サザエのお裾分け

聖書を字義通り&文脈に沿って学び、理解したことの中からのお裾分け。内容は鵜呑みにせず、必ずご自分で聖書を開いて確認してくださいね。聖書理解の助けになれば幸いです。† 栄光在主 †

ガラテヤ書 4章

法主義者たちは、「救われるためには割礼を受けなければならない」と言って、異邦人信者にも割礼を受けるように教えていました。
しかし、割礼は『アブラハム契約』のしるしであり、ユダヤ人たちに命じられたものです。
 
創世記17:9~12ーついで、神はアブラハムに仰られた。「あなたは、あなたの後のあなたの子孫とともに、代々にわたり、わたしの契約を守らなければならない。
次のことが、わたしとあなたがたと、またあなたの後のあなたの子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中のすべての男子は割礼を受けなさい。
あなたがたは、あなたがたの包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたの間のしるしである。
あなたがたの中の男子はみな、代々にわたり、生まれて八日目に、割礼を受けなければならない。家で生まれたしもべ、外国人から金で買い取られたあなたの子孫ではない者も。
 
また、彼らはパウロ使徒職についても攻撃しました。
パウロはこれらの問題に対処するために、この手紙を書きました。
 
 
4:1ーところが、相続人というものは、全財産の持ち主なのに、子どものうちは、奴隷と少しも違わず、
 
*子どものうちは…これまでパウロは律法を『監獄の獄吏』や『養育係』にたとえてきました。ここでは霊的幼子と霊的成人とを対比させる目的で、まだ子どもである相続人に対する『後見人』や『管理人』にたとえています。
 
エペソ3:6ーその奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。
 
4:2ー父の定めた日までは、後見人や管理者の下にあります。
 
*父の定めた日…当時のローマ法では、子どもが成人する日は父親によって定めらました。(通常は15歳)
それまでの『未成年』である相続人は、法的には全財産の所有者ですが、まだ運用権がないため、奴隷と同じように財産を運用する自由はありません。
父方の親族による後見人や管理人によって指図されることになります。
 
4:3ー私たちもそれと同じで、まだ小さかった時には、この世のもろもろの霊の下に奴隷となっていました。
 
*この世のもろもろの霊の下…これは信者になる前と信者になった後の対比ではなく、信者の過去の地位と、キリストの十字架以降の地位との対比です。
神の選びの民であるユダヤ人たちは、キリストの十字架以前は『この世のもろもろの霊の下に奴隷となっていました。』
『この世のもろもろの霊』とは、割礼、祭儀、食物規定などのユダヤ教の幼稚な教えのことであり、ユダヤ人たちはその教えの下で奴隷となっていました。
キリストは、そこからユダヤ人たちを解放し、自由の身としました。
 
4:4ーしかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。
 
*定めの時が来た…御父が定めた御子イエス受肉させる日が来た、の意。
 
*女から生まれた者…創世記3:15の成就
 
創世記3:15ーわたしは、おまえと女との間に、
また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
敵意を置く。
彼は、おまえの頭を踏み砕き、
おまえは、彼のかかとにかみつく。
 
*律法の下にある者…御子イエスユダヤ人として生まれたのは、律法が与えられた神の選びの民イスラエルの代表として613ある律法すべてを守り、成就させるためです。
 
4:5ーこれは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。
 
*律法の下にある者を贖い出すため…律法の呪いを御子ご自身が身代わりとして受けること。
 
申命記28:15ーもし、あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従わず、私が、きょう、命じる主のすべての命令とおきてとを守り行わないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたはのろわれる。
 
4:6ーそして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。
 
*あなたがた…前節までは『私たち』となっていたのが、ここから『あなたがた/あなた』に変わっています。
 
*アバ父…『アバ』は、アラム語で『父』の意。
小さな子どもが父親に呼びかけるときに使う「パパ」や「ダディ」と同じ表現。
御父と子としていただいた信者の密接な関係を示す呼びかけ。
 
ローマ8:15ーあなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。
 
*御子の御霊…=神の御霊
神は罪人を救うために御子イエスを遣わされただけでなく、御子の昇天後は信者のうちに『もうひとりの助け主』として御霊を遣わしてくださいました。
信者の内には、御父、御子、御霊の三位一体なる神が住まわれます。
ヨハネ14:16~17, 23
 
救いには三位一体の神が関わっています。
・御父ヨハネ6:37, 39~40, 44
・御子ヨハネ3:15~17, ヘブル5:8~10, 9:15
・御霊ヨハネ14:16~17, 16:8
 
ローマ8:9ーけれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。
 
4:7ーですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。
 
*あなたは…個人的適用
 
*相続人…神の子どもとされた異邦人信者は、御国に入り神から霊的祝福を受けます。
 
ヨハネ1:12ーしかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
 
4:8ーしかし、神を知らなかった当時、あなたがたは本来は神でない神々の奴隷でした。
 
*神を知らなかった当時…ガラテヤの教会の人々がまだ信者になる前のこと
 
*本来は神ではない神々の奴隷…偶像の奴隷 
 
使徒14:11~13パウロがしたことを見た群衆は、声を張り上げ、ルカオニヤ語で、「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお下りになったのだ。」と言った。
そして、バルナバをゼウスと呼び、パウロがおもに話す人であったので、パウロをヘルメスと呼んだ。
すると、町の門の前にあるゼウス神殿の祭司は、雄牛数頭と花飾りを門の前に携えて来て、群衆といっしょに、いけにえをささげようとした。
 
4:9ーところが、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうしてあの無力、無価値の幼稚な教えに逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのですか。
 
*今では神を知っているのに偶像崇拝者であったガラテヤの人々が、真の神を知るようになったという人間側から見た救い。
 
*むしろ神に知られている…キリストを信じる信仰によって『神の子ども』とされたという、神側から見た救い。
 
*知っている/知られている…知識としてだけでなく、親密な、個人的な関係。相互関係。
 
*逆戻り…ガラテヤの信者たちは、にせ兄弟(律法主義者)たちによって再びモーセ契約(律法)の奴隷となるユダヤ教に逆戻りしようとしていました。
 
ガラテヤ2:4ー実は、忍び込んだにせ兄弟たちがいたので、強いられる恐れがあったのです。彼らは私たちを奴隷に引き落とそうとして、キリスト・イエスにあって私たちの持つ自由をうかがうために忍び込んでいたのです。
 
*無力モーセの律法による動物のいけにえでは罪を覆うだけで、取り除くことは出来ません。信仰による『義』も、信仰生活による内側からの『聖化』を与える力もなく、どこまで行っても行ないによる義を求めているだけです。
 
*無価値の幼稚な教え…キリストが613ある律法をすべて成就してくださり、終わらせてくださいました。さらに、神の小羊の血によって新しい契約が締結されたので、旧いモーセ契約は無効となりました。その無効となったモーセの律法をいくら実行しても、何の効力もありませんから、神の国千年王国)を相続することもできないのです。
 
ローマ10:4ーキリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。
 
4:10ーあなたがたは、各種の日と月と季節と年とを守っています。
 
*各種の日と月と季節と年…ガラテヤの信者たちは、律法に従って歩めば祝福されると思ってユダヤ教の暦を守っていました。
『日』とは、安息日のこと、『月』とは、新月の祝いのこと、『季節』とは、レビ記23章に記されたイスラエルの七つの祭り(過越の祭り、種なしパンの祭り、初穂の祭り、七週の祭り、ラッパの祭り、贖罪の日、仮庵の祭り)のことであり、また『年』とは、七年に一度の安息年や50年に一度のヨベルの年のこと。
 
4:11ーあなたがたのために私の労したことは、むだだったのではないか、と私はあなたがたのことを案じています。
 
*私の労したことは、むだだったのでないか…律法を守ることによって救いを得られるとしたら、キリストを信じる信仰による義を説き、労してきたことが無駄だったのではないかとの心配は、パウロ自身に対する者ではなく、ガラテヤの人々を心配してのことです。
 
4:12ーお願いです。兄弟たち。私のようになってください。私もあなたがたのようになったのですから。あなたがたは私に何一つ悪いことをしていません。
 
*兄弟たち…信者に対する呼びかけの言葉。パウロはガラテヤの信者に対し、神の家族として「兄弟たち」と呼びかけています。
 
*私もあなた方のようになったのですからユダヤ人として生まれ育ったパウロですが、キリストを信じたことによってモーセの律法から解放され、律法の外にいる異邦人のようになったということ。
 
*あなた方も私のようになってください…キリストの福音を信じた後、ガラテヤの信者たちは律法主義者たちの影響で、自らを律法の下に置くようになっていました。
彼らもパウロと同じように、律法から解放されるべきだということ。
その意味でも、パウロがお手本になっています。
 
*あなたがたは私に悪いことを何一つしていません…続く13節の一部として理解すべき聖句です。
 
4:13ーご承知のとおり、私が最初あなたがたに福音を伝えたのは、私の肉体が弱かったためでした。
 
【新共同訳】
4:13ー知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。
 
*肉体が弱かった…実際に、どういう病気だったかは不明。
体が弱ったために、その地に滞在した可能性あり。
 
4:14ーそして私の肉体には、あなたがたにとって試練となるものがあったのに、あなたがたは軽蔑したり、きらったりしないで、かえって神の御使いのように、またキリスト・イエスご自身であるかのように、私を迎えてくれました。
 
*あなたがたにとって試練となるものパウロの肉体の弱さは、ガラテヤの信者たちにとって試練(軽蔑の対象)となり得るものだったのにも関わらず、
 
*私を迎えてくれました…彼らはパウロに対して好意を示し、神から遣わされた御使い(メッセンジャー)やキリスト・イエスご自身(キリストの代理人)であるかのようにてくれました。
マタイ10:40ーあなたがたを受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。
 
4:15ーそれなのに、あなたがたのあの喜びは、今どこにあるのですか。私はあなたがたのためにあかししますが、あなたがたは、もしできれば自分の目をえぐり出して私に与えたいとさえ思ったではありませんか。
 
*あの喜び…初めてキリストの福音を聞き、受け入れ、救われた時の『あの喜び』。それがどこかに消えてしまったかのように、彼らは今律法に仕える者となっていました。
 
*できれば自分の目をえぐり出して…彼らは当初、救われた喜びのあまり『自分の目をえぐり出してパウロに与えようとさえ思った程でした。
パウロの肉体の『棘』が、目が悪かったとする根拠とされる聖句ですが、聖書は明記していないので、それが何であったかを詮索する必要はありません。
 
4:16ーそれでは、私は、あなたがたに真理を語ったために、あなたがたの敵になったのでしょうか。
 
*真理を語った…キリストの福音のこと
1コリント15:2~5ーどんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこのこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。
最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪もために死んだこと、
葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに三日目に復活したこと、
ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。【新共同訳】
 
*ケファアラム語:岩、の意。ペテロ(小石、の意)の別名。
 
ガラテヤの教会の人々は、パウロから福音を聞いた時、喜び、感動し、自分の目をえぐり出して与えたいと思うほどであったのに、なぜこんなにも変わってしまったのでしょうか?
パウロは彼らに語ったのと同じ福音を語っているのに、それが理由でパウロの敵となってしまったのだとしたら、彼らの信仰はとても危険な状態にあるということになります。

4:17ーあなたがたに対するあの人々の熱心は正しいものではありません。彼らはあなたがたを自分たちに熱心にならせようとして、あなたがたを福音の恵みから締め出そうとしているのです。
 
*あの人々…律法主義者たちのこと
 
*熱心は正しい者ではありません…律法主義者たちのガラテヤの信者たちに対する熱心は、善意からではなく、自己中心からによるものでした。
その目的は、ガラテヤの信者たちをパウロから離し、自分達の支配下に置き、パウロではなく自分たちに熱心にさせるためでした。
 
4:18ー良いことで熱心に慕われるのは、いつであっても良いものです。それは私があなたがたといっしょにいるときだけではありません。
 
*良いことで熱心に慕われる…律法主義者たちが善意から行動しているのであれば良いことですが、実際は違いました。しかし、パウロはガラテヤの人々のそばにいる時も、いない時も善意の行動によって人々から慕われていました。
 
4:19ー私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。
 
*私の子どもたちパウロの伝道によってガラテヤの人々が霊的に誕生したので、このように呼びかけています。
 
*産みの苦しみ…霊的に彼らを産み出したパウロが、再び彼らを律法主義者たちから解放し、主に立ち返させるために産みの苦しみをしているということ。
 
キリスト教のゴールは、キリストの身たけに達すること。
エペソ4:13ーついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの身たけにまで達するためです。
 
コロサイ1:28ー私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。
それは全ての人を、キリストにある成人として立たせるためです。
 
4:20ーそれで、今あなたがたといっしょにいることができたら、そしてこんな語調でなく話せたらと思います。あなたがたのことをどうしたらよいかと困っているのです。
 
*どうしたらよいかと困っているパウロの伝道によりキリストのものとなったガラテヤの信者たちが、その後霊的に成長していないことに対して困っているということ。
パウロはガラテヤの人々と直接会って、このような厳しい口調ではなく、優しく諭すように話せたらと願っていました。
 
4:21ー律法の下にいたいと思う人たちは、私に答えてください。あなたがたは律法の言うことを聞かないのですか。
 
*律法の下に遺体と思う人たちモーセの律法のこと
パウロの伝道により信仰による義を得たガラテヤの信者たちでしたが、モーセの律法を守り行うことによって聖化を得ようとしていました。
 
*律法の言うこと…ここでは創世記から申命記までのモーセ五書のこと
特に、次に続く文脈から『創世記』を指していることがわかります。つまり、「律法の中の創世記の言うことを聞かない(理解できない)のですか」ということ。
 
4:22ーそこには、アブラハムにふたりの子があって、ひとりは女奴隷から、ひとりは自由の女から生まれた、と書かれています。
 
アブラハムにふたりの子があって…エジプトの女奴隷ハガルから生まれたイシュマエルと、正妻サラが産んだ神の約束の子イサクのこと。
ここでは、後妻ケトラが産んだ六人の息子たちは除外して語られています。創世記25:1~2
 
4:23ー女奴隷の子は肉によって生まれ、自由の女の子は約束によって生まれたのです。
 
*肉によって生まれ…エジプトの女奴隷ハガルが産んだイシュマエル
 
*自由の女の子…正妻サラが産んだ約束の子イサク
 
4:24ーこのことには比喩があります。この女たちは二つの契約です。一つはシナイ山から出ており、奴隷となる子を産みます。その女はハガルです。
 
*二つの契約モーセ契約(旧約)と新しい契約(新約)
 
シナイ山から出ておりモーセ契約はシナイ山で最初の十の戒めが与えられ、契約が結ばれました。
 
*奴隷となる子モーセの律法の下で縛られる奴隷となる人々のこと
 
4:25ーこのハガルは、アラビヤにあるシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、彼女はその子どもたちとともに奴隷だからです。
 
*今のエルサレムに当たりますパウロが生きていた初代教会時代のエルサレムは、政治的にはローマ帝国支配下にあり、そこに住むユダヤ人たちの多くはメシアを拒否したままモーセの律法の奴隷となっていました。
 
4:26ーしかし、上にあるエルサレムは自由であり、私たちの母です。
 
*上にあるエルサレム…神が用意されている新しいエルサレム(やがて完成された天国として、千年王国後に第三の天から降りてきます)
ヘブル11:16ーしかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。
 
ヘブル12:22ーしかし、あなたがたは、シオンの山、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。
 
モーセの律法の行ないによる義ではなく、キリストの福音を信じる信仰による義を得た人々が永遠に住む場所は、天のエルサレムです。黙示録21~22章
 
4:27ーすなわち、こう書いてあります。「喜べ。子を産まない不妊の女よ。声をあげて呼ばわれ。産みの苦しみを知らない女よ。夫に捨てられた女の産む子どもは、夫のある女の産む子どもよりも多い。」
 
アッシリヤ帝国に圧迫されていた時代のイザヤ54:1 の預言の引用。
イザヤ54:1ー「子を産まない不妊の女よ。喜び歌え。
産みの苦しみを知らない女よ。
喜びの歌声をあげて叫べ。
夫に捨てられた女の子どもよりも多い体」
は仰られる。
 
聖書では、イスラエルは御父の妻であり、教会時代の信者は普遍的教会としてキリストの花嫁として描かれています。
 
*子を産まない不妊の女よ…荒廃されたエルサレムを指す
 
*喜び歌え…その後に来るエルサレムの回復の希望を指す
夫である神がエルサレムを回復され、祝福されるようになると言うこと。
 
*夫のある女の子どもよりも多いからだ…完成された天の都エルサレムに入るのは、ユダヤ人信者も異邦人信者もいます。その数は、モーセの律法の下にいる者たちよも多いと言うこと。
 
4:28ー兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。
 
*兄弟たちよ…ガラテヤの教会の異邦人信者たちもイサク同様、神の『約束の子ども』です。
 
4:29ーしかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。
 
*肉によって生まれた者…イシュマエルを指す
イシュマエルは、異母弟のイサクを迫害しました。
創世記21:8~9ーその子は育って乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に、盛大な宴会を催した。
そのとき、サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子が、自分の子イサクをからかっているのを見た。
 
イシュマエルは律法主義者たちに、イサクはキリストの福音を信じて新生した者の象徴として宣べられています。
主イエスも弟子たちに次のように話されました。
 
ヨハネ15:20ーしもべはその主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。もし彼らがわたしのことばを守ったなら、あなたがたのことばをも守ります。
 
4:30ーしかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」
 
*聖書は何と言っていますか…聖書に基づいて判断することの勧め。
 
*奴隷の女とその子どもを追い出せ…奴隷の子どもが、自由の子ども(正妻の子/神の恵みと約束の子ども)と共に相続することはあり得ません。
 
創世記21:10ーそれでアブラハムに言った。「このはしためを、そのこといっしょに追い出してください。このはしための子は、私の子イサクといっしょに跡取りになるべきではありません。
 
創世記21:14ー翌朝早く、アブラハムは、パンと水の皮袋を取ってハガルに与え、それを彼女の肩に載せ、その子どもとともに彼女を送り出した。それで彼女はべエル・シェバの荒野をさまよい歩いた。
 
*パンと水の皮袋…女奴隷ハガルとその子イシュマエルがアブラハムから与えられたのは、パンと水の入った皮袋だけでした。
 
創世記25:6ーしかしアブラハムのそばめたちの子らには、アブラハムは贈り物を与え、彼の生存中に、彼らを東のほう、東方の国にやって、自分の子イサクから遠ざけた。
 
*そばめたちの子らアブラハムはハガルだけでなく、後妻であるケトラの六人の子らには『贈り物』を与えて、約束の子であり、相続人であるイサクから遠ざけました。
 
4:31ーこういうわけで、兄弟たちよ。私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。
 
*兄弟たちよ…ガラテヤの信者たちも、律法の下にいる奴隷の子どもではなく、神の恵みの下にいる自由の女の子どもたちであるのだから、御国において霊的祝福の相続人だと言うこと。
 
彼らはキリストを信じる信仰により、神の子どもとされました。
ヨハネ1:12ーしかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
 
マタイ5:20ーまことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは天の御国に、入れません。
 
*律法学者やパリサイ人の義モーセの律法を守ることによる『行いによる義』
 
*まさるもの…キリストの福音を信じる『信仰による義』によって、全ての信者は天の御国に入ることができます。しかし⬇️
 
*天の御国での相続は、キリストの律法に従順な信仰生活を送った者だけです。
御国に入ることと、御国を相続することを区別する必要があります。
 
ガラテヤ5:18~21ーしかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。
肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。
 
この記事を最後までお読みくださったすべての方々が、神の国を相続することのできる信仰の歩みをされますように。