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サザエのお裾分け

聖書を字義通り&文脈に沿って学び、理解したことの中からのお裾分け。内容は鵜呑みにせず、必ずご自分で聖書を開いて確認してくださいね。聖書理解の助けになれば幸いです。† 栄光在主 †

金持ちとラザロ

イエスさまの譬え話の中の唯一の実話。そこには死後の世界が…信者も未信者も復活します!主と同じ復活のからだで…でも行き先が異なるのです。信者は神の国へ。未信者は火の池へ。執行猶予は、からだが生きている間です。あなたは、身代わりになってくれる方を見つけましたか?

 

ルカの福音書にはたくさんの譬え話があります。イエスさまがたとえを用いられたのは、ストレートで御国のことを話しても聞く側の私たち人間が理解出来ないので、分かりやすく御国の真理を伝えるためです。だから譬えの中にある真理に耳を傾ける必要があります。

  

ヘブル的には譬え話をする時は、実名は使いません。だからルカの福音書の譬え話のすべて「ある人が…」となっています。「金持ちとラザロ」の話以外は…。つまり、この話だけは譬えではなく「実話」だということです。

 

さてさて、では本題です(^o^)。ルカ16:19~31

ルカ16:19ー紫の衣=1番の金持ち(cfマルコ15:17,20-王位を表す)。

細布=エジプト亜麻の柔らかな下着。彼は、贅沢三昧の生活をしていました。

 

 

ルカ16:20ーその金持ちの門前に貧乏人で全身おできのラザロが寝ていました。ラザロ=「神が助け」の意。

 

ユダヤ教の中心は、祈り、断食、慈善・施しです。ラザロはこのおできのために職に就くことも出来なかったので、ある金持ちの家の前で施しを待っていたのです。

 

申命記15:7ーあなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたのどの町囲みのうちででも、あなたの兄弟のひとりが、もし貧しかったなら、その貧しい兄弟に対して、あなたの心を閉じてはならない。また手を閉じてはならない。

 

 

ルカ16:21ー贅沢三昧に暮らしている金持ちは、自分のためにお金を使っても、ラザロを思いやり施しをすることはありませんでした。つまり、神を信じ、神の命令に従うという信仰がなかったのです。 食卓から落ちる物=パンくず。残飯を捨てることはあっても、ラザロにはパンくずすらあげなかったことが分かります。憐れみの欠片すらありませんでした。

 

 

ラザロのところに慰めに来たのは、犬だけでした。犬=野良犬。(小犬=飼い犬。cfマタイ15:26)

 

 

ルカ16:22ーラザロは亡くなりました。たぶん、餓死したのでしょう。彼の遺体について聖書は何もいっていません。おそらく、ヒンノムの谷に捨てられたのでしょう。しかし、ラザロの霊魂は、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれました。

 

*聖書的には「死」とは肉体とたましいの分離を意味します。

 

そこは「慰めの場所」…分かりやすく言うならば、天国行きの待合室のような所です。金持ちも亡くなりました。彼の遺体は「葬られた」とあるので、立派な葬儀が行なわれたと思います。

 

 

ルカ16:23ーしかし、彼の魂はハデスに行きました。ハデスー苦しみの場所。地獄行きの待合室のような所。お金持ちの肉体は亡くなったのに、「苦しみながら目を上げると」というのは、死後も意識はあるということです。彼が見たのは、アブラハムとラザロでした。

 

 

目を上げるとー慰めの場所は、苦しみの場所より高い位置にあることが分かります。はるかかなたにーある程度の距離感があります。

 

 

ルカ16:24ー叫べば会話が出来る距離です。お金持ちの魂は、苦しみの場所で炎の中にいます。本当に熱い時は、沢山の水を欲するはずなのに、彼の願いは「ラザロが指先を水に浸して、私の舌を冷やすように…」です。指先から滴り落ちる水滴では冷やせませんよね

 

 

ここで、ヤコブの手紙2:13を見てください。“あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。” ラザロが欲しかった食卓から落ちる物と指先から滴る水滴がリンクしてるのです。

 

 

お金持ちは、自分が決して慈悲深くはなかったことを理解していたから、「コップ1杯」ではなく「水滴」をリクエストしたのでしょう。箴言14:31を参考に25節を読めば、ラザロには信仰があり、お金持ちには信仰がなかったことが分かります。

 

 

ルカ16:27〜28ーお金持ちの最初の願いは、却下されました。ここでは次の願いと理由を述べています。彼は家族に会いたいとは願っていません。逆に「こんな苦しみの場所に来て欲しくない」と言っています。この願いは苦しみの場所に行った人全員の願いでしょう

 

 

ルカ16:29モーセと預言者=モーセの律法と預言書=旧約聖書

つまり、アブラハムの答えは、旧約聖書の言うことを聞くべきだ、でした。

 

 

ルカ16:30ー死人が復活し、死後の世界で見聞きしたことを伝えれば、信じるに違いない!とくいさがっています。主イエスも死んで、復活し、ご自身を現してくださいました。

 

 

ルカ16:31モーセ=神のことばを教える人。預言者=神のことばを宣べ伝える人。モーセと預言者の教えに耳を傾けないのなら、誰が復活したとしても、お金持ちの兄弟たちは聞き入れはしない!とこの願いも却下されました。

 

今は聖書66巻が完成しています。普通の本屋にも聖書は売られています。街を歩けばあちこちに(教会の)十字架がかかげられ、神が和解を呼びかけておられます。

 

人間が作った教えには、一貫性がありません。ある者は「死んだら無になる」と言い、またある者は「空の星になる」と言います。「日本人は仏教徒だから、キリスト教は必要無い!」と言いながら「死んだら天国に行く」と言います。仏教徒であるならば、天国ではなく「極楽」だと思うのですが…変ですよね?!

 

なぜお金持ちの名前は出て来ないのでしょう?なぜ貧乏人ラザロの名前は出てくるのでしょう?それは、ラザロの名が「小羊のいのちの書」に記されているからです。日本人はいのちの書に名が記されないままの「ある金持ち」のままでいいのでしょうか?

 

 

アブラハムとラザロがいる「慰めの場所」とある金持ちがいる「苦しみの場所」の間には“大きな淵”があって行き来できないってアブラハムが言ってましたよね!? ールカ16:26

 

 

今は「大きな淵」どころか、地の下(苦しみの場所)と天(アブラハムのふところ)まで離れてしまいました。イエスさまが昇天された時「アブラハムのふところ」を連れて行かれたので、引っ越したのですーエペソ4:8。だから信者は死ぬと神の元に行くのです

 

 

聖書的結論は、伝道者の書12:13〜14−結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。

 

 

あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」と言う年月が近づく前に。ー伝道者の書12:1

 

 

神さまのことを人々に伝えることはとても大切です。でも、神の愛や賛美、感謝だけしか伝えないのは問題です。逆に裁きだけを強調することも正しくありません。神の愛と神は罪を裁く方であることをきちんと伝える責任がクリスチャンにはあるのです。

 

 

神にはえこひいきなどはないからです。ーローマ2:11にあるように、信者も未信者( 死後は不信者)も復活します。ただ、そのタイミングと復活後の行き先が違うのです。

 

復活の順序は、1)初穂であるキリストー1コリ15:23 2)教会時代のキリストにある死者ー1テサ4:16 3)携挙の時に生き残っているキリスト者1テサ4:17 *2)と3)は同時。4)旧約時代の聖人、義人たちーダニエル12:1~2他。

 

 

5)患難時代の聖徒たちー黙示録20:4~5 *4)と5)は、千年王国の始まりの時。 6)神とキリストを信じなかった者(不信者)ー黙示録20:13~14千年王国の終わり(白い大いなる御座の裁き)

 

 

アダムから「霊的死」と「肉体の死」を受け継いだ人間は、生まれながらに「死刑」を宣告された存在です。人生はその「執行猶予期間」でもあります。その間に身代わりとなってくれる方を見つけなければならないのです。

 

 

神は永遠なるお方で死ぬことはありません。人間は誰か一人のためには身代わりとなることは出来るでしょう。でも、人類全員の身代わりとなることはできません。人類全員を救うためには、人間より尊い存在でなければならないのです。

 

 

だから、神の御子が人となって来られ、全人類のために十字架に掛かり、身代わりとなって罪の責任を負ってくれました。このことを自分のこととして信じた人がクリスチャンであり、神の子として「神の国(天国)」に入ることが許された者なのです。

 

 

一方、十字架とこの神の愛を軽んじ、「自分の罪の責任くらい自分でとる」という人や「私は罪人ではない」と無罪を主張する人は、肉体の死だけでなく霊的死を受け入れる覚悟が出来ている勇敢な人と言えるでしょう。地獄が待っているのですから。

 

 

神の裁きの時「教会に行ったことがある」「聖書を読んだことがある」だけでは、神を知っていることになりません。それはただTVを通して芸能人を知っていると言っているのと同じで、相手に自分は知られてないからです。

 

 

神を父として呼ぶ御子の御霊を持ち、神に子として知られなければ、天国には入れないのですーガラテヤ4:9。 執行猶予が残されている間に、私たちが愛する家族、親族、友人、知人が身代わりとしてのイエスさまを受け入れることが出来ますように。

 

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