ヨハネ10:1ーまことに、まことに、あなたがたに告げます…イエス様が大事なことを話される前によく使うフレーズ。「今から言うことは大事なことだから、よく注意して聞くように。」という意味です。
門…幕屋も神殿も、羊の囲いも出入り口となる『門』は一カ所だけ。そこから入って来ない者は、盗人で強盗だと言っています。
ヨハネ10:2ー『門』から入る者だけが『その羊の牧者』です。
ヨハネ10:3ー自分の羊をその名で呼んで…一匹一匹の特徴を知っているからこそ、個々の名前を呼べるのです。何故、名前を知っているのでしょう?
それは信仰により、『小羊のいのちの書』に名前が書かれてあるからです。
cf 黙示録13:8ー地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名の書きしるされていない者はみな、彼を拝むようになる。
cf 1コリント8:3ーしかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです。
cf ガラテヤ4:9ーところが、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに…略。
ヨハネ10:4ー良い牧者は自分の羊を囲いから出すと、その先頭に立って行きます。羊たちは牧者の後に従って行けばいいのです。
ただし、羊はその牧者の声を聞き分けなくてはなりません。
ヨハネ10:5ー『良い牧者』の後に従っていくには、良い牧者の声である『みことば』を聞いて知っていなければなりません。『本物』の牧者の『声』を知っていれば、それ以外はみな『偽物』と見分けがつきます。
しかし、常日頃から『本物』に慣れ親しんでいなければ、似たような『声』だと勘違いしてついて行ってしまう危険性があります。
〜良い牧者の声の見分け方〜
(1)字義通りに読む。
(2)文脈に沿って読む。
(3)みことばに付け加えたり、差し引いたりしない。申命記4:2。
(4)私的解釈をしない。Ⅱペテロ1:20。
(5)聞いたことを鵜呑みにせず、みことばで確認する。使徒17:11。
ヨハネ10:6ーイエスはよく理解できなかった人々のために、意味を説明しておられます。それが『説教』なのです。
cf ネヘミヤ記8:8ー彼らが神の律法の書をはっきりと読んで説明したので、民は読まれたことを理解した。
異邦人である私たちの日々の生活の『生き方への適応』メッセージばかりを聞いているだけでは、本当の意味での聖書のメッセージに気付かずに終わってしまいます。
聖書のみことばは、ぶつ切りで読んで適応するのではなく、文脈に沿って、どのような状況の中で語られたのかを理解した上で、自分の生活に適応すべきです。
ヨハネ10:7ー羊の門…『門』とは、イエスご自身だと言われています。
*新改訳聖書で『わたし』とひらがなで書かれている箇所は、決まって神様の発言の場合です。人間の発言の場合は『私』と漢字で記されています。
cf ヨハネ14:6ーイエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。
天の御国への『道』はイエスです。イエスの『道』を通らなければ、父なる神のみもとに行くことはできないばかりか、御国の『門』もイエスご自身なのです。
「どの宗教でも天国に行き着く」というのは、まやかしだということです。
真理への道は、常にひとつだけです。
ヨハネ10:8ーイエスよりも前に『メシア』を名乗って来たり、神が伝えなかったことを主の御名によって語った偽預言者を『盗人であり、強盗である』と言っています。
ヨハネ10:9ー再びイエスは、『わたしは、門です。』と言われます。
だれでも…ユダヤ人なら、という限定はありません。『だれでも』ということばには、異邦人の救いも含まれるのです。その救いの条件は、『道であり、門であるイエスを通って天の御国に入るなら』です。
牧草を見つけます…cf 詩篇23:1~2。
主は私の羊飼い。
私は、乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させ、
いこいの水のほとりに伴われます。
ヨハネ10:10ー盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。
cf エゼキエル34:2b~4ーああ。自分を肥やしているイスラエルの牧者たち。牧者は羊を養わなければならないのではないか。
あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊をほふるが、羊を養わない。
弱った羊を強めず、病気のものをいやさず、傷ついたものを包まず、迷い出たものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力ずくと暴力で彼らを支配した。
ヨハネ10:11ー良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。
cf ピリピ2:8ーキリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。
ヨハネ10:12ーcf エゼキエル34:5ー彼らは牧者がいないので、散らされ、あらゆる野の獣のえじきとなり、散らされてしまった。
cf エゼキエル34:8aーわたしは生きている、ー神である主の御告げ。ーわたしの羊はかすめ奪われ、牧者がいないため、あらゆる野の獣のえじきとなっている。
ヨハネ10:13ーcf エゼキエル34:8bーそれなのに、わたしの牧者たちは、わたしの羊を捜し求めず、かえって牧者たちは自分自身を養い、わたしの羊を養わない。
ヨハネ10:14ーcf エゼキエル34:10ー神である主はこう仰せられる。わたしは牧者たちに立ち向かい、彼らの手からわたしの羊を取り返し、彼らに羊を飼うのをやめさせる。牧者たちは二度と自分自身を養えなくなる。わたしは彼らの口からわたしの羊を救い出し、彼らのえじきにさせない。
ヨハネ10:15ーわたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます…イエスの十字架の死は、自発的なものです。だとしたら、ゲッセマネの園での祈り、血の汗を流しながら「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」と祈った意味が、肉体の痛み苦しみを嫌がるゆえの『十字架の苦しみ』ではないことが分かります。
イエスが祈られた『苦杯』の意味は、霊的に御父との断絶のことです。
ヨハネ10:16ーわたしにはまた、この囲いに属さない他の羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。
この囲い…ユダヤ人(アブラハムーイサクーヤコブの子孫)。
この囲いに属さないほかの羊…異邦人(ユダヤ人以外)。
彼ら…イエスを『救い主』だと信じる異邦人信者。
わたしの声…聖書のみことば。
聞き従う…イエスが何を教え、何を命じられたかを聖書から学び、理解し、実行すること。
一つの群れ…イエスを『救い主』だと信じるユダヤ人信者と異邦人信者。cf ヨハネ11:51~52,エペソ1:10,2:13~16。
ユダヤ教の『シナゴーグ』(会堂)の流れをくむ、本来のキリスト教の『教会』には、ユダヤ人信者と異邦人信者が共存すべきなのです。
そして、その信者たちの群れの牧者が、イエス・キリストです。
ヨハネ10:17ーわたしが自分のいのちを再び得るため自分のいのちを捨てる…十字架の死と復活を示唆しています。
cf ヨハネ11:25ーイエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」
ヨハネ10:18ーわたしが自分からいのちを捨てるのです…十字架の贖いは、神の御子イエスの『神の小羊』、メシアとしての自発的行為です。
それをもう一度得る権威があります。…復活のこと。これは御父の命令です。
私たちは異邦人信者として、この牧者なるイエス・キリストに従って行くのです。
牧者の声をよく聞き分けることができるように、しっかりとみことばによって養われますように。