ユダヤ教のバリバリのパリサイ派だったパウロは福音を信じ、『異邦人への使徒』としてキリストによって任命されました。
ガラテヤ1:1ー使徒となったパウローー私が使徒となったのは、人間から出たことではなく、また人間の手を通したことでもなく、イエス・キリストと死者の中からよみがえらせた父なる神によったのです。ーー
ガラテヤ1:11~12ー兄弟たちよ。私はあなたがたに知らせましょう。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。
私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。
つまり、パウロは誰かから福音を聞いたわけでもなく、また人によって『使徒』に任命されたわけでもなく、神から直接学び、信じ、使徒に任命されたということです。
パウロは『異邦人への使徒』となったメシアニック・ジュー(ユダヤ人信者)として、異邦人の国々に伝道旅行に出かけました。その合間に、エルサレムを訪問したことが使徒の働きに5回記されています。
①使徒9:26~30(ガラテヤ1:18~20)…アラビヤからダマスコに戻った後
②使徒11:27~30…ユダヤに住んでいる人々に救援物資を届けるため
④使徒18:22…第二回伝道旅行後の挨拶のため
⑤使徒21:15~23:35…投獄前最後の訪問
2:1ーそれから十四年たって、私は、バルナバといっしょに、テトスも連れて、再びエルサレムに上りました。
*それから十四年たって…『再び』とあるので、上記の②か③のどちらか。
*バルナバ…キプロス出身のレビ族/ユダヤ人信者/本名:ヨセフ
使徒4:36ーキプロス生まれのレビ人で、使徒たちによってバルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれていたヨセフも、
*テトス…パウロの伝道によって回心した異邦人(ギリシャ人)信者/パウロの同労者
テトス1:4ー同じ信仰による真実のわが子テトスへ。父なる神および私たちの救い主なるキリスト・イエスから、恵みと平安がありますように。
Ⅱコリント8:23aーテトスについて言えば、彼は私の仲間で、あなたがたの間での私同労者です。
2:2ーそれは啓示によって上ったのです。そして、異邦人の間で私の宣べている福音を、人々の前に示し、おもだった人たちには個人的にそうしました。それは、私が力を尽くしていま走っていること、またすでに走ったことが、むだにならないためでした。
*啓示によって上った…パウロは神の啓示によってエルサレムに上ったのであって、人(エルサレム教会の指導者たち)からの命令を受けたわけではありません。
*無駄にならないように…パウロは14年もの間異邦人伝道を続けていたので、その働きが無駄にならないように、ということ。
*私が伝えている福音…パウロが伝えた福音は、パウロ自身が神から受けたものであり、『最も大切なこと』として伝えていました。これが『福音の三要素』と呼ばれるものです。
1コリント15:3~4ー私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、
この福音とは異なることを宣べ伝えるならば、『呪われる』と聖書は記しています。
ガラテヤ1:8~9ーしかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。
私たちが前に言ったように、今もう一度私は言います。もしだれかが、あなたがたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者はのろわれるべきです。
*おもだった人たち…当時エルサレム教会の指導者だった主の兄弟ヤコブ、使徒たちのリーダーであるペテロ、ヨハネらと宣べ伝えている福音の内容が一致しているかの確認のため。
2:3ーしかし、私といっしょにいたテトスでさえ、ギリシヤ人であったのに、割礼を強いられませんでした。
*割礼を強いられませんでした…『割礼』は、アブラハム契約のしるしであり、その契約の継承者であるユダヤ人たちに命じられたもの。異邦人であるテトスは、無割礼でした。その手もてが『割礼』を強いられなかったのは、使徒たちが共通して『救いは、神の恵みと信仰による』と理解していたからです。
創世記17:9~10ーついで、神はアブラハムに仰せられた。「あなたは、あなたの後のあなたの子孫とともに、代々にわたり、わたしの契約を守らなければならない。
次のことが、わたしとあなたがたと、またあなたの後のあなたの子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中のすべての男子は割礼を受けなさい。
救いに『割礼』が必要か否かが話し合われたのが、使徒15章のエルサレム会議です。
使徒15:1~2ーさて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えていた。
そしてパウロやバルナバと彼らとの間に激しい対立と論争が生じたので、パウロとバルナバと、その仲間のうちの幾人かが、この問題について使徒たちや長老たちと話し合うために、エルサレムに上ることになった。
2:4ー実は、忍び込んだにせ兄弟たちがいたので、強いられる恐れがあったのです。彼らは私たちを奴隷に引き落とそうとして、キリスト・イエスにあって私たちの持つ自由をうかがうために忍び込んでいたのです。
*忍び込んだにせ兄弟…ユダヤ教の立法主義者たちが、教会の中に忍び込み、キリスト者たちを律法の奴隷にしようとしていました。彼らの言う律法とは、モーセの律法(記述律法)だけでなく、口伝律法も含みます。
彼らは、異邦人は割礼を受けてユダヤ教に改宗してから信仰によって救われるが、その後、律法を守り行う必要があると考えていました。
2:5ー私たちは彼らに一時も譲歩しませんでした。それは福音の真理があなたがたの間で常に保たれるためです。
*一時も譲歩しませんでした…ユダヤ人信者であるパウロとパルナバは、いっさい譲歩せず、無割礼の異邦人信者テトスに割礼を受けさせませんでした。
『神の恵みのゆえに、信仰によって救われる』という真理に立っていたからです。
エペソ2:8ーあなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
*あなたがたの間で…ガラテヤの教会の信者たちの間で、の意。
2:6ーそして、おもだった者と見られていた人たちからは、--彼らがどれほどの人たちであるにしても、私には問題ではありません。神は人を分け隔てなさいません--そのおもだった人たちは、私に対して、何もつけ加えることをしませんでした。
*おもだった人たち…エルサレム教会の指導者たちは、パウロの福音理解に対して全て合致していたため、何もつけ加えませんでした。
*どれほどの者であっても…教父ヤコブであろうと、使徒たちのリーダーであるペテロであろうと、神の御前では平等だということ。(神は、人を分け隔てなさらない。)
2:7ーそれどころか、ペテロが割礼を受けた者への福音をゆだねられているように、私が割礼を受けない者への福音をゆだねられていることを理解してくれました。
*割礼を受けた者への福音を委ねられている…ペテロたち十二使徒は、割礼を受けた者(=ユダヤ人たち)への使徒。
*割礼を受けていない者への福音を委ねられている…パウロは異邦人への使徒となった、と言うこと。
2:8ーペテロにみわざをなして、割礼を受けた者への使徒となさった方が、私にもみわざをなして、異邦人への使徒としてくださったのです。
ペテロもパウロも『使徒』として、神から召命を受けていました。
2:9ーそして、私に与えられたこの恵みを認め、柱として重んじられているヤコブとケパとヨハネが、私とバルナバに、交わりのしるしとして右手を差し伸べました。それは、私たちが異邦人のところへ行き、彼らが割礼を受けた人々のところへ行くためです。
*ケパ…ペテロのこと
ヘブル語:シモン(シメオンの略名)
ギリシャ語:ペテロ(小石、の意)
アラム語:ケパ(岩、の意)
マタイ16:18ーではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。
ヤコブ、ペテロ、ヨハネは、エルサレム教会の中心的指導者でした。
十二使徒のヤコブは既に殉教しています。(十二使徒の中で最初の殉教者)
使徒12:1~2ーそのころ、ヘロデ王は、教会の中のある人々を苦しめようとして、その手を伸ばし、
*右手を差し伸ばした…承認のしるしとなる行為
2:10ーただ私たちが貧しい人たちをいつも顧みるようにとのことでしたが、そのことなら私も大いに努めて来たところです。
*貧しい人たちをいつも顧みるように…ヤコブたちからの唯一の要請
実際、エルサレム教会は貧困問題を抱えており、パウロはローマ人への手紙で異邦人教会に対して配慮するようにと伝えています。
ローマ15:26~27ーそれは、マケドニヤとアカヤでは、喜んでエルサレムの聖徒たちの中の貧しい人たちのために醵金することにしたからです。
彼らは確かに喜んでそれをしたのですが、同時にまた、その人々に対してはその義務があるのです。異邦人は霊的なことでは、その人々からもらいものをしたのですから、物質的な物をもって彼らに奉仕すべきです。
2:11ーところが、ケパがアンテオケに来たとき、彼に非難すべきことがあったので、私は面と向かって抗議しました。
*非難すべきことがあった…6節で『彼らがどれほどの人たちであるにしても』と言っていたように、使徒たちのリーデーであるペテロに対しても怯むことなく抗議しています。
2:12ーなぜなら、彼は、ある人々がヤコブのところから来る前は異邦人といっしょに食事をしていたのに、その人々が来ると、割礼派の人々を恐れて、だんだんと異邦人から身を引き、離れて行ったからです。
*ある人々…『兄弟たち』であれば信者を指す言葉ですが、ここでパウロは『ある人たち』と区別しているので、彼らはエルサレムから来た律法主義者たちであることがわかります。
*異邦人といっしょに食事をしていた…使徒10:9~16でシモン・ペテロは、神から幻による啓示を与えられていました。これにより、ペテロはキリスト・イエスにあってユダヤ人信者と異邦人信者がいっしょに食事をすることに何の抵抗感もありませんでした。
これは律法によるユダヤ人への食物規定からの解放(キリストにある自由)を意味します。
*割礼派の人々を恐れて…ペテロは律法主義者たちを恐れて、異邦人信者たちと食事をしなくなり、異邦人信者との交わりから離れていきました。
2:13ーそして、ほかのユダヤ人たちも、彼といっしょに本心を偽った行動をとり、バルナバまでもその偽りの行動に引き込まれてしまいました。
*本心を偽った行動をとり…ペテロの異邦人信者との交わりを避ける行動は、他のユダヤ人信者たちにも悪影響を与えました。
パウロの同労者であったバルナバまでも、心では主にあって何が正しいかわかっているはずなのにペテロと同じ偽りの行動に引き込まれてしまいました。
ペテロやバルナバは、パウロと同じようにキリスト・イエスにあって一つだと教えていたはずなのに、教えと行動が一致しなくなってしまいました。
2:14ーしかし、彼らが福音の真理についてまっすぐに歩んでいないのを見て、私はみなの面前でケパにこう言いました。「あなたは、自分がユダヤ人でありながらユダヤ人のようには生活せず、異邦人のように生活していたのに、どうして異邦人に対して、ユダヤ人の生活を強いるのですか。
*みなの面前で…公の場で、パウロはペテロの偽善を指摘しました。その理由は、『福音の真理が曲げられていた』からです。
パウロは、
①律法による行ないでは、だれひとり神の前に義と認められない。
ローマ3:20ーなぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。
②イエス・キリストを信じる信仰によって救われた。ーエペソ2:8
③神は異邦人も同じように信仰によって救い、聖霊を与えられた。
使徒15:8~9ーそして、人の心の中を知っておられる神は、私たちに与えられたと同じように異邦人にも聖霊を与えて、彼らのためにあかしをし、
私たちと彼らとに何の差別もつけず清めてくださったのです。
④なのに、何故、異邦人に、ユダヤ人のように生活することを強いるのか?
とペテロの過ちを指摘しました。
2:15ー私たちは、生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。
また、そのほかのユダヤ人たちを意識しながら、一般のユダヤ人たちの考え方を皮肉を込めて語っています。
*異邦人のような罪人ではありません…律法を持たず、割礼を受けていない異邦人を罪人と見なし、見下した表現。
ペテロやバルナバの行為は、こうした考えのユダヤ人の優越感の現れでした。
2:16ーしかし、人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。
*ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる…のであるならば、異邦人に律法を押し付けても意味はないということ。
ローマ10:4ーキリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。
*義と認められる…法律用語:義と宣言される、の意。
*律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいない…ローマ3:10ーそれは、次のようにかいてあるとおりです。
「義人はいない。ひとりもいない。
2:17ーしかし、もし私たちが、キリストにあって義と認められることを求めながら、私たち自身も罪人であることがわかるのなら、キリストは罪の助成者なのでしょうか。そんなことは絶対にありえないことです。
*罪の助成者…律法を行なわないことが罪であるなら、律法を終わらせた(無効にされた)キリストを信じ、従う者たちは『罪人』になるため、キリストは罪に仕える者となるのですか?キリストが罪の助成者になるということは、ありえません。
2:18ーけれども、もし私が前に打ちこわしたものをもう一度建てるなら、私は自分自身を違反者にしてしまうのです。
*私が前に打ち壊したもの…ユダヤ教のパリサイ派だったパウロがキリストを信じた時に捨て去った、律法によって義とされること。
それをもう一度建てることは、キリストの律法の違反者となってしまいます。
2:19ーしかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。
*律法によって律法に死ぬ…律法違反の罰則規定の中には、罪を犯した人の身代わりとなる動物のいけにえの指定がなく、罪を犯した本人のいのちをもって償う必要がありました。例えば、
・神への冒涜罪ーレビ記24:16
・両親への不敬罪ー出エジプト記21:17, レビ記20:9, 申命記21:18~21
・姦淫罪ー出エジプト記22:19, レビ記20:10~16, 申命記22:22~24
・誘拐罪ー出エジプト記21:16
・殺人罪ーレビ記24:17~19, 民数記35:21, 申命記19:3~4
・偽預言罪ー申命記13:5
参照:ローマ7:6ーしかし、今は、私たちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。
2:20ー私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
*私はキリストとともに十字架につけられました…キリストは、十字架の上で神の小羊として屠られ、私の罪の代価を払ってくださいました。
*キリストが私のうちに生きておられる…キリストを信じる信仰により、キリストの復活に与る者となったということ。
2:21ー私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」
*神の恵み…私たちが何をしたからではなく、神の祝福を受けるに値しないにもかかわらず、神が与えてくださる祝福のこと。
律法の行いによって義と認められるのならば、それはもはや『恵み』ではなく、『律法による行い』に対する報酬となり、キリストによる私たちの罪の身代わりの死は意味がなくなってしまいます。
福音理解が一致していたにもかかわらず、ペテロがした行為は神の恵みを否定するものでした。
それに対しパウロは、キリストの十字架のみわざを無にしないと宣言しています。
律法は、出エジプトをしたユダヤ人たちに対して、『神の民』としての生き方の指針を与えるものでした。異邦人に与えられたものではありません。
キリストがユダヤ人たちの代表として613ある律法すべてを守り、成就してくださったので、モーセの律法はすべて無効となりました。
私たちキリスト者が従うべきは、キリストの律法です。