「安息日を守りましょう。」と言われたことはありませんか?
『安息日』とは、何曜日のことで、いつ、誰に命じられたのでしょうか?
万が一、違反したらどうなるのでしょうか?
今回は、これらのことについて聖書から確認してみたいと思います。
『安息日』の起源は創世記2章です。
創世記2:1~3ーこうして、天と地とそのすべての万象が完成された。
それで神は、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。
神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。
しかし、アダムからモーセまでの間、「安息日を守りなさい。」という命令が出されたことは一度もありません。
聖書で初めて『安息日』の命令が出てくるのは、出エジプト記16章です。
出エジプト記16:23~30ーモーセは彼らに言った。「主の語られたことはこうです。『あすは全き休みの日、主の聖なる安息である。あなたがたは、焼きたいものは焼き、煮たいものは煮よ。残ったものは、すべて朝まで保存するため、取っておけ。』」
それで彼らはモーセの命じたとおりに、それを朝まで取っておいたが、それは臭くもならず、うじもわかなかった。
それでモーセは言った。「きょうは、それを食べなさい。きょうは主の安息であるから。きょうはそれを野で見つけることはできません。
六日の間はそれを集めることができます。しかし安息の七日目には、それは、ありません。」
それなのに、民の中のある者は七日目に集めに出た。しかし、何も見つからなかった。
そのとき、主はモーセに仰せられた。「あなたがたは、いつまでわたしの命令とおしえを守ろうとしないのか。
主があなたがたに安息を与えられたことに、心せよ。それゆえ、六日目には、二日分のパンをあなたがたに与えている。七日目には、あなたがたはそれぞれ自分の場所にとどまれ。その所からだれも出てはならない。」
それで、民は七日目に休んだ。
この命令が、十戒の中に取り入れられました。
出エジプト記20:8~11ー安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。
しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。--あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も--
それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。
安息日の命令は、『どんな仕事もしてはならない』であって、「礼拝のために集まりなさい。」ではありません。
イザヤ58:13~14ーもし、あなたが安息日に出歩くことをやめ、わたしの聖日に自分の好むことをせず、安息日を「喜びの日」と呼び、主の聖日を「はえある日」と呼び、これを尊んで旅をせず、自分の好むことを求めず、むだ口を慎むなら、
そのとき、あなたは主をあなたの喜びとしよう。「わたしはあなたに地の高い所を踏み行かせ、あなたの父ヤコブのゆずりの地であなたを養う」と主の御口が語られたからである。
なぜなら、エジプトで奴隷生活をしていた時は週七日休みなく働いていましたが、神によってエジプトから導き出された後は、からだを休ませることができる『自由人』となったからです。
十戒の第一戒は、はっきりとそのことを記しています。
出エジプト記20:1~2ーそれから神はこれらのことばを、ことごとく告げて仰られた。
「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。
創世記2章でも、十戒の中の安息日も、キリストの初臨時も、ペンテコステ以降の教会時代においても、将来の千年王国においても、『安息日』は常に『第七日目』であって、日曜日のことではありません。
ヘブル暦における第七日目も、私たちが普段使っているカレンダーでも『第七日目』は土曜日(ヘブル暦では、金曜日の日没〜土曜日の日没まで)です。
従って『聖日』とは、第七日目の土曜日の『安息日』を指す言葉であって、日曜日のことではありません。
創世記2:3ー神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。
出エジプト記20:8ー安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
イザヤ58:13ーもし、あなたが安息日に出歩くことをやめ、わたしの聖日に自分の好むことをせず、安息日を「喜びの日」と呼び、主の聖日を「はえある日」と呼び、これを尊んで旅をせず、自分の好むことを求めず、むだ口を慎むなら、
また、人によっては日曜日のことを『主の日』と呼びますが、聖書的には意味が全く違います。『主の日』は、旧約聖書でも、新約聖書でも決まって『患難時代』を指す言葉として用いられています。
イザヤ2:12ーまことに、万軍の主の日は、
すべておごり高ぶる者、すべて誇る者に
襲いかかり、これを低くする。
イザヤ13:6ー泣きわめけ。主の日は近い。
全能者から破壊が来る。
イザヤ13:9ー見よ。主の日が来る。残酷な日だ。憤りと燃える怒りをもって、地を荒れすたらせ、罪人たちをそこから根絶やしにする。
エレミヤ46:10ーその日は、万軍の神、主の日、
仇に復讐する復讐の日。
剣は食らって飽き、
彼らの血に酔う。
北の地、ユーフラテス川のほとりでは、
万軍の神、主に、いけにえがささげられる。
エゼキエル13:5ーあなたがたは、主の日に、戦いに耐えるために、破れ口を修理もせず、イスラエルの家の石垣も築かなかった。
エゼキエル30:3ーその日は近い。主の日は近い。
その日は曇った日、諸国の民の終わりの時だ。
ヨエル1:15ーああ、その日よ。主の日は近い。
全能者からの破壊のように、その日が来る。
ヨエル2:1ーシオンで角笛を吹き鳴らし、
わたしの聖なる山でときの声をあげよ。
この地に住むすべての者は、わななけ。
主の日が来るからだ。その日は近い。
ヨエル2:11ー主は、ご自身の軍勢の先頭に立って声をあげられる。
その隊の数は非常に多く、
主の命令を行う者は力強い。
主の日は偉大で、非常に恐ろしい。
だれがこの日に耐えられよう。
ヨエル3:14ーさばきの谷には、群集また群集。
主の日がさばきの谷に近づくからだ。
アモス5:18ーああ。主の日を待ち望む者。
主の日はあなたがたにとっていったい何になる。
それはやみであって、光ではない。
アモス5:20ーああ、まことに、主の日はやみであって、
光ではない。
暗やみであって、輝きではない。
オバデヤ1:15ー主の日はすべての国々の上に近づいている。
あなたがしたように、あなたにもされる。
あなたの報いは、あなたの頭上に返る。
ゼパニヤ1:14ー主の大いなる日は近い。
それは近く、非常に早く来る。
聞け。主の日を。勇士も激しく叫ぶ。
ゼカリヤ14:1ー見よ。主の日が来る。その日、あなたから分捕った物が、あなたの中で分けられる。
1コリント5:5ーこのような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。
1テサロニケ5:2ー主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。
Ⅱ テサロニケ2:2~3ー霊によってでも、あるいはことばによってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙によってでも、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。
だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。
Ⅱ ペテロ3:10ーしかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。
この『安息日』の命令に関して、613あるモーセの律法の中に違反した場合の命令もあります。
出エジプト記31:13~16ー「あなたはイスラエル人に告げて言え。あなたがたは、必ずわたしの安息を守らなければならない。これは、代々にわたり、わたしとあなたがたとの間のしるし、わたしがあなたがたを聖別する主であることを、あなたがたが知るためのものなのである。
これは、あなたがたにとって聖なるものであるから、あなたがたはこの安息を守らなければならない。これを汚す者は必ず殺されなければならない。この安息中に仕事をする者は、だれでも、その民から断ち切られる。
六日間は仕事をしてもよい。しかし、七日目は、主の聖なる全き休みの安息日である。安息の日に仕事をする者は、だれでも必ず殺されなければならない。
イスラエル人はこの安息を守り、永遠の契約として、代々にわたり、この安息を守らなければならない。
もしも『安息日』の命令がキリストの十字架以降でも有効であるなら、当然、この違反した場合の命令も有効となります。
なぜなら、613あるモーセの律法は守るなら、すべて守る必要があり、一つでも違反したなら、その人は律法の違反者となるからです。
ガラテヤ3:10ーというのは、律法の行いによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」
ヤコブ2:10~11ー律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。
なぜなら、「姦淫してはならない」と言われた方は、「殺してはならない」とも言われたからです。そこで、姦淫しなくても人殺しをすれば、あなたは律法の違反者となったのです。
しかし、実際には「安息日を守りなさい」と言う人のほとんどは、違反に関する命令は無視しています。
そして、安息日を勝手に七日目の土曜日から日曜日に変更して、地域教会での礼拝出席を守るようにという意味で使っています。
イザヤ58:13では「安息日に出歩くことをやめ」とあるので、いろいろな意味で安息日の命令を破るようになることを理解していません。
このように言うと、中には以下のみことばを出して来て、「安息日に主の前に礼拝をしなければならない、と命じられている」と反論する方がいますが、そういう人は文脈から理解していない人です。
エゼキエル46:3ー一般の人々も、安息日と新月の祭りの日には、その門の入口で、主の前に礼拝をしなければならない。
エゼキエルは、40~48章で千年王国について預言しました。その文脈での命令なので、46:3は御国の律法ということになります。
また「安息日に集会を開きなさい」と言う命令は、レビ人の祭司たちに与えられた第七の月の十日の『贖罪の日』に関する命令であって、一般のイスラエル人に与えられたものではありません。
適用を間違えないように気をつけたいものです。
レビ記16:31~33ーこれがあなたがたの全き休みの安息であり、あなたがたは身を戒める。これは永遠のおきてである。
油をそそがれ、その父に代わって祭司として仕えるために任命された祭司が、贖いをする。彼は亜麻布の装束、すなわち聖なる装束を着ける。
彼は至聖所の贖いをする。また会見の天幕と祭壇の贖いをしなければならない。また彼は祭司たちと集会のすべての人々の贖いをしなければならない。
結論:『安息日』の命令は、モーセ契約が有効だった時代のイスラエルの民に対するものであって、ペンテコステ以降の教会時代に適用されるものではありません。
キリストの十字架で神の小羊の血によって新しい契約が締結された時に、旧いモーセ契約は終わりました。その時、安息日の命令も自動的に廃止されました。
ローマ10:4ーキリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。
新しい契約の下では、安息日に関する命令はありません。
キリストの律法を伝えているパウロは、次のように記しています。
ローマ14:5~6aーある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。
日を守る人は、主のために守っています。
また、ヘブル書の著者は新約時代の集会について、次のように記しています。
ヘブル10:25ーある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。
みことばに基づかない偽りの教えに惑わされずに、キリストの律法に忠実なしもべとして、信仰の歩みができますように。