サザエのお裾分け

聖書を字義通り&文脈に沿って学び、理解したことの中からのお裾分け。内容は鵜呑みにせず、必ずご自分で聖書を開いて確認してくださいね。聖書理解の助けになれば幸いです。† 栄光在主 †

ヘブル人への手紙 9:6~7 〜聖職者の務め〜

旧約の律法に基づく『幕屋』は、三位一体の神を表わす『型』となっています。

入口を入ってすぐの部屋は『聖所』と呼ばれる部屋があり、右手には『備えのパンの机』がありました。

『いのちのパン』である御子イエスの『型』です。

 

ヨハネ6:35エスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。

 

ヨハネ6:48わたしはいのちのパンです。

 

また、左手には『メノラー』と呼ばれる七枝の燭台があり、神の七つの御霊を表わしています。

 

イザヤ11:2その上に、の霊がとどまる。

 それは知恵と悟りの霊、
 はかりごとと能力の霊、
 を知る知識とを恐れる霊である。

 
聖所に入って仕えることができるのは、レビ族の祭司たちだけでした。
 
そして、幕で仕切られた奥の部屋は『至聖所』と呼ばれ、契約の箱が置かれ、その上に神(御父)のご臨在を表わす『シャカイナ・グローリー』がありました。
 
その至聖所に入ることができるのは、レビ族の中でもアロンの家系である大祭司だけ、それも年に一度、贖罪の日『ヨム・キプール』の時だけでした。
 
この箇所は、幕屋における『聖職者たちの務め』がどのようなものであったのかを説明し、ユダヤ教における祭司たちの務めが、キリスト教においてどのようになったのかを説明しています。
 

ヘブル9:6ーさて、これらの物が以上のように整えられた上で、前の幕屋には、祭司たちがいつも入って礼拝を行うのですが、

 

*前の幕屋…最初の部屋である『聖所』のこと 

 

*いつも入って…強調点は、律法に基づくレビ系祭司たちが、日々同じことを繰り返し行うという『日常の務め』にあります。

 

祭司たちは、日に二度、聖所に 入り、香を焚かなくてはなりませんでした。 

出エジプト記30:7~8ーアロンはその上でかおりの高い香をたく。朝ごとにともしびを整えるときに、煙を立ち上らせなければならない。 

アロンは夕暮れにも、ともしびをともすときに、煙を立ち上らせなければならない。これは、あなたがたの代々にわたる、の前の常供の香のささげ物である。

 

毎日、日に二度、祭司はメノラー(燭台)の芯の手入れをし、油を足し、炎が燃え続けるように管理しなければなりませんでした。 

出エジプト記27:20~21 あなたはイスラエル人に命じて、燈火用に上質の純粋なオリーブ油を持って来させ、ともしびを絶えずともしておかなければならない。

アロンとその子らは、あかしの箱の前の垂れ幕の外側にある会見の天幕で夕方から朝まで、の前にそのともしびを整えなければならない。これはイスラエル人が代々守るべき永遠のおきてである。

 

週ごとに、備えのパンを替えなければなりませんでした。

レビ記24:5~8ーあなたは小麦粉を取り、それで輪型のパン十二個を焼く。一つの輪型のパンは十分の二エパである。

それをの前の純金の机の上に、一並び六個ずつ、二並びに置く。

それぞれの並びに純粋な乳香を添え、への火によるささげ物として、これをパンの記念の部分とする。

彼は安息日ごとに、絶えずこれをの前に、整えておかなければならない。これはイスラエル人からのものであって永遠の契約である。

 

ここでの強調点も、毎日同じことの繰り返しにあります。

来る日も来る日も、何度も何度も、同じことの繰り返しで、レビ系の祭司たちの務めは、決して終わることがありませんでした。

 

 

ヘブル9:7ー第二の幕屋には、大祭司だけが年に一度だけ入ります。そのとき、血を携えずに入るようなことはありません。その血は、自分のために、また、民が知らずに犯した罪のためにささげるものです。

 

*第二の幕屋…至聖所 。ここに入れるのは、『大祭司』ただ一人だけでした。

その『大祭司』は、全人類の中から、一つの民族が、一つの民族から一つの国家が、一つの国家の中から一つの種族が、一つに種族の中から一つの氏族が、一つの氏族の中から一つの家族が、一つの家族からただ一人だけが『至聖所』の中に入れたのです。

 

その『大祭司』でさえ『至聖所』に入れるのは、年に一度『ヨム・キプール(贖罪の日)』だけでした。

その日、大祭司は少なくとも二回、多くても四回、至聖所に入ることのできた唯一の日でした。

 

『至聖所』に入るとき、大祭司は『血』を携えずに入ることはありませんでした。

地上の幕屋に仕える地上の祭司たちはみな、同じく『血の護り』を必要としていました。

 

『至聖所』での務めは年に一度だけでしたが、毎年毎年繰り返されました。

それは、大祭司によってのみ、年に一度だけ、そそぎの血を伴ってのみという、非常に限られた『神に近づく方法』でした。

 

https://youtu.be/y-edbzep1KE

しかし、今、私たちは十字架で流されたキリストの尊い血によって、聖所と至聖所を仕切る幕は上(神)から裂けられ、いつでも、どこでも神に近づくことができるようになりました。

 

また、十字架の死から復活し、昇天されたキリストが大祭司として神の右に着座され、とりなしていてくださるので、いつでも、どこでも祈りによって神の御前にアクセスできるのです。

 

さらに、神は助け主として私たちに御霊を与え、私たちのからだを御霊の住まう『神の宮』としてくださったので、いつでも、どこでも、神を礼拝することができるのです。

 

ヨハネ14:16~17aわたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。

その方は、真理の御霊です。

 

ヨハネ14:23エスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。

 

1コリント6:19あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。

 

つまり、キリストの福音の三要素を信じる者のからだは、三位一体の神が住まう『神の宮/幕屋』となったということです。

ですから、私たちはこのからだを通して『神の栄光』を現わすようにと命じられています。

 

1コリント6:20あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。

 

その恵みの素晴らしさを覚え、栄光を主イエスに帰したいと思います。