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サザエのお裾分け

聖書を字義通り&文脈に沿って学び、理解したことの中からのお裾分け。内容は鵜呑みにせず、必ずご自分で聖書を開いて確認してくださいね。聖書理解の助けになれば幸いです。† 栄光在主 †

イエスの埋葬と復活

誰が主を埋葬したのか? イエスの死と復活は事実なのか? マグダラのマリヤに「わたしにすがりついてはいけない」と言われた理由は? 旧約〜福音書〜書簡を通しての、神の壮大なご計画をちょっとだけお裾分け…
 

 

メシヤの復活は、旧約時代から預言されていました。アブラハムと同時代であろうとされているヨブは、こう言っています。

 

 

私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。私の皮が、このようにはぎとられて後、私は、私の肉から神を見る。この方を私は自分自身で見る。私の目がこれを見る。ほかの者の目ではない。私の内なる思いは私のうちで絶え入るばかりだーヨブ19:25~27

 

 

贖い主…ヘブル語「ゴエル」。法律用語。刑法、民法共に用いる。刑法ー「復讐する者」と訳されています。cf 民数記35:12~18。*犯罪人に対する復讐。

 

 

cf ローマ12:19ー愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それはこう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」

 

 

民法ー「買い戻しの権利のある(親類)」と訳されてます。

cf レビ25:25、ルツ記3:13。*奴隷を買い戻す、やもめと結婚して死者の名や土地を残す。

 

 

旧約聖書では、神を「贖い主」として啓示し、新約聖書では、イエスをその「贖い主」として宣言していますーcf 出エジプト記6:6、エペソ1:7他。

 

 

そしてメシヤ復活の型として「初穂の祭」がありますーレビ記23:10~11この祭は、*過越の祭の直後の安息日の翌日=日曜日に行なわれました。主イエスは、過越の祭で神の小羊としてほふられ、初穂の祭である週の初めの日(日曜日)に復活されました。すべてイスラエルの祭に関連しています。

 

 

イエスは、公生涯の始めにご自分の死と復活を預言されましたー自力復活。cf ヨハネ2:19~22*キリストの体は、神の栄光(シャカイナ・グローリー)が宿る神殿です。それと同じように、信者のうちにも三位一体なる神が宿る「神の宮(普遍的教会)」です。cf ヨハネ14:17、23。

 

 

使徒の働きや書簡では「神がこのイエスをよみがえらせました」と他力復活で記されています。これは「キリストのニ性=神であり、人である」を表わしています。神の御子としては「自力復活」、人の子としては「他力復活」です。

 

 

キリストはすべてにおいて初穂ですから、肉体の復活も人としての初穂です。それまでの「復活」はすべて「蘇生」でした。

cf •やもめの息子のよみがえりールカ7:11~17。 

•会堂管理者の娘の復活ールカ8:40~56。

•ラザロの復活ーヨハネ18:1~14。

•聖徒たちの復活ーマタイ27:52

 

 

前回のまとめで「過越の食事」にふれましたが、その中で「アフィコーメンの儀式」を覚えてますか?それは、種なしパンの半分を亜麻布にくるんで隠し、メインコースの食事の後 持って来て食べるというものでした。そして、それは主の葬りと復活を予表しているということを…

 

 

まずは、その確認から…ヨハネ19:38~42

 

 

ヨハネ19:38ーアリマタヤのヨセフ、ニコデモ…ユダヤ人の指導者で、イエスの「隠れた弟子」でした。その理由はユダヤ人を恐れていたからです。その彼らが、今や白昼堂々と現われて、イエスの埋葬の準備をしているのです。ヨセフは、イエスのからだの下げ渡しを願い出て、ピラトに許可されました。

 

 

それは、律法に基づくことでした。cf 申命記21:22~23ーもし、人が死刑に当たる罪を犯して殺され、あなたがこれを木につるすときは、その死体を次の日まで、木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。

 

 

イエスが亡くなったのは、安息日の備えの日、前日の午後3時頃です。ユダヤ暦では、日没とともに一日が始まるので、下げ渡し申請をして許可をもらい、埋葬までの手続きを2〜3時間のうちにしなくてはなりませんでした。だから、とりあえず近くの墓に遺体を納めたのです。

 

 

ヨハネ19:40ー香料…ニコデモが持って来た没薬とアロエ。「没薬」は、死体の防腐に用いられました。イエスが誕生した時、東方の博士たちが贈り物として持参した中にも「没薬」がありました。cf マタイ2:11。誕生の時点で「キリストの死」は、示されていたのです。

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ニコデモが持って来た没薬とアロエを混ぜ合わせたものは、当時とても高価でした。それを30kgも持って来たわけですから、ニコデモはとても裕福だったことが分かります。と同時に、死んでしまったイエスのために惜しげもなく高価な物を用意するという行動に、彼の信仰とイエスへの愛が見えるのです。

 

 

その香料といっしょにイエスの遺体を「亜麻布で巻いた」のです。まさに「アフィコーメンの儀式」と一致します。PTL !! 

ユダヤ人たちはこの事実を知らずに、アフィコーメンの儀式だけを忠実に守っているのです。(世俗的ユダヤ人は除く)彼らがこの事実を知ったら、腰を抜かす程驚くでしょうね。

 

 

そして、この「埋葬」は、死を証明するものなのです。

cf マタイ27:60ー岩を掘って造った自分の新しい墓に納めた。墓の入り口には大きな石をころがしかけて帰った。

(あら、ちゃんと閉め切ってなかったんだ?!…66節で、ピラトが出した墓の番兵が、石に封印し、番をしたとあります。)

 

 

cf ルカ23:55ー女たち(ルカ24:10ーマグダラのマリヤ、ヨハンナとヤコブの母マリヤ他)が、アリマタヤのヨセフについて行って、墓とイエスのからだの納められる様子を見届けていました。彼女たちが埋葬の証人です。

 

 

cf マルコ15:47ーマグダラのマリヤとヨセの母マリヤとは、イエスの納められる所をよく見ていた。

 

 

イエスが亡くなったのは、AD30年のニサンの月の15日(金)の午後3時ころです。その日の日没前には、近くの墓に亜麻布に巻かれて納められました。この日を1日目と数えます。翌 安息日が二日目。週の初めの日の朝が三日目と数えます。これが「三日目によみがえる」という数え方です。

 

 

イエスが墓に葬られた時、時刻は日没間近でしたーcf ルカ23:54-もう安息日が始まろうとしていた。

石を最後まで転がすだけの時間も残っていなかったのでしょう。福音書には「石を転がしかけておいた」となっていますーマタイ27:60、マルコ15:46。

 

 

マタイ27:62~66ー備え日の翌日…安息日のこと。

「あの、人をだます男」…ユダヤ教の文献には、魔術で人を惑わせた、とあります。

 祭司長、パリサイ人らユダヤ人の指導者たちは、「イエスの弟子たちが来てイエスの遺体を盗み出すのではないか」と心配し、ピラトに訴えました。

 

 

その結果、ピラトは番兵を出し、三日間墓の番をさせることにしました。ピラトから出された番兵は、ローマ式に墓にX型にロープを張り、それを封印しました。ローマの封印を破る者は、死刑になりました。職務が失敗すれば、番兵も死刑に処せられました。

 

 

マルコ16:1ー安息日が終わったので…日没とともに一日が始まるので、今でいう土曜日の夜のこと。マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い…いずれも主の埋葬の目撃者。彼女たちが目撃者になった理由は、改めて丁重に主のからだを埋葬するため。

 

 

香料を買ったのは、夜のうち。早朝、墓に行くための準備。

 

 

イエスの埋葬には、イスカリオテのユダを除く11使徒たちの名前は誰一人出て来ません。「隠れた弟子」であったアリマタヤのヨセフとニコデモの二人が遺体を引き取り、埋葬したのです。この二人はユダヤ人の指導者でしたが、この行ないによりユダヤ人社会から追放されることになります。

 

 

ここに彼らの主に対する愛があるのです。第一ヨハネ4:18aー愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。

 

 

一方、11使徒たちはというと、イエスの逮捕時に「弟子たちはみな、イエスを見捨てて、逃げてしまった」ーマタイ26:56ーとあります。ペテロとヨハネの二人だけが、大祭司の中庭までついて行きましたが、彼らの勇気はそこまでだったようです。

 

 

11使徒を含むイエスの弟子たちは、ある者はベタニヤで、またある者はエルサレムで、どう行動すべきかわからないまま、安息日があけるのをじっと待っていました。彼らの心情的には、身を潜めていたと言ったほうがいいのかもしれませんね。

 

 

一方、安息日にわざわざピラトのもとに出向いた祭司長とパリサイ人たちは、別な意味で勇敢であったと言えるでしょう。番兵を出してもらえることになった彼らは、先頭に立って兵士たちをイエスの墓まで案内しているからです。

 

 

ユダヤ教の伝統では、安息日に歩いても良い距離は約900mでしたが、彼らはこの時 自分たちが大事に守ってきたその伝統をやぶったのですから。

 

 

さて、週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤたちが墓に来ましたーマタイ28:1

すると、大きな地震が起きました。イエスが十字架で死んだ時に続いて2度目の地震です。

 

 

アリマタヤのヨセフが墓の入り口に転がしかけておいた大きな石を、番兵たちがそれを完全に封印し、見張りまでしていました。それを主の使いが天から降りて来て、石をわきにころがし、その上に座ったからだと聖書は記していますーマタイ28:2

 

 

それを見た番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになりましたーマタイ28:4。そのことをまだ知らないマリヤたちは、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか」と話し合っていましたーマルコ16:3

 

 

そして墓の入口の大きな石が、すでに転がしてあることに気付くのです。彼女たちは真白な長い衣をまとった青年(天使)を見て驚き、震え上がり、気も転倒し、恐ろしく感じましたーマルコ16:4~ 8。

が、番兵たちと違い、死人のようにはなりませんでした。畏怖の念に近い恐ろしさだったのでしょう。

 

 

ルカ24:5~8ー彼女たちのとった行動は、「恐ろしくなって、地面に顔を伏せ」ていることでした。ここでは、彼女たちに現われた天使は二人だったことが分かります。その天使たちが、地にひれ伏す彼女たちに語りかけました。

 

 

あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここのはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう」と。

 

 

cf マタイ17:22~23 、マルコ9:30~32ーこのときはまだ“弟子たちはこのみことばが理解できなかった”とあります。私たちも聖書を読んでいて理解出来ない箇所があります。むりやりこじつけるのではなく「主よ、理解できません。理解出来るように助けてください」と祈ることです。

 

ガリラヤに行きなさいという命令は、最後の晩餐の席でイエスは語られていましたーマタイ26:30~32

イエスは弟子たちが散らされる事を預言され、それが起こったならガリラヤに行くように語られていますが、弟子たちの心には響いていなかったのです。

 

 

天使たちに言われて初めて、彼女たちは“イエスのみことばを思い出した”のですールカ24:8。 

私たちも以前は理解出来なかったみことばが、別な聖書箇所を読んでいる時、突然リンクして理解できることってありますよね。だから今 理解できなくても、いずれ理解させてもらえると希望を持ちましょ!

 

 

天使たちのことばを聞き、みことばを思い出したサロメとクロパの妻マリヤ、クーザの妻ヨハンナの3人は、ペテロとヨハネが待っている家へと戻って行きました。 その頃、一足先に墓に来てイエスの体が墓にないのを確認したマグダラのマリヤは、ペテロとヨハネに報告していましたーヨハネ20:1〜2

 

 

そしてペテロとヨハネは走って墓まで行き、

1)イエスの遺体がないこと。

2)遺体を包んでいた亜麻布だけがそのままそこにあること。

3)イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布から離れた所に巻かれたままの状態であったことを“見て(マグダラのマリヤが言った事を)信じた”ーヨハネ20:3~8

 

 

多くの人は8節の「見て、信じた」を「主の復活を信じた」と理解しているようですが、続く9節を見ると「彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。」とあります。

 

 

また、ヨハネ20:29ーイエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」とあるので、8節は「主の復活を信じた」というより、むしろ「マリヤの言ったことが本当だと信じた」ととるべきではないのかな?と思います。

 

 

残る9人の弟子たちは、3人の婦人たちから、1)イエスの遺体がなかったこと、2)天使たちが主の復活を告げられたこと、を聞きますが「使徒たちにはこの話しはたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった。」のです。cf ルカ24:11

 

 

ペテロとヨハネはマグダラのマリヤが言ったことが事実であったことを確かめて、またじぶんのところに帰って行きましたーヨハネ20:10。マリヤだけがその場に残って墓の外で泣いていましたーcf ヨハネ20:11~17、マルコ16:9。

 

 

この時点でマリヤは、誰かがイエスの遺体を取って行ったと思っていました。

イエスが復活したという可能性さえ信じていませんでした。

そんな彼女に復活の主が最初に現われるのですが、彼女にはそれがイエスだとは分からなかったとあります。なぜでしょうか?

 

 

いろんな理由が考えられると思いますが、おそらく一番の理由は、現実と復活を預言されたイエスのみことばとがリンクしていなかったからだと思います。

 

 

ヨハネ20:16ー「マリヤ」とイエスに名前を呼ばれて、彼女は振り向きました。これは、心の向きを変える、悔い改めるということです。ここで初めてマリヤの霊の目が開かれ、園の管理人だと思っていた人がイエスだとわかるのです。

 

 

恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。ーイザヤ43:1b。まさに、このみことばの成就を見る気がします。

 

 

霊の目が開かれたマリヤにイエスは言われました。「わたしにすがりついてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしはわたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る』と告げなさい」ーヨハネ20:17

 

 

「わたしにさわってはいけない。わたしは、まだ父の御許に上っていないのだから。」とイエスが言われた理由は、モーセの律法の中の「贖罪の日の規定」にありますーcf レビ記16章

 

 

贖罪の日…へブル語:ヨム・キプール。第七の月(チスリ)、太陽暦9〜10月。ユダヤ暦の中で最も厳粛な日で、大祭司は至聖所に入って犠牲の動物の血を祭壇にふりかけることになっていました。最初の清めの儀式から、血をふりかける儀式終了まで、誰も大祭司に触れてはならなかったのです。

 

 

万が一、誰かが大祭司に触れた場合、彼は汚れた者と見なされ、至聖所に入ることは出来なくなりました。旧約における大祭司は、イエスを示しているのですーcf ヘブル9:7~28

 

 

墓から復活されたイエスは、大祭司としての役割を果たそうとしていました。cf ヘブル9:12また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。

 

つまり、イエスは十字架で流された神の小羊としてのご自身の血を携えて、地上の幕屋ではなく、天の幕屋に上ろうとしておられたのです。地上の幕屋の清めは動物の血でしたが、天の幕屋はそれよりももっと優れた清い血でなければなりませんでした。すなわちメシヤである神の小羊の血が必要だったのです。

 

マリヤの前に復活の姿を現わされた時点では、イエスはまだ天の幕屋に上ってはいなかったのです。この段階でマリヤに触れられてしまったら、大祭司としての職務を全う出来なくなるため「わたしにすがりついて(さわって)はいけない。わたしは、まだ父の御許に上っていないのだから」と言われたのです。

 

 

この後すぐに、イエスは天に上りまことの聖所を清められました。なのでマリヤ以降、復活の主に出会った弟子たちは、イエスに触れても大丈夫だったのです。

 

 

でも、なぜ天の聖所が清められる必要があったのでしょう?それは、位の高い天使だったルシファーが堕落し、神に敵対するサタン(悪魔)となった時に。天の聖所と至聖所が汚されてしまったのです。サタンによって汚された天の幕屋は、動物の血ではなく神の小羊の清い血による清めが必要となったのです。

 

 

さて、天の幕屋の清めを終えたイエスは、再び弟子たちに復活のからだを現わされました。マタイ28:9~10ー婦人たちに「おはよう」と声をかけられた時、彼女たちは主に近寄って御足を抱いてイエスを拝みました。

 

 

イエスは彼女たちが触れることを禁じてはいないことから、マグダラのマリヤに現われてから婦人たちに現われるまでの間に、天の幕屋を清められたと考えられます。また「イエスを拝んだ」とありますが、婦人たちがご自身を拝むことも拒まれていません。大祭司としての職務に着任された神の御子だからです

 

 

マタイ28:18~20ー11人の弟子たちが、ガリラヤに行き、イエスの指示された山に登り。主にお会いした時、彼らもイエスを礼拝しました。イエスは彼らの礼拝を受け入れられています。そしてこういわれました。「わたしは天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」と。

 

 

私たちクリスチャンは、このイエスを「あなたは神の御子キリストです。」と告白する者なのです。神の御子キリストに、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美がありますように。感謝。

 

 

〜余談〜祭司長やユダヤ人の指導者たちがどうしたのか興味のある方は、マタイ28: 11~15をどうぞ。

 

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