サザエのお裾分け

聖書を字義通り&文脈に沿って学び、理解したことの中からのお裾分け。内容は鵜呑みにせず、必ずご自分で聖書を開いて確認してくださいね。聖書理解の助けになれば幸いです。† 栄光在主 †

良い牧者 〜ヨハネ10:1~18〜

ヨハネ10:1ーまことに、まことに、あなたがたに告げます…イエス様が大事なことを話される前によく使うフレーズ。「今から言うことは大事なことだから、よく注意して聞くように。」という意味です。

 

門…幕屋も神殿も、羊の囲いも出入り口となる『門』は一カ所だけ。そこから入って来ない者は、盗人で強盗だと言っています。

 

ヨハネ10:2ー『門』から入る者だけが『その羊の牧者』です。

 

ヨハネ10:3自分の羊をその名で呼んで…一匹一匹の特徴を知っているからこそ、個々の名前を呼べるのです。何故、名前を知っているのでしょう?

それは信仰により、『小羊のいのちの書』に名前が書かれてあるからです。

 

cf  黙示録13:8ー地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名の書きしるされていない者はみな、彼を拝むようになる。

 

cf 1コリント8:3ーしかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです。

 

cf  ガラテヤ4:9ーところが、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに…略。

 

ヨハネ10:4ー良い牧者は自分の羊を囲いから出すと、その先頭に立って行きます。羊たちは牧者の後に従って行けばいいのです。

ただし、羊はその牧者の声を聞き分けなくてはなりません。

 

ヨハネ10:5ー『良い牧者』の後に従っていくには、良い牧者の声である『みことば』を聞いて知っていなければなりません。『本物』の牧者の『声』を知っていれば、それ以外はみな『偽物』と見分けがつきます。

 

しかし、常日頃から『本物』に慣れ親しんでいなければ、似たような『声』だと勘違いしてついて行ってしまう危険性があります。

 

〜良い牧者の声の見分け方〜

(1)字義通りに読む。

(2)文脈に沿って読む。

(3)みことばに付け加えたり、差し引いたりしない。申命記4:2。

(4)私的解釈をしない。Ⅱペテロ1:20。

(5)聞いたことを鵜呑みにせず、みことばで確認する。使徒17:11。

 

ヨハネ10:6ーイエスはよく理解できなかった人々のために、意味を説明しておられます。それが『説教』なのです。

 

cf  ネヘミヤ記8:8彼らが神の律法の書をはっきりと読んで説明したので、民は読まれたことを理解した。

 

異邦人である私たちの日々の生活の『生き方への適応』メッセージばかりを聞いているだけでは、本当の意味での聖書のメッセージに気付かずに終わってしまいます。

聖書のみことばは、ぶつ切りで読んで適応するのではなく、文脈に沿って、どのような状況の中で語られたのかを理解した上で、自分の生活に適応すべきです。

 

ヨハネ10:7ー羊の門…『門』とは、イエスご自身だと言われています。

 

新改訳聖書で『わたし』とひらがなで書かれている箇所は、決まって神様の発言の場合です。人間の発言の場合は『私』と漢字で記されています。

 

cf ヨハネ14:6ーイエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

 

天の御国への『道』はイエスです。イエスの『道』を通らなければ、父なる神のみもとに行くことはできないばかりか、御国の『門』もイエスご自身なのです。

「どの宗教でも天国に行き着く」というのは、まやかしだということです。

真理への道は、常にひとつだけです。

 

ヨハネ10:8ーイエスよりも前に『メシア』を名乗って来たり、神が伝えなかったことを主の御名によって語った偽預言者を『盗人であり、強盗である』と言っています。

 

ヨハネ10:9ー再びイエスは、『わたしは、門です。』と言われます。

だれでも…ユダヤ人なら、という限定はありません。『だれでも』ということばには、異邦人の救いも含まれるのです。その救いの条件は、『道であり、門であるイエスを通って天の御国に入るなら』です。

 

牧草を見つけます…cf 詩篇23:1~2。

主は私の羊飼い。

私は、乏しいことがありません。

主は私を緑の牧場に伏させ、

いこいの水のほとりに伴われます。

 

ヨハネ10:10ー盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。

cf エゼキエル34:2b~4ーああ。自分を肥やしているイスラエルの牧者たち。牧者は羊を養わなければならないのではないか。

あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊をほふるが、羊を養わない。

弱った羊を強めず、病気のものをいやさず、傷ついたものを包まず、迷い出たものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力ずくと暴力で彼らを支配した。

 

ヨハネ10:11ー良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。

cf ピリピ2:8キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。

 

ヨハネ10:12ーcf エゼキエル34:5ー彼らは牧者がいないので、散らされ、あらゆる野の獣のえじきとなり、散らされてしまった。

 

cf エゼキエル34:8aーわたしは生きている、ー神である主の御告げ。ーわたしの羊はかすめ奪われ、牧者がいないため、あらゆる野の獣のえじきとなっている。

 

ヨハネ10:13ーcf エゼキエル34:8bーそれなのに、わたしの牧者たちは、わたしの羊を捜し求めず、かえって牧者たちは自分自身を養い、わたしの羊を養わない。

 

ヨハネ10:14ーcf エゼキエル34:10ー神である主はこう仰せられる。わたしは牧者たちに立ち向かい、彼らの手からわたしの羊を取り返し、彼らに羊を飼うのをやめさせる。牧者たちは二度と自分自身を養えなくなる。わたしは彼らの口からわたしの羊を救い出し、彼らのえじきにさせない。

 

ヨハネ10:15ーわたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます…イエスの十字架の死は、自発的なものです。だとしたら、ゲッセマネの園での祈り、血の汗を流しながら「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」と祈った意味が、肉体の痛み苦しみを嫌がるゆえの『十字架の苦しみ』ではないことが分かります。

 

イエスが祈られた『苦杯』の意味は、霊的に御父との断絶のことです。

 

ヨハネ10:16ーわたしにはまた、この囲いに属さない他の羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。

                    

この囲い…ユダヤアブラハムーイサクーヤコブの子孫)。

この囲いに属さないほかの羊…異邦人ユダヤ人以外)。

彼ら…イエスを『救い主』だと信じる異邦人信者。 

わたしの声…聖書のみことば。 

聞き従うイエスが何を教え、何を命じられたかを聖書から学び、理解し、実行すること。

一つの群れイエスを『救い主』だと信じるユダヤ人信者と異邦人信者。cf ヨハネ11:51~52,エペソ1:10,2:13~16。

 

ユダヤ教の『シナゴーグ』(会堂)の流れをくむ、本来のキリスト教の『教会』には、ユダヤ人信者と異邦人信者が共存すべきなのです。

そして、その信者たちの群れの牧者が、イエス・キリストです。

 

ヨハネ10:17ーわたしが自分のいのちを再び得るため自分のいのちを捨てる…十字架の死と復活を示唆しています。

cf ヨハネ11:25ーイエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」

 

ヨハネ10:18ーわたしが自分からいのちを捨てるのです…十字架の贖いは、神の御子イエスの『神の小羊』、メシアとしての自発的行為です。

 

それをもう一度得る権威があります。…復活のこと。これは御父の命令です。

 

私たちは異邦人信者として、この牧者なるイエス・キリストに従って行くのです。

牧者の声をよく聞き分けることができるように、しっかりとみことばによって養われますように。