モーセ契約が書かれている範囲は、とても広く、出エジプト記20章〜(レビ記と民数記を含んで)〜申命記28章にまで及びます。
それもそのはず、そこにはナント613もの律法が記されているのですから!
その中には「モーセの律法」が含まれています。中でも有名なのは、映画にもなった「十戒」でしょう。
*『十戒』は、613ある律法の最初の『十の戒め』です。
律法について、ヤコブは書簡の中でこう言っています。
ヤコブ2:10~11ー律法全体を守っても、一つの点でつまづくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。なぜなら、「姦淫してはならない。」と言われた方は、「殺してはならない。」とも言われたからです。そこで、姦淫しなくても人殺しをすれば、あなたは律法の違反者となったのです。
*「ヤコブの手紙」「ユダの手紙」の著者は、12弟子(使徒)のヤコブとユダが書いたのではなく、イエスの異父兄弟(マリヤとヨセフの子)のヤコブとユダが書いています。
マタイ13:55ーこの人は大工の息子ではありませんか。彼の母親はマリヤで、彼の兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではありませんか。
モーセは、この契約の仲介者となったため「モーセ契約」と呼ばれています。
*この契約は、神がイスラエルに与えられたものです。
*異邦人や教会に向けて語られたものではありません。
異邦人は初めから律法の対象者ではないので、守る義務すらないのです。
エペソ2:11~12ーですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、
そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって臨みもなく、神もない人たちでした。
*あなたがた…エペソの信者(異邦人)。
*割礼を持つ人々…アブラハム契約のしるしである『割礼』を持つのは、ユダヤ人たちです。
*約束の契約…アブラハム契約。
この点を誤って解釈すると、着地点がおかしくなってしまうので要注意です!
申命記4:7~8ーまことに、私たちの神、主は、私たちが呼ばわるとき、いつも、近くにおられる。このような神を持つ偉大な国民が、いったい、どこにあるだろう。また、きょう、私があなたがたの前に与えようとしている、このみおしえのすべてのように、正しいおきてと定めとを持っている偉大な国民が、いったい、どこにあるだろう。
偉大な国民…イスラエル人。異邦人を指してはいません。
詩篇147:19~20ー主は、ヤコブには、みことばを、イスラエルには、おきてとさばきを告げられる。
主は、どんな国々にも、
このようには、なさらなかった。
さばきについて彼らは知っていない。
ハレルヤ。
ここでは、神はこの律法を与えられたのは、イスラエルだけであること、ほかのどんな国々にも律法を与えておられないことを宣言されています。
マラキ4:4ーあなたがたは、
わたしのしもべモーセの律法を記憶せよ。
それは、ホレブで、イスラエル全体のために、
わたしが彼に命じたおきてと定めである。
ここでも、イスラエルにのみ与えたおきてと定めであるモーセの律法だと、神は宣言されています。
このように聖書は再三、モーセ契約(律法)は、神とイスラエルとの契約であることを記しています。
したがって、異邦人や教会に与えられたものではないのです。
誤った聖書解釈によって、律法に縛られないように注意が必要です。
モーセ契約締結の様子は、出エジプト記24:1~11にあります。
①出エジプト24:1~3ー契約内容に対するイスラエルの民の同意。
そこでモーセは来て、主のことばと、定めをことごとく民に告げた。すると、民はみな声を一つにして答えて言った。「主の仰せられたことは、みな行ないます。」
②出エジプト24:4~8ー契約の血。最も厳粛な契約です。
*イスラエル人の若者たち…祭司制度確立以前のため、こう表現されています。
モーセが契約内容を読み上げ、再確認をした上で、イスラエルの民は「主の仰せられたことはみな行ない、聞き従います。」と同意しています。
そして雄牛を主にささげ、その『契約の血』を祭壇と民に注ぎかけ、モーセ契約は承認され、有効となりました。
(新しい契約では、神の小羊であるイエスの血が流され、承認され、古いモーセの契約は無効となり、新しい契約が有効となったのです。現在は、キリストの新しい契約の下に私たちは置かれているのです。)
③出エジプト24:9~11ー契約の食事。食したのは、民の代表ーモーセとアロン、ナダブとアビブ、イスラエルの長老七十人。
*神を仰ぎ見た…シャカイナ・グローリー。
*飲み食いした…神とイスラエルの民との結合を象徴しての祝宴。
申命記12:7ーその所であなたがたは家族の者とともに、あなたがたの神、主の前で祝宴を張り、あなたの神、主が祝福してくださったあなたがたのすべての手のわざを喜び楽しみなさい。
【契約の食事と新約との関係】
*契約の血とキリスト。
出エジプト24:8ー「見よ。これは、これらすべてのことばに関して、主があなたがたと結ばれる契約の血である。」
マタイ26:27b~28ー「みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。
ヘブル9:13~14ーもし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。
④出エジプト24:12~18ーシャカイナ・グローリー。
雲が山をおおった。
主の栄光はシナイ山の上にとどまり…雲の中からモーセを呼ばれた。
山の頂で燃え上がる火のように見えた。
【シャカイナ・グローリーと新約との関係】
*シャカイナ・グローリーとメシアの受肉。
ヨハネ1:14ーことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
「モーセ契約」は「エデン契約」同様、《条件付き契約》です。
イスラエルの民が、エジプトでの奴隷生活から解放され、約束の地に移動し始めてすぐに与えられました。それは主人の命令に従うだけの奴隷だった民が、異国での奴隷生活から救い出され、約束の地カナンで、神によって救われた者として、自由人として、いかに生きるべきかを教えるための律法であり、契約でした。
*この契約は、基本的には「わざの契約」です。
神様は、イスラエルの民が失敗することを知っておられました。
しかし、神は、彼らを見捨てないと言われるお方です。
エレミヤ30:11ーわたしがあなたとともにいて、
ー主の御告げー
あなたを救うからだ。
わたしはあなたを散らした先の
すべての国々を滅ぼし尽くすからだ。
しかし、わたしはあなたを滅ぼし尽くさない。
公義によって、あなたを懲らしめ、
あなたを罰せずにおくことは決してないが。
モーセ契約の中には「血の犠牲」という考え方が、最初から最後まで貫かれており、その土台となっている聖句がレビ17:11です。
レビ記17:11ーなぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。
レビ記1〜7章には五つの違った捧げものがありますが、その中で四つまでが血を流す捧げものです。
①全焼のいけにえー全部祭壇で焼かれ、神に対する全き献身を意味する捧げものです。cf アブラハムがイサクを捧げるように命じられたのも、全焼のいけにえでした。
*キリストの完全な献身において完成しました。
②穀物の捧げ物ー五つの捧げ物の中で唯一、血を流さない捧げ物です。「贈り物」を意味し、神への捧げ物、労働の聖別を表わすものです。
*キリストが聖霊に満たされて、人々に仕える生涯を送られたことにおいて完成しました。
③和解のいけにえー神と人との和解、平和、喜びを表わします。
*キリストの十字架による贖いを信じ、受け入れて新生した者の霊的回復により完成しました。
④罪のためのいけにえー人が誤って罪を犯した時にささげるもの。罪を犯した人の社会的職務によって捧げる動物が異なります。
*罪人の身代わりとなって死なれた、キリストの十字架によって完成しました。
⑤罪過のためのいけにえー他人に対して損害を与えた場合や、ある特別の罪を犯した場合にささげるもの。
*キリストの十字架によって完成しました。
*「罪のいけにえ」と「罪過のためのいけにえ」は強制的な捧げ物であり、それ以外は自発的な捧げ物です。(箴言7:14~23では、自発的な捧げ物を罪のために利用しています。和解のいけにえとして捧げた肉は、その日か翌日中に食べなければなりませんでした…レビ記7:15~17)
ヘブル語の「贖う」という言葉は、「罪を覆う」という意味であって、罪を取り去るという意味ではありません。
メシアが十字架上で流される罪のない血だけが最終的に罪人の罪を取り除くことができるのです。
バプテスマのヨハネまでの旧約時代の人々が、神に信頼して生きるとは、モーセの律法に従って生きるということでした。それが信仰の結果として出て来る事柄でした。
もしモーセの律法に違反したならば、血の犠牲を捧げることにより、神との交わりを回復することができるというものでした。
ノア契約の食物規定に制限が加えられました。
・動物ー反芻して噛むもので、ひずめが割れているものに限定。
・魚ーひれと鱗があるものに限定。
アブラハム契約の割礼の意味が拡大されました。
①生後八日目の割礼…レビ記12:3。医学的にも新生児の免疫力が一番高まる日だそうです。
モーセ契約での割礼…律法に対する従順を表わすもの。
異邦人でもユダヤ教徒になりたい人は、律法に従うという意味で割礼が必要となりました。
*ガラテヤ人への手紙のパウロの議論は、
「もし新約時代に尚かつ割礼を受けるのであれば、それは律法全体を守るという前提でなければならない。」
というものでした。つまり、割礼だけ受けて、他の律法を横に置いておくと言うわけにはいかないのです。ヤコブ2:10~11。
律法は613すべて守るか…全部やるか、やらないか、どちらかだというのが、ガラテヤ書の論点です。
死刑宣告の拡大。
ノア契約では、故意に犯す殺人のみ死刑が宣告されていました。
モーセ契約では、以下の罪に死刑が宣告されています。
①姦淫の罪。②偶像礼拝の罪。③神の御名を汚す呪う罪。④両親を呪う罪。⑤魔術を行なう罪。⑥安息日を破る罪。
モーセの律法では、これら①〜⑥の罪に対する身代わりとなる動物の規定がありませんでした。ですから、罪を犯した本人が、自らのいのちを持って罪を償わなくてはならなかったのです。
1ヨハネ5:16ーだれでも兄弟が死に至らない罪を犯しているのをみたなら、神に求めなさい。そうすれば神はその人のために、死に至らない罪を犯している人々に、いのちをお与えになります。死に至る罪があります。この罪については、願うようにとは言いません。
*死に至る罪…①〜⑥の身代わりとなる動物の規定のない罪。
その意味で、律法には『欠け』があったと言えるわけです。
ヘブル8:7ーもしあの初めの契約が欠けのないものであったなら、後のものが必要になる余地はなかったでしょう。
*初めの契約…モーセ契約
*後のもの…新しい契約
安息日の規定。
ノア契約のしるしは「虹」、
アブラハム契約のしるしは「割礼」、
モーセ契約は神がイスラエルと結ばれた契約なので、当然「安息日」の規定もイスラエルにのみ与えられたものです。
安息日を守ることによってイスラエル人が他の民族から区別された、ということを表わす「しるし」であり、それはイスラエルと神との間にのみ成立する契約のしるしです。出エジプト31:12~17
安息日は、奴隷として休みなく働いていていたイスラエルの民が、解放された結果、週に一度仕事を休める自由人となったことを意味し、奴隷から解放してくださった「出エジプトのしるし」として与えられたものです。申命記5:12~17
*神は、教会や異邦人をエジプトから導き出したのではなく、イスラエルをエジプトでの奴隷生活から導き出されたのです。
エゼキエル20:12ーわたしはまた、彼らにわたしの安息日を与えてわたしと彼らとの間のしるしとし、わたしが彼らを聖別する主であることを彼らが知るようにした。
エゼキエル20:20ーまた、わたしの安息日をきよく保て。これをわたしとあなたがたとの間のしるしとし、わたしがあなたがたの神、主であることを知れ。」と。
*「安息日」に規定は、神が天地創造の時に人類に与えられた命令ではありません。
*人類代表としてアダムが神と結んだ「エデン契約」にも「アダム契約」にも、「安息日を守りなさい。」という条項は出て来ません。
*創世記のどこにも「安息日」ということばは出てきません。つまり、アダムからモーセに至るまでは「安息日を守った。」という記述はないのです。(モーセの律法の時代の前の聖徒であるヨブについて書かれたヨブ記にも、安息日を守った記述はありません)
安息日に集会を開けという規定は、祭司たち、つまりレビ人たちに与えられている命令であり、「血の犠牲を捧げるための集会を開きなさい。」というものです。一般の人々に「集まって礼拝せよ。」という命令ではありません。レビ記16:32~33
*ここでの『安息』は第七のチスリの月の十日の『贖罪の日』のことです。
安息日は、イスラエルの共同体として礼拝する日ではありません。集まって礼拝するのは、過越しの祭り、七週の祭り(五旬節、ペンテコステ)、仮庵の祭りの年に3回のみでした。
モーセ契約は「律法の時代」の土台です。
この規定は、モーセ契約が有効に機能する「律法の時代」の間だけなので、モーセ契約が終わり新しい契約の時代(恵みの時代)に入ると、安息日も自動的に終わります。
ガラテヤ3:24ーこうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。
律法を行なうことによっては、神を喜ばせ、自らの救いを達成させることはできないと知るようになり、救いを得るためには、わざ(行ない)によるのではなく、神を信頼するという信仰による方法しかないということが解るようになるのです。
律法は、すでに救われた人がいかに生きるべきかを教えるものであって、救いを得させるためのものではありません。
荒野を40年間さまよった間に、イスラエルの民は世代交代をしました。出エジプトを経験し、律法を与えられた世代はみな死に絶え、次の世代になった時、約束の地を目前にしました。
その第二世代にこれから入る約束の地で、いかに生きるべきかの指針として与えられたのが、申命記5章の「十戒」です。申命記5:15の内容が、出エジプト記に含まれないのはそのためです。
エペソ2:8~10ーあなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。 アーメン。