サザエのお裾分け

聖書を字義通り&文脈に沿って学び、理解したことの中からのお裾分け。内容は鵜呑みにせず、必ずご自分で聖書を開いて確認してくださいね。聖書理解の助けになれば幸いです。† 栄光在主 †

エマオ途上のふたりの弟子たち 〜ルカ24:13~35〜

復活の主に会う前と会った後の弟子たちの変化を見てみましょう。ルカ24:13~35ー「エマオに向かう二人の弟子たち」からのお裾分けです。

 

 

ルカ24:13*ちょうどこの日…イエスが復活された日曜日(週の初めの日)。 

*二人の弟子クレオパとその妻マリヤだと思われます。cf ルカ24:18、ヨハネ19:25。

*エマオエルサレムの西方約11kmの所にある村。29節で泊まって行くようにと招いていることから、そこには彼らの自宅があることがわかります。

 

 

ルカ24:14*このいっさいの出来事主イエスの逮捕〜十字架刑、埋葬、空っぽになった墓までの出来事のこと。 そのことを話しながら、エマオへ向かっていました。

ちょっと想像力を働かせてくださいね。エマオはエルサレムの西、つまり日の沈む方角です。そこへ向かう彼らの足どりと顔つきを…

 

 

ルカ24:15*話し合ったり、論じ合ったり…それぞれイエスに対する望みや期待があったのでしょう。19~24節の続きを読むと、彼らがイエスをどのような方と見ていたかがわかります。 

そんな会話をしながら歩いているところに、ごく自然にイエスご自身が近づいて、歩みを共にされました。

 

 

イエスは神の御子なのに、私たちと同じ人間の姿をとられ、私たちの間に住まわれましたーcf ヨハネ1:14。

主自ら私たちの方に近づいて来られ、私たちの歩みに伴われるのです。

なんという謙遜であり、愛であり、恵みでしょう! 

私たちから神に近づくのではなく、神の方から近づいてくださるとは!!

 

 

ルカ24:16ーしかし、二人の目はさえぎられていました。

ヨハネ20:13~16を見ると、マグダラのマリヤも復活の主に名前を呼んでもらうまで、霊的に目が開けていませんでした。 

どんな恵みの中に置かれていたとしても、霊的に眠った状態では、神を認めることはできないのです。

 

 

ルカ24:17ーそしてイエスは、ごく自然に彼らの会話に加わります。決してむりやり入って来られることはありません。私たちはこの主に習って伝道すれば良いのです。そう、日常会話の中にごく自然に主との関わりを家族、友人、知人、同僚に伝えれば良いのです。難しく考えるから言葉に詰まるのです。

 

 

「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか?」この質問に、ふたりは「暗い顔つきになって」立ち止まった、とあります。なぜ「暗い顔つき」になったのでしょう? この日は、主が復活された日なのに…

 

 

ルカ24:18クレオパ…クレオパトロスの短縮形。ヨハネ19:25の「クロパ」と同一人物。エマオの村に着いて家に旅人を泊めたのなら、この二人とはクレオパ夫妻と考えるのが自然です。ユダヤ人は男性の方から女性に声をかけることはなかったので、イエスの問いかけに答えているのはクレオパです。

 

 

*あなたはエルサレムにいながら…別訳「あなたはエルサレムにたったひとりで滞在していたのですか」 

エルサレムにいたのに、君は何にも知らないのかい?嘘だろ?!」という驚きが伝わってきますね。

 

 

イエスの十字架はイスラエルの七大祭りの一つ『過越の祭り』であり、神殿に上るように定められている三大祭り(種無しパンの祭り、七週の祭り、仮庵の祭り)の一つでもありますー申命記16:16。ですから、クレオパたちは、このイエスを祭りに上って来て、自宅に帰る途中の一人と見ていたのでしょう。

 

 

ルカ24:19ーイエスは冷静に「どんな事ですか?」と聞き返しているように感じます。 ここからは、言葉尻に気をつけながら読んでくださいね。

 

 

この方は、神とすべての民の前で、行ないにもことばにも力のある【預言者でした】

 

 

ルカ24:20ー彼らは事実をそのまま正しく語っています。

 

 

ルカ24:21ーこの方こそイスラエル【贖ってくださるはずだ】、と望みを【かけていました】

 

 

ルカ24:22*仲間の女たち…マグダラのマリヤ、ヤコブとヨセフとの母マリヤ、ゼベタイの子らの母。cf マタイ27:56

 

 

ルカ24:23ー御使いたちがイエスは生きておられると告げた、【と言うのです】

 

 

ルカ24:24ーイエスさまは見当たらなかった、【というのです】。 

これらの言葉尻【 】のから、このふたりの弟子は自分の人生をかけて従ってきたイエスについて、今 どのように感じていると思いますか?

 

 

すべて【過去形だったり、人づてに聞いたことだ】ということに気づきましたか? 

彼らはイエスの弟子として従い、イエスがローマの支配下から政治的な解放をしてくれる「イスラエルを贖ってくださる」はずに違いない!と望みをかけていたのに…その主イエスは十字架で死んでしまった…

 

 

志が断たれた彼らは、太陽が西に傾く中、沈み行く太陽に向かってエマオにある自分の家へと歩いていました。 この時のふたりの姿からどのような人生が見えてきますか?

 

cf イザヤ2:22ー鼻で息をする人間をたよりにするな。

そんな者に、何の値打ちがあろうか。

 

cf 箴言13:12期待が長びくと心は病む。望みがかなうことは、いのちの木である。…期待したことがかなえられない時は、心は焦燥と煩悶に陥ります。逆に、望みがかなえば、心は喜びで満たされ、力が湧いてきます。

 

 

この時の彼らは、望みが断たれた状態です。日の沈む夜の闇へ向かって、元の家へと足取り重く帰って行くところでした。 そんなところに、主ご自身が近づいて来てくださったのです!彼らといっしょに歩き、彼らの落胆を共有してくださったのです!ハレルヤ!

 

 

ルカ24:25ー預言者たちの言ったすべて…聖書。この時代はまだ旧約聖書しかありませんでした。 なぜイエスは、ご自分の弟子たちに向かって「愚かな人たち」「心の鈍い人たち」と言われたのでしょう?

 

 

それは彼らが「聖書(預言者たちの言ったすべて)を信じない」からです。

 

 

ルカ24:26ーcf 十字架の預言…イザヤ53章。復活の預言…ヨナ書ーcf マタイ12:39~40。

 

 

ルカ24:27イエスはモーセモーセ五書)およびすべての預言書、聖書全体からご自分について書いてある事がらを説き明かされました。

「聖書のみことばを説き明かす」ということは、とても重要なことです。みことばを理解することなくして、神を信じ従うことは出来ないからです。

 

 

 

ルカ24:28ーイエスとふたりの弟子たちはエマオの村に近づきました。ふたりの弟子たちの目的地はそこでしたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子だったとあります。

 

 

彼らはイエスをよく知っていたはずでありいっしょに話しをしながら歩いていたのに、どうしてイエスだと分からなかったのでしょう?

 

 

彼らはあまりの絶望に落胆、思い煩い、悩みといったことで頭がいっぱいでした。そのため、目の前の事がらが見えなくなっていたのです。

 

 

ルカ24:29ーふたりの弟子は「いっしょにお泊まりください」と無理に願いました。

夕刻になりますし、日もおおかた傾きました…日没から一日は始まります。完全に暗やみになる前に彼らはいっしょに泊まるようにと切に願ったのです。それはみことばの説き明かしをもっと聞きたいとの思いからでした。

 

 

cf ルカ11:9~10ーわたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。

 

 

彼らが無理に願った結果、イエスは彼らといっしょに泊まるためにあ(家の)中にはいられました。 *求めなさい。そうすれば与えられます、ですね。

 

 

ルカ24:30ーイエスはパンを取り祝福し、裂いて彼らに渡された…過越の食事、最後の晩餐での出来事を思い起こさせますね。詳しくはこちらでどうぞ♫  

osusowake.hatenablog.com

 

 

ルカ24:31ーイエスはクレオパの家のお客さまとして来られたました。そのお客さまからパンを渡された時、彼らの(霊の)目が開かれ、日ごとの糧を与えてくださる主を認めました。復活の主だとわかった瞬間、見えなくなってしまいました。*見ずに信じる

 

ルカ24:32聖書のみことばを理解することは、霊的に心の内側から元気になっていくのです。

 

 

cfマタイ4:4&申命記8:3人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。

*パン…肉体を生かす食物。

*神の口から出る一つ一つのことば…聖書のみことばでありイエスご自身でありー創世記1:3、ヨハネ1:14

ー私たちの霊を生かすいのちのパンですーヨハネ6:35

 

 

ルカ24:33ー夕暮れ迫る中、意気消沈して暗い顔つきで、足取り重く11kmもの道のりを歩いて自宅まで戻って来たふたりでした。その道中、エルサレムでの出来事を話し合っているときに、主が近づいて来られました。

 

 

自宅にみことばを説き明かしてくださるお客様をお泊めし、食事を共にした時に主だと気付いたのです。彼らは疲れているはずでした。眠くなる時間でもあったことでしょう。

 

 

しかしふたりは「すぐさま立って、エルサレムに戻ってみ」たのです。しかも、どっぷりと日が暮れた夜道をです。夜道の危険性や肉体の疲れなど気にせずに…そして向かった先が、エルサレムの11使徒たちが集まっている所でした。 復活の主と出会うということは、人をここまで変えるのです。

 

 

ルカ24:34ーこの時点で復活の主に出会っているのは、マグダラのマリヤ、ヤコブとヨセフとの母マリヤ、ゼベタイの子らの母、ペテロ、クレオパとその妻でした。10人の使徒たちとその仲間たちはペテロから話しを聞いていたのです。

 

 

ルカ24:35ーそこに到着したばかりのクレオパとその妻が加わり、エマオ途上で起こったことや食事を共にし、パンを裂かれたときに復活のイエスだと分かったことを証ししました。

 

 

イエスはエマオ途上のふたりの弟子たちに寄り添い、すぐにご自身のことを明らかにはされず、彼らの胸の内を十分に聞いてくださいました。その上で聖書からご自身のことを語り始められました。絶望していた彼らの心に再び力と希望を与えたのは、聖書のみことばでした。

 

 

ヨハネ20:31ーしかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。アーメン。

 

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