今回は、私の教会生活についての経験を少しだけ…。
最初は正統派キリスト教と異端との区別もつかず、地元の駅で声をかけてきた金髪の綺麗な宣教師に誘われるままに足を踏み入れたのが、前回触れた『モルモン教』の教会でした。
今は、この時(何か変!)と気づかせてくれたのは、御霊の働きではなかったかと思います。
ヨハネ16:8ーその方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。
それから約2年後、友人から一人のスイス人の女性宣教師を紹介されました。
でもこの時は、宣教師はセールマンのように私が入信するまでしつこく勧誘すると思い込み、自分から連絡することはありませんでした。
何週間も放置したことに痺れを切らせた友人は、私の個人情報をその宣教師に伝えてしまったのです。現在でこそ大問題ですが、当時は嫌な思いをしただけでした。
(さて、宣教師から連絡が来たら、どうやって断ろう?)とそんなことを考えていました。
しかし、いつまで経ってもその宣教師からは連絡は一切ありません。
すると、今度は(勧誘したいはずなのに、どうしてこんなに長い間連絡をして来ないのだろう?)という思いが日に日に強くなっていきました。
そして、ある日の夕方、とうとう自分からその宣教師に連絡してしまったのです💦
宣教師から連絡してこなかった理由を聞くために…。
彼女曰く、「あなたのことを聞いた時から、毎日あなたのことを祈っていました。
イエス様は首根っこを押さえて無理やり信じさせるようなことはなさいません。
でも、祈りには必ず応えてくださいますから、私はずっと信じて祈っていたのです。
だから、今日あなたから連絡をもらえたのは、私の祈りに対するイエス様からの応えだと思います。だから、私はとても嬉しいです🎶」
私が想像していたのとは全く違う応えで、私はポカーンとなりました。
と同時に、この宣教師に興味を持ち、自分から会う約束をしてしまいました😝
それから、週に一度、彼女との聖書の学びが始まりました。
学び…と言っても、マタイの福音書1章から読み、何の説明もなく「何か質問はありますか?」と毎回問われるだけ💦
何を訊いていいのかわからない私の応えも毎回同じ、「何を訊くべきですか?」
宣教師は牧師と同じく聖書をよく知り、一字一句説明することのできる人だと思っていましたが、どうやら違ったようです。
(何年もしてから彼女に再会した時にどのように宣教師になったのか尋ねたら、「志願して数週間の研修を受けたら誰でもなれる」と知り、驚きました。😱)
宣教師からキリストの福音を聞き、天の父なる神の愛を聞きました。
実父は家庭を全く顧みない人だったので、父の愛に飢え渇いていた私は、いつしか(肉の父に愛されないのなら、これからはすべてを造られた父なる神の愛にすがって生きていきたい!)と思うようになっていました。
その宣教師に連れられて行ったのが、後に母教会となるバプテスト教会です。
教会に一度足を踏み入れたら、抜けられないのではないかという不安もありましたが、誰も強制する人はいませんでした。
行ける時には行く、行けない時は無理しない…そんな感じでした。
そんなある朝、通勤途中の地下鉄の中で幻が与えられました。
長く暗いトンネルを進む中、遠くにろうそくの炎のような小さな光が見えたのです。
長く暗いトンネルは、それまでの私の人生。
小さいな光は、出口…そんなことを考えていた時、ハッと我に返ると、そこはいつもの地下鉄の中。
(今のは何だったのだろう?)と思った瞬間、頭の先からつま先までブワ〜っと『何か』に満たされる感覚を覚え、(あっ、今イエス様が私の心に入って来てくださったんだ!)と確信し、喜びで満たされました。
勤務先に向かう途中の公衆電話ボックスに駆け込み、宣教師に車内での出来事と信仰告白をしました。
1,985年6月6日、斜に構えていた私を変えた出来事でした。
後に、この体験(後にも先にも、幻というような経験はこの時だけ)は、御霊の内住の出来事だったと確信するようになりました。
この体験によって、たとえ肉の弱さ故に『不信仰』になることはあっても、『不信者』にならず済んでいますから。
使徒2:3ーまた、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。
それから3ヶ月後の9月8日に受洗しました。
洗礼準備会はなく、ただ牧師に宣教師にしたのと同じ信仰告白をしただけで、受洗を承認されました。
当時何も知らなかった私は、受洗後髪を乾かすのが面倒だな〜と、自分の中では滴礼を望んでいました💦
しかし、バプテスト教会で滴礼が認めてもらえるはずもなく…有無を言わさず『全浸礼』でした。
この点は、とても聖書的であることを後で知り、感謝しています。
自分が最初に導かれた教会は、母教会としての愛着と感謝が育ち、常に正しい教えを流してくれる所だと勘違いする傾向が強いものです。
最初の20年くらいは、私にとってもそうでした。
が、オーストラリアからの帰国後超教派の神学校で学び、また、ヘブル的視点に出会ってからは、地域教会は所詮罪人の集まりであり、時に道を踏み外すこともあれば、サタンの誘惑にもあうということを経験を持って気付かされました。
母教会は、一時ブームになったリック・ウォーレンの『五つの目的を持った教会』にはまり、繁栄の神学へと舵をきってしまいました。
それまでメッセージの賜物のある牧師だったのに、ポイントが定まらない、全く別人が用意したかのようなだらだらとしたメッセージへと変わってしまいました。
礼拝に出席しても繁栄の神学に基づくメッセージに共感できるはずもなく、恵みや喜びに満たされるどころか、怒りにも似た重い気持ちで教会を後にすることが続きました。
そして遂にアメリカのサドルバック教会で『昨年度世界で一番受洗者を出した教会』とやらで表彰され、牧師が礼拝説教の中でいただいて来たトロフィーをかざしたのです。この瞬間(あー💦天でのご褒美を失ってしまった)と思いました。
確かに受洗する人は毎週のように与えられましたが、受洗後の霊的幼子の面倒を見るシステムは弱く、ほとんで霊的産み落とし、未熟児の排出ばかりだったような気がします。よほど自ら霊的飢え渇きを覚えて求めていかない限り、フェードアウトしてしまう受洗者もかなりいたと思います。
マタイ6:1~2ー人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いを受けられません。
だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
母教会を出よう!…そう決心する出来事でした。
その後、訪ねてみたのは近所の教会でした。
しっかりとした礼拝が行われていましたが、「主任牧師が鬱病のため、来月から無牧になります。」と言われ断念💦
牧師が鬱病…そんなこともあるんですね。
次に訪ねた教会は、ノアの箱舟をイメージした明るい礼拝堂のある教会でした。
そこには、当時求道中だった母を連れてしばらく通いました。
聖書勉強会にも積極的に参加しました。
毎週行われる信徒たちによる勉強会は聖書を用いていましたが、月一度の婦人会のリーダーは女性ではなく主任牧師でした。
婦人会に男性牧師が出席されたら、そこはもはや『婦人会』ではなくなってしまいます💦
しかも、主任牧師がリードしている聖書勉強会なのに、使うのは聖書ではなく『副読本』だけ…そして、一年半経った頃 礼拝説教の中で牧師が言われた一言に唖然としました。
「私たちが天国に入れるかどうかは、まだわかりません。」
(・・;)
びっくりして、帰宅後牧師にメールで質問しました。
①この教会の教えでは、救いの確信はどこにあるのでしょうか?
②私たちはどうしたら救われて、天国に行けるのでしょうか?
③何を『キリストの福音』として教えているのでしょうか?
④私たちが学ぶべきは、『副読本』ですか?『聖書』ですか?
⑤質問の内容を忘れてしまいました💦
返信が来たら、納得するまで質問してみよう…そう思って待っていたのですが、いつまで経っても返信は来ませんでした。
自分の中で出した答えは、救いの確信の無い教会で母に洗礼を授けてもらうわけにはいかない、でした。
母を連れてこの教会を後にしました。
教会選びに難航する中、マスオさんの闘病中、どうしても祈って欲しくて通院途中に見かけた教会の祈祷会に飛び込み参加した時のことです。
最初の30分間の聖書の学びで、牧師が「モーセの十戒は、現在でも重要です」…と💦
あー、これは何を福音として伝えているのか確認する必要があるかも…そう思い、祈祷会終了後、隣の席だった宣教師に その時点ではまだ救われていなかったマスオさんの救いのために、
①何を伝え、相手が何を信じたら、たましいの救いを得ることができるのか?
②良い行いが伴わなくても、天国に行けるのか?
この二点を質問してみました。
宣教師「何を信じたら、救われるか?って…それは…イエスを主と信じることです。」
私「イエスを主と信じるとは、具体的にどういうことですか?」
宣教師「それはですね…えぇっと…(言葉に詰まる💦)」
牧師「何をどこまで信じたら救われるか?って、救うのは神様なんだから人間である我々がわかるわけがないでしょ!💢」
この教会も『キリストの福音』が出て来ない😰
モーセの律法は、キリストが終わらせたことを理解していない教会でした。
ローマ10:4ーキリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。
旅行中も日曜日には旅先で教会を探して、礼拝に出席するようにしていました。
伊豆を旅行中、ある町には教会が二つしかなく、一つは何度連絡しても応答がなかったので、連絡がついた教会に行きました。
礼拝後の昼食+交わり会に誘われるまま参加すると、たまたま牧師の隣の席になりました。
良い機会だから牧師の証しを聞いてみたいと思い、質問しました。
私「先生はどのように牧師としての召命を受けられたのですか?」
牧師「僕?! 僕の親父が牧師だったんだよ」
…だ・か・ら?
…そ・れ・だ・け・で・す・か?
(それって『世襲』ですよね?!)
私「信仰を持たれたきっかけは何ですか?」
牧師「家がクリスチャンホームだったからね」
…えっ?
…福音を信じるきっかけとかはないのですか?
千葉の教会の礼拝に出席した時は、礼拝後すぐに牧師が近寄って来たので「今日はよくいらっしゃいました」と歓迎の言葉をかけてもらえると思っていました。
牧師「あなた、クリスチャンなんでしょ?! 母教会はどうしたの?
この教会の礼拝に出席するなら、この教会でバプテスマを受けてもらわないと!」
私「・・・(キリストにつくバプテスマって、一つじゃないの?)」
これらの苦い経験は、現在が『ラオデキヤ(背教)の教会の時代』であることを証明していると思います。
これらの経験を通して、神は『人にではなく、神(みことば)に従う信仰の大切さ』を教えられたのだと理解しています。
使徒17:11ーここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。
確かに『完璧な教会』は、この地上には存在しません。
冗談でよく言われるのは、「たとえ完璧な教会があったとしても、あなたが行った時点でもう完璧ではなくなります。」😅
ですが、キリストの福音を信じるクリスチャンである以上、絶対に譲れない信仰の基盤があります。その基盤が異なれば、それはもはや正当なキリスト教会ではなくなってしまいます。
本当に聖書の教えに信仰の基盤を置いているのか、牧師の考え方が土台になっていないか、教会の伝統を守ることのみ一生懸命になっていないか、救いの条件を『信仰+肉の行い』にしていないか…など、見極めることはものすごく重要です。
もしも牧師が「牧師に従いなさい」と命じるならば、その牧師自身がキリストに従っているかどうかを吟味する必要があります。
キリストが命じた牧師としての資質があるかどうか、すべてを満たしていないとしてもそれを認めて努力しようという姿勢があるかどうかは重要です。
教会に不必要な問題が起こる原因にもなり兼ねませんし、みことば抜きには問題が起きた時に対処することができないからです。
キリストの教えに従う意志のない霊的盲目、肉に属する牧師に従うことは『盲人が盲人の手引き』をすることを許容することになります。
ルカ6:39ーイエスはまた一つのたとえを話された。「いったい、盲人に盲人の手引きができるでしょうか。ふたりとも穴に落ち込まないでしょうか。
ヨハネ9:41ーイエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」
背教の時代にあって、そのような牧師がいる教会を探し出すことの方が難しいかもしれません。
むしろ今は、以前からある地域教会よりも、聖書を基盤とする信仰を与えられた兄弟姉妹たちが集う初代教会のような『家の教会』に戻っている気がします。
聖書は建物としての地域教会に通うことを命じているのではなく、同じ主を信じる者同士が共に集まることを命じています。
ヘブル10:25ーある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。
その後も紆余曲折ありましたが、 現在 私が集っているのはそのような小さな群れの『家の教会』です。