Ⅱテサロニケ2:3ーだれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。
*背教…霊的堕落。これは不信者に起こるのではなく、神を信じる者が集まる『教会の霊的堕落』です。
異邦人の使徒となったパウロは、テサロニケの教会だけでなく、愛弟子テモテにも注意喚起しています。
Ⅱテモテ3:1~5ー終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。
そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、
情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、
裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、
見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。
*主の日…多くの地域教会で礼拝がもたれる日曜日のことではなく、七年間の患難時代を指すことば。
つまり、Ⅱテサロニケ2:3でパウロは『患難時代』が来る前に
①地域教会⛪️の霊的堕落が起こり、
②不法の人=滅びの子=『反キリスト』が現れる、
Ⅱテモテ3:5では、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する人々を避けなさいと命じています。
さあ、私たちはどのようにして『避けるべき人々』かを判断すべきでしょうか?
その具体例が Ⅱテモテ3:1~4にあります。
『自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者』
しかし『見えるところは敬虔』である人々、特に『牧師』職にある人々に対してはついつい無条件で信用してしまいます。そして、何か異なる意見を言おうとすると、「ローマ13:1を読みなさい。そこには『上の権威に従いなさい』と書いてあります。私は神によってたてられた牧師です。」と言われ、説得させられてしまいます。
ローマ13:1~2ー人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。
したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。
今回はそのことをみことばから検証してみたいと思います。
聖書には『牧師』ということばは、1箇所しかありません。
エペソ4:11ーこうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。
*牧師また教師…と訳されている言葉は『牧師・教師』と訳すべき一つの賜物です。
牧師は聖書のみことばを解き明かし、群れの羊たちを養うという働きが含まれるため、『教師』としての賜物も必要なのです。『教える賜物』がなく『教える訓練』も受けてない者は、『牧師』になる資質に欠けていることになります。
テトス1:1ー神のしもべ、また、イエス・キリストの使徒パウローー私は、神に選ばれた人々の信仰と、敬虔にふさわしい真理の知識とのために使徒とされたのです。
『牧師の資質』に関しては、キリストよって『異邦人の使徒』とされたパウロ書簡の中ではっきりと述べられています。
パウロが『使徒』となった理由は、
①神に選ばれた人々の信仰を強めるため、
②その信仰の敬虔にふさわしい真理の知識を与えるためです。
ローマ13:1を引用して「上に立つ権威に従うように」と言う牧師自らがまず、キリストによって立てられた『異邦人の使徒となったパウロ』の権威を認め、従うべきではないでしょうか?
パウロは1テモテ3:1~7とテトス1:5~9で『監督の資質』について述べていますから、牧師自身がふさわしいかどうかよく吟味すべきだと思います。そして、自らの『欠け』に気づいたら、どのようにその欠けを補うべきかを常に考え、努力することが必要ではないでしょうか?
1テモテ3:1ー「人がもし監督の職につきたいと思うなら、それはすばらしい仕事を求めることである」ということばは真実です。
*監督…『長老』または『牧師』という同一の職務のこと。cf 使徒20:17 & 28, 1テモテ5:17 & 18
責任のある『すばらしい仕事』であるがゆえに、厳しい資質も求められているのです。
1テモテ3:2ーですから、監督はこういう人でなければなりません。すなわち、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、品位があり、よくもてなし、教える能力があり、
1テモテ3:3ー酒飲みでなく、暴力をふるわず、温和で、争わず、金銭に無欲で、
1テモテ3:4ー自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人です。
1テモテ3:5――自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう――
1テモテ3:6ーまた、信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないためです。
1テモテ3:7ーまた、教会外の人々にも評判の良い人でなければいけません。そしりを受け、悪魔のわなに陥らないためです。
テトス1:5ー私があなたをクレテに残したのは、あなたが残っている仕事の整理をし、また、私が指図したように、町ごとに長老たちを任命するためでした。
テトス1:6ーそれには、その人が、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、その子どもは不品行を責められたり、反抗的であったりしない信者であることが条件です。
テトス1:7ー監督は神の家の管理者として、非難されるところのない者であるべきです。わがままでなく、短気でなく、酒飲みでなく、けんか好きでなく、不正な利を求めず、
テトス1:8ーかえって、旅人をよくもてなし、善を愛し、慎み深く、正しく、敬虔で、自制心があり、
テトス1:9ー教えにかなった信頼すべきみことばを、しっかりと守っていなければなりません。それは健全な教えをもって励ましたり、反対する人たちを正したりすることができるためです。
これらの箇所に記されている『監督・長老・牧師』の資質を二つの条件に分けて見てみたいと思います。
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これらの条件を無視しながら、信徒にだけ『上の権威に従え』と命じることは、主に喜ばれることでしょうか?
これらの条件に遠く及ばない不適格な者が牧師として立てられた場合、本来なら必要のない問題が生じて来るのです。
聖書が命じる監督の資質に近い牧師が立てられることによって、教会に問題が生じる頻度が減り、問題が生じたとしてもそれをみことばから解決していく力が備えられます。
初代教会時代、使徒たちが従った『上の権威』は、権威ある者が神の権威に逆らっていないことが条件でした。
使徒5:27~29ー彼らが使徒たちを連れて来て議会の中に立たせると、大祭司は使徒たちを問いただして、
言った。「あの名によって教えてはならないときびしく命じておいたのに、何ということだ。エルサレム中にあなたがたの教えを広めてしまい、そのうえ、あの人の血の責任をわれわれに負わせようとしているではないか。」
ペテロをはじめ使徒たちは答えて言った。「人に従うより、神に従うべきです。
彼らは、時の権威者であった『大祭司』に従うより『神に従うこと』を選んだのです。
私たちはどうでしょうか?
『人に従うより、神に従うこと』を選んでいるでしょうか?
その判断は、聖書のみことばが基準となります。聖書をよく読み、学び、ひとりひとりが主の御前に正しい判断をすることができますようにー祈ー