先日、50代の女性に伝道した時、大きく頷きながら『キリストの福音』に耳を傾けておられました。
(ああ、きっと真理の神様を求めている方なんだなぁ〜) と思い、信じる決心を促したところ…
「クリスチャンになったら、お墓参りとか行ってはダメなんですか?」
「自分が死んだら家族のお墓ではなく、教会のお墓に入れられるんですか?」
と、とても寂しそうな顔つきで質問されました。
そのことを信者である姉妹と話し合ったとき、日本でキリストの弟子が増えない理由はそこにあるのではないか、と気付かされました。
偶像崇拝に繋がることを恐れる余り、それぞれの思い込みや私的解釈に基づいて、お墓参りの禁止、お仏壇や位牌の排除などを半ば当然のように伝えてしまうことにより、救いまであと1歩まで近づいた人々の前に躓きの石を置いてしまう💦
今まで、どれだけのたましいの救いを逃してしまったのでしょうね…?😢
クリスチャンになったら、本当にお墓参りは行ってはいけないのでしょうか?
聖書は本当に禁止しているのでしょうか?
ヨハネ8:32ーそして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。
イエス様もラザロのお墓に行かれましたが、ラザロは死んで終わりではなく、よみがえらされるという神の栄光に変えられました。
ヨハネ11:17ーそれで、イエスがおいでになってみると、ラザロは墓の中に入れられて四日もたっていた。 主イエスも十字架の死の後、墓に葬られました。
ルカ23:53ーそれから、イエスを取り降ろして、亜麻布で包み、そして、まだだれをも葬ったことのない、岩に掘られた墓にイエスを納めた。 そして、その墓を訪ねて来る人々がいました。
ルカ24:1ー週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた。 それは、お墓の前で死者を『拝む』ためではなく、丁重に葬るためでした。
『信仰の父』『神の友』と呼ばれるアブラハムも、妻サラが亡くなったとき、その遺体を葬りました。
創世記23:17~19ーこうして、マムレに面するマクペラにあるエフロンの畑地、すなわちその畑地とその畑地にあるほら穴、それと、畑地の回りの境界線の中にあるどの木も、
その町の門に入って来たすべてのヘテ人たちの目の前で、アブラハムの所有となった。
こうして後、アブラハムは自分の妻サラを、カナンの地にある、マムレすなわち今日のヘブロンに面するマクペラの畑地のほら穴に葬った。
ローマ14:23ーしかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。なぜなら、それが信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。
故人を偲んでお墓を訪れることも、お墓の掃除をすることも、お花で飾ることも罪ではありません。
しかし、生きている者がこの世の苦難からの守りや助けを、故人に祈り求めるとき、それは『偶像』と化してしまいます。
最初の人間、アダムのからだは、土地のちりで造られました。そして、生きるために神様から『いのちの息=御霊』を入れられました。
創世記2:7ー神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。
『人が死ぬ』というのは、たましいとからだの分離です。
だから、人が死ぬとからだはちりに帰り、霊は神に帰ると聖書は教えています。
伝道者の書12:7ーちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。
しかし、その肝心な『霊』はアダムとエバが犯した原罪により死んでしまい、アダムとエバの夫婦関係から生まれた次世代からは、霊が死んだ状態で生まれてくるようになりました。
その『いのちの息』である『神の霊』を再びからだのうちに入れる唯一の方法が、救い主なるイエス・キリストの福音を信じる信仰によってなのです。
その信仰抜きにいくら主を呼び求めても、肉体の死によってからだから離れたたましいが神の元に帰ったときに、受入れてもらうことはできません。
マタイ7:22ーその日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』
しかし、その時、わたしは彼らにこう宣言します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』
キリストの福音を受入れて初めて『いのちの書』に名が記されます。この書の名が記されていない人々のたましいは、神が与えられる御国の保証となる御霊を持っていないので、神に『あなたがたを知らない』と言われてしまうのです。
エペソ1:14ー聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。これは神の国の贖いのためです。神の栄光がほめたたえられるためです。
私たち人間はこの地上に生きているので、地上の物質的なもの、有限なものに心を奪われがちですが、父なる神は天におられるので、私たちも天上の霊的なもの、無限のものに目を向けるようになることを望んでおられます。
コロサイ3:2ーあなたがたは、地上のものを思わずに、天にあるものを思いなさい。
私たちの肉体は『有限』であり、この世にいる間のたましいの『仮住まい』として与えられているものです。それが役割を終えた時に納られるのが『お墓』です。
神様は、役割を終えた私たちの肉体の行き先よりも、私たちのたましいの行き先、そのたましいが永遠に住まう『復活のからだ』でどこに行くのかを気にかけておられます。
ダニエル書12:2ー地のちりの中に眠っているもののうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。
このことに目を向けるとき、『本当に大切なものとは何か?』ということが見えてくるのではないでしょうか?
お墓に行くこと、どこのお墓に入るのか、お墓や仏壇の掃除や飾り付け…そのようなことを気にするあまりに、真理を見逃すようなことがないように、自分自身も、また自分の周りにいる人々にも注意を呼びかける必要があると思います。
お墓参りに行き、家族と共に故人を偲び、故人との思い出の時間などを声に出して父なる神様に向かって祈れば、偶像崇拝にもならず、尚且つ、まだ主を知らない家族、親族への証しになるのではないでしょうか?
お線香を供えて静かに手を合わすという表現の仕方とは違っても、故人を偲ぶ気持ちはは同じだということは伝わるのではないでしょうか?
大切なのは、自分の信仰により誰に向かって、誰の名によって祈るのかということです。
1コリント10:23ーすべてのことはしてもよいのです。しかしすべてのことが有益とはかぎりません。すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません。
1コリント10:31ーこういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。
*何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい…これが神の命令です。
伝道者の書12:13~14ー結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。
神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。
私たちの言動のすべてが、神の栄光の現われとなりますように。ー祈ー