはまだ知らなかったので、ホームステイの子と毎晩のように夜中まで話し、同意できる点や相違点を確認したりしていました。
彼女を通して、ほかのエホバの証人から一冊の本を借りました。
これがきっかけとなり、彼女が帰国した後、本の持ち主と一年半の間『聖書に基づいて論じる』ことになりました。
使徒17:2ーパウロはいつもしているように、会堂に入って行って、三つの安息日にわたり、聖書に基づいて彼らと論じた。
シドニーの教会での5年間のみことばの学びに加え、エホバの証人との聖書に基づいた話し合いは、私を霊的に大きく成長させてくれました。
エホバの証人の教えは、ある箇所の解釈はAとしてキリスト教界の教えと一致しますが、同じ内容の別な箇所では独自の教理に合わせるためにA'となり、聖書全体の整合性がないのです。
また、教理そのものが発足以来何度も変更になっていることもあり、真理が180度変わることもしばしばです。
それに対し、私が受けてきた聖書全体が伝える教えは矛盾しません。
どこをとっても金太郎飴のように、イエス・キリストへと結び付くものです。
どちらの教えが真理か…言わずもがな…ですよね。^^;
一年半後、彼女が聖書の真理に気付き始めたような手応えを感じた頃、エホバの証人の長老からストップがかかり、ある日突然 話し合いは終了しました。
悲しかった。
心の底から悲しかった。
もう少しだったのに…そう思うと余計に悲しかった。
落胆しているところに、電話がかかってきました。
親しい教会の姉妹からでした。
「サザエさん、火曜日の午後って空いてる?」
私「今日まで火曜日の午後はエホバの証人と話し合いを続けてたのに…来週からはもうないの。( ; ; )
さっき断られたから、空くことになるけど…」
「ハレルヤ♪なら丁度良かった。
私がやってる未信者との伝道クラス、引き継いでもらえない?
来週から仕事になっちゃって、どうしても続けられないのよ。
だから、お願い!」
(エーーーッ!何、このタイミング‼︎)
私「わかった。どこまで出来るかわからないけど、やってみるね。場所は教会ね、OK」
1,996年の出来事。
信仰を与えられて11年後、初めて誰かに『みことばを教える』というチャレンジを受けた年となりました。
ついつい知ってることを伝え過ぎて、相手をアップアップさせてしまう結果に…💦
それでも主の憐れみにより、全てを働かせて益としてくださり、このときの求道者は後に救われました。
ローマ8:28ー神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
あれほど『覚えたい』と思って頑張っても、一夜漬けのように抜けていったみことばが、文脈に沿って『内容』を理解できるようになった時、自然と覚えられるようになっていきました。
NZで出会った老弟のように、その時々で必要なみことばが出て来るようになってきたのです。
みことばの力を体験させていただく信仰の歩みが少しずつできるようになっていきました。
聖書の読み方、デボーションの仕方が理解できるようになると、くじ引き式の『日々のみことば』や文脈を無視したみことばの一部だけを切り取ったデボーションブックでは、霊的飢え渇きを満たすことはできないことに気づきました。
だんだんとそのような『副読本』から離れ、聖書そのものだけを読むようになりました。
そのような時にヘブル的視点での聖書理解に出会いました。
その結果、現在の信仰へと導かれたのです。