私たちは毎回のように教会の礼拝説教の中で「罪を悔い改めましょう」と言われます。そして「イエス様を信じましょう」と続きます。
いつも不思議に思うのですが、罪を悔い改め、キリストの福音を信じて救われた者たちが礼拝のために集まって来ている中で、さらに「罪を悔い改め、イエス様を信じましょう」と言うのはおかしくないですか?
それは、伝道集会の中で言うべきことだと思います。なぜなら、信者は過去の罪も、現在の罪も、未来の罪までもすべてキリストの十字架の贖いをもって赦されているからです。
ヘブル書の著者が記しているように、『礼拝する人々は、一度きよめられた者として、もはや罪を意識しない』ようにされています。その証拠に今は動物の『ささげ物をすること』はしていないからです。
ヘブル10:1~2ー律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。
もしそれができたのであったら、礼拝する人々は、一度きよめられた者として、もはや罪を意識しなかったはずであり、したがって、ささげ物をすることは、やんだはずです。
罪を必要以上に意識させるのは、旧約のモーセの律法に従っていることにはならないでしょうか?
キリストが十字架で神の小羊の血をもって新しい契約を締結された時に、旧いモーセ契約(律法)は破棄され、無効となりました。
ローマ10:4ーキリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。
では、聖書的『悔い改め』とは、何を意味するのでしょうか?
十二使徒のリーダー、ペテロが言った『悔い改め』とは、どういう意味だったのかを確認したいと思います。
キリストの十字架の死をもって旧約時代は終わったものの、五旬節(ペンテコステ)までの期間は、旧約時代から教会時代への『移行期』でした。
モーセの律法では、ユダヤ人成人男子は年に三度エルサレムに上り、神殿での礼拝が命じられていました。
申命記16:16ーあなたのうちの男子はみな、年に三度、種を入れないパンの祭り、七週の祭り、仮庵の祭りのときに、あなたの神、主の選ぶ場所で、御前に出なければならない。主の前には、何も持たずに出てはならない。
*種を入れないパンの祭り…ニサンの月の14日の過越の祭りの翌日、15~21日までの七日間の祭り。キリストが罪の無い方として『葬られた』ことの型。春の四つの祭りの中の二番目。
過越の祭りと合わせて八日間祝われるため、「過越の祭り」とも呼ばれます。
遠方から上って来る人々の多くは、過越の祭りから七週の祭りの祭りまでエルサレムに留まり、それから帰って行きました。
*七週の祭り…モーセの律法授与記念日
*仮庵の祭り…イスラエルの七つの祭りの中の七番目。秋の三つの祭りの三番目。
『仮庵』とは、仮住まいの意。キリストの誕生の時期。千年王国の型。
遠方に住んでいる者は、春の祭りか秋の祭りかどちら一つにエルサレムに上ればよかったので、主イエスも公生涯三年目の時は、過越の祭りではエルサレムに上られずにガリラヤ湖近くの山で五千人を養われていました。ヨハネ6:1~14
代わりに、秋の仮庵の祭りのために内密にエルサレムに行かれました。ヨハネ7:1~10
使徒2章で聖霊が降臨した時、自分たちの国の言葉で話すのを聞いた人々は、礼拝のためにエルサレムに上って来ていた異邦人の地にするユダヤ人たちでした。彼らは「私たちのいろいろな国のことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。」と驚き、使徒たちが「酔っ払っているのではないか」とまで言う人までいました。ー使徒2:11~13
それを聞いたペテロが十二使徒を代表して、14~39節まで大説教をしました。
異邦人の地から上って来ていたユダヤ人たちは、つい50日(七週間)前、イエスをメシアではなく、悪霊どものかしらベルゼブルだと言う指導者たちのことばを信じて、「十字架につけろ!」と叫んでいた群衆の一部でした。
しかし、ペテロが説教で
使徒2:26ーですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」
と言うのを聞いて、
使徒2:37ー人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。
*心を刺され…つい50日前に自分たちが十字架につけて殺してしまったナザレ人イエスが、ベルゼブルではなく、メシアであったことを知り、ショックを受けたということ。
*どうしたらよいでしょうか…後悔から出る言葉
使徒2:38ーそこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。
*悔い改めなさい…彼らにとっての悔い改めとは、「悪霊のかしらベルゼブル」と呼ばれるイエスこそ、メシアだと考え方を変えることでした。
それが彼らが律法を守ることにもなりました。
申命記18:15ーあなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。
申命記18:18ーわたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのようなひとりの預言者を起こそう。わたしは彼の口にわたしのことばを授けよう。彼は、わたしが命じることをみな、彼らに告げる。
*イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい…マタイ28:19で主イエスが命じられたバプテスマは、「父、子、聖霊の名によるバプテスマ」でしたが、ここでペテロは「イエス・キリストの名によるバプテスマ」を受けるように命じています。それは、ユダヤ教からの分離を意味するバプテスマとなったからです。
使徒2:41ーそこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。
ペテロの説教を聞いてイエスがメシアだと受け入れた者たちは、悔い改め(自分の考えを聖書のみことばに合わせて変えること)、救われた人々です。
三千人もの人々がバプテスマを受けるだけの洗礼槽がエルサレムにはあったということです。
ユダヤ教にもきよめの洗い(洗礼)は行われていたからこそ、「イエス・キリストの名によるバプテスマ」を受けることが重要でした。
現在の私たち(異邦人)はユダヤ教からの分離を示す必要がないので、キリストの命令どおり『父、子、聖霊の御名によるバプテスマ』を受けます。
また、私たちにとっての悔い改めとは、神はいないと信じ自分勝手な生き方から、神はいると考え方を変え、自己中心から新約聖書の書簡に記されたキリストの律法に従う生き方に変えていくことです。
教会が言う『罪』とは、神を神としないことから発する自己中心の考えや行ないの一つ一つを指していることが多いと思います。それらは『原罪』の結果です。
本当の聖書的悔い改めは、みことばを学び、キリストの命令(律法)に合わせて考え方を変え、従順なキリストのしもべとして成長していくことです。

動物のいけにえがやんだ理由、私たちが従うべき律法は『モーセの律法』なのか、『キリストの律法』なのかをもう一度よく考えてみてくださいね。
ヘブル10:1~2ー律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。
もしそれができたのであったら、礼拝する人々は、一度きよめられた者として、もはや罪を意識しなかったはずであり、したがって、ささげ物をすることは、やんだはずです。