旧約聖書では、人類を「神の契約の民であるユダヤ人」と「異邦人」の二つに分類しています。
新約聖書では、「ユダヤ人」「異邦人」「神の教会」と三つに分けています。
しかし、長い教会時代の中でいつの間にかユダヤ人信者を排除し、異邦人信者こそが『霊的イスラエル』と称した教えが横行するようになってしまいました。
そのような主張をする人々は、旧約の預言書が記すイスラエルに関する裁きの預言は文字どおりの『イスラエル』、祝福に関する預言は自分たち『霊的イスラエル』だと解釈し、反ユダヤ主義的思想を作り出しているのです。
聖書は創世記から黙示録の最後『永遠の秩序』に至るまで、一貫して神の選びの民イスラエル(ユダヤ人)と非ユダヤ人(異邦人)とを区別されています。
これはあくまでも『区別』であって、『差別』ではないということを理解する必要があります。
イスラエルの民が出エジプトをしたのは『真の神を礼拝する民を作るため』であり、
出エジプト前の十の災いは『異邦人であるエジプトが、ヘブル人(イスラエル)の神が真の神であることを知るため』という、神様のご計画があったのです。
1コリント10:32ーユダヤ人(ユダヤ教では、ユダヤ教徒であればユダヤ人と定義)にも、ギリシャ人(異邦人の代表)にも、神の教会(集会そのもの)にも、つまづきを与えないようにしなさい。
*人種としてのユダヤ人は、『アブラハム契約』を受け継ぐ者ーアブラハム、イサク、ヤコブの子孫ーです。
彼らは、人類救済計画(数ある神のご計画の中の一つであって、神の目的ではありません!)のために神に選ばれ、多くの約束を与えられた「契約の民」です。
詩篇147:19~20ー主はヤコブには、みことばを、イスラエルには、おきてとさばきを告げられる。
主は、どんな国々にも、このようには、なさらなかった。さばきについて彼らは知っていない。ハレルヤ。
ローマ3:1~2ーでは、ユダヤ人のすぐれたところは、いったい何ですか。割礼にどんな益があるのですか。
それは、あらゆる点から見て、大いにあります。第一に、彼らは神のいろいろなおことばをゆだねられています。
ローマ11:29ー神の賜物と召命とは変わることがありません。
*異邦人ー人類最初の人アダム以来、「神が異邦人に直接約束を与えた」という記録はありません。神が言われていない事を主張するのは、高慢です。
私たち異邦人信者は、メシアを信じる信仰によって『アブラハム契約の祝福に与る者』とされたのです。
*神の教会ー二つの意味があります。
①普遍的教会…目に見えない教会/御霊の内住のある真の信者の集まりです。
②地域教会…目に見える教会/人々が集まる場所。信者も求道者も不信者も集うし、異端信者が集う地域教会もあります。
*「教会」と訳されているギリシャ語は「エクレシア」…この世から呼び出された会衆(人々)という意味。
「集会」そのものを指すので、建物を指すわけではありません。
*注意点
①「建物」を指すのではないので、「私は◯◯教会に通ってます」と言うのは本来の用法ではありません。
『教会に通っている=クリスチャン』ではありません。
クリスチャンとは、キリストの福音を信じて、信仰告白をしているか否かです。
ローマ10:9~10ーなぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるからです。
②教団・教派ではありません。
罪ある人が救われるのに必要なのは、1コリント15:3~4でパウロが『最も大切なこと』として伝えるキリストの福音を信じることです。教団・教派が強調すべき点が違っていても、キリスト教として一致すべきはこの『福音信仰』です。そこに目を止めずに、他教会の信徒の信仰を認めない排他的な教えは、神からのものではありません。
③国家教会でもありません。
キリスト教を国教とする国で生まれ、育っても、その人自身がキリストの福音を信じていないのなら、『クリスチャン』ではありません。母体信仰など聖書のどこにもその根拠となるみことばを見出すことはできません。
④神の国を指すのでもありません。
⑤「イスラエル」「古い(新しい)教会(イスラエル)」を指すのでもありません。
*もう一つ「教会」について誤解されている点があります。
それは「メシアの初臨と再臨の間に、ユダヤ人がメシアを拒んだために、神は教会時代を挿入せざるを得なくなった」とするものです。
聖書的理解では、「神は永遠の昔から、“教会”という概念を持っておられた」のです。
エペソ3:9ーまた、万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義の実現が何であるかを、明らかにするためです。
奥義…世々隠されていたものが、啓示されたもの。
コロサイ1:24~26ーですから、私は、あななたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです。
コロサイ1:24~26ーですから、私は、あななたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです。
つまり、「多くの世代にわたって隠されていた奥義」が「いま神の聖徒たちに現された奥義」だということです。
【普遍的教会】
①ペンテコステの日に「普遍的教会」は誕生しました。
信者は信じた時に、聖霊のバプテスマによって普遍的教会の一員となります。
1コリント12:13ーなぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシャ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。
使徒1:5ーすなわち、ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう。(口語訳)
*聖霊のバプテスマ…名詞ではなく、動詞。正しく訳出しているのは、口語訳聖書。
キリストのからだである普遍的な教会の一部になること。
ペンテコステの時に誕生したのは『普遍的教会』ですが、使徒2章で聖霊がくだったのはすべてユダヤ人信者でした。
使徒8章で、ユダヤ人と異邦人の混血であるサマリヤ人信者に聖霊がくだり、
ここにも神様の救いの優先順位があります。
イエスの復活(エペソ1:19~20)と昇天(エペソ4:7~12)が、普遍的教会設立の条件です。霊的賜物がなければ、人間の力だけでは普遍的教会は機能しないからです。
②ユダヤ人と異邦人から「新しいひとりの人」が造られました。神の奥義ーエペソ2:11~16、コロサイ1:24~27。
十字架の縦軸と横軸は、『縦ー神と人、横ーメシアを信じるユダヤ人と異邦人の和解』ですが、ここを理解していない指導者が多いことは、とても残念です。
③信仰の土台ーペテロが「メシアだと認めたイエスご自身の上に教会を建てる」とイエスは言われました。
マタイ16:18ーではわたしもあなたに言います。あなたはペテロ(ギリシャ語:ペトロス)です。わたしはこの岩(ギリシャ語:ペトラ)の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。
④目的ーa) 御名をもって呼ばれる民を召すため… 使徒5:13~18
b) ユダヤ人にねたみを起こさせるため… ロマ11:11~14
c) 神の豊かな知恵を示すため…エペソ3:10~11
d) 神の臨在の場となるため…エペソ2:20~22
e) 神の栄光のため…エペソ3:20~21
⑤将来ー普遍的教会(ペンテコステ〜携挙までの間に、キリストの福音の三要素だけを信じて救われたすべての信者)は、将来 天に挙げられます。1テサロニケ4:13~18。
キリストの福音
①私たちの罪の身代わりとして、十字架で死なれたこと、②葬られたこと、
③聖書の示すとおりに三日目によみがえられたこと、
以外を宣べ伝えることは『ほかの福音』を 伝える者ということになり、パウロはガラテヤ書1:8~9で「のろわれよ」と厳しく戒めています。
【地域教会】
特定の地域にある目に見える教会を指しますが、新約聖書には、明確な定義というのはありません。
マタイ18:20ーふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。
この箇所を、地域教会の定義と解釈してしまうと、すべてのクリスチャンホームは「教会」であることになってしまいます。
*「教会」と呼ぶには、長老や監督、執事たちという組織体系が必要になります。
「地域教会」は、ユダヤ教の「シナゴーグ(会堂)」の流れから来ています。新約聖書には、教会の定義そのものはありませんが、いくつかヒントがあります。
地域教会は、
①メシアを信じ、洗礼を受けた人々の集まり。
*メシアを信じるという信仰告白が必要。
*初代教会時代、信じるとすぐに洗礼を受けました。
*従って、洗礼を受けていないクリスチャンの例は、新約聖書にはありません。
「パラダイスに行く約束を得た、十字架上の強盗のひとりは?」と言う人がいるかもしれませんが、「教会」の誕生はペンテコステの時です。
②長老と執事の指導のもとに組織化された人々の集まり。ー 使徒14:23、1テモテ3:1~13
③神のみこころを実行する人々の集まり。
a)大宣教命令の実行ーマタイ28:19。
b)洗礼と聖餐式の実行ーマタイ28:19、1コリ11:23~28。
c)礼拝、弟子訓練ーマタイ28:20。
信者ひとりひとりは、「神の宮」ですー1コリント6:19
普遍的教会も「神の宮」ですーエペソ2:20~22
メシアを信じ、洗礼を受けた人々が集まる地域教会もまた「神の宮」ですー1コリント3:16~17
*文脈から「地域教会」について語っていることが分かります。
地域教会の運営形態は、教派、教団によって異なります。
①教会組織をできるだけ小さくしておくという形態ー例)クエーカー派の一部、プリマス・ブラザレンなど。
②国家元首が、教会の首長となる形態ー英国国教会(聖公会、アングリカン・チャーチ)。
通常プロテスタントに入りますが、礼拝形式はカトリックに似ています。
*聖書の教えから出来たものではなく、16世紀に教会史の中で誕生しました。
*問題点:国家の首長が必ずしも信者ではないという点。
③国家教会に対し、反発して誕生した自由教会ー宗教改革以降、国家教会から離脱してできたプロテスタント諸教会。
《新約聖書が教える教会の統治形態》
①教派、教団的組織や階層的権威は存在せず、地域教会は、自主独立した組織で、最終的な権威を持っている。
②権威はひとりの指導者や会衆にあるのではなく、個々の教会の統治は、数の長老たちによって行なわれる。
しかし、現実は『単立教会』などは、ひとりの牧師のもとに権威が集中しており、独裁的な指導、カルト的な教会へと道を踏み外す危険性が増しています。
*長老と会衆の関係は、牧者と羊(聖書)的です。
兄弟団(ブラザレン)系の教会が、この形態に従っていますが、日本の単立教会の場合は、指導者がひとりである場合が多く、ひとりで何もかも決定する場合は危険です。
地域教会の組織は、旧約聖書の「イスラエルの長老」という概念から出ているものであって、教会時代に突如出たものではありません。
地域教会は、複数の長老たちによって統治されるものであり、長老の役割には三つあります。
①長老ー統治。
②監督。
③牧師ー羊を牧し、養う。エゼキエル34章。
ー長老の資格ー1テモテ3:1~7、テトス1:5~9
*パウロは『牧会書簡』と言われるテモテへの手紙の中で、こんなにはっきりと『長老(牧師)の資格』を記しているのに、実際は献身者不足もあって、ほとんど無視されたように、信仰持って間もない者、独身者、教える賜物のない者(教えるという訓練を受けていない者)…そのような人々を神学校が輩出しています。
私たちは今一度、みことばに立ち返るべきではないでしょうか?
聖書は牧師の資質として以下のように記しています。
①非難されるところがない…日常生活の上で、ある程度の評価がある人。
②ひとりの妻の夫である…長老は「男性」。
a)未婚・再婚の者は排除される。
b)不道徳な罪を犯していないという意味でとられる。この場合、未婚・再婚の者も資格あり。
a) または b)、両方の解釈が可能ですが、どちらかを採用したなら、例外規定を作らず一貫してそれを実行するべきです。
③自分を制する…原語の意味:ぶどう酒が入っていない。
④つつしみ深い。
⑤品位がある…礼儀正しい。
⑥よくもてなす…旅人をもてなす。
⑦教える能力がある…必ずしも教師・牧師としての賜物ではなく、一般的な意味で、信徒たちに教える能力がある。
⑧酒飲みでない…酒におぼれない。
*酒を飲んではいけない、という意味ではありません。酒に支配されることを禁じています。
⑨暴力をふるわない…乱暴ではない。
⑩温和である…寛容。
⑪争わない…争いを好まない。
⑫金銭に無欲である…金銭に執着しない。
*私利私欲のために、立場を利用しない。
⑬わがままでない。
⑭自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている…他者との協調性、忍耐力が養われるため。
*長老職の中には、罰則の実行も含まれます。
⑮信者になったばかりの人はだめ…高慢になり、堕落しないようにするため。
⑯教会外の人々にも評判が良い人…中傷されて、悪魔のわなに陥る可能性があるため。
*長老になる人の回心前の状態は問わずに、長老になる時点での状態で吟味すること。この資質にそぐわない長老(牧師)を選択(輩出)した結果、教会に問題が生じるのであって、この制度に問題があるわけではありません。
ー執事の資格ー
*執事…長老たちがみことばの解き明かしに専念できるようにするための援助者であって、教会運営に関する決定権はありません。
教会が行なう慈善活動の責任者。 使徒6:1~6、1テモテ3:13。
長老の場合同様、複数の執事が必要。ピリピ1:1。
1テモテ3:8~10、1テモテ3:12~13
①謹厳である…品位がある。
②二枚舌を使わない。
③大酒飲みでない。
④不正な利をむさぼらない。
⑤信仰の奥義を保っている…正しい教理を理解している。
⑥きよい良心を持っている…信じていることと言動が一致している。
⑦審査を受けさせ、非難される点がないことを証明された人。
⑧ひとりの妻の夫である…長老の場合と同じ。
⑨子供と家庭をよく治める人…他者との協調性、忍耐力が養われるため。
任命は、長老の場合と同じように、長老たちによって按手を受けることによりますー使徒6:6。
*執事が執事によって任命されることはありません。
*女性執事ー聖書には明確な規定はありません。ローマ16:1~2に女性執事フィベが登場しますが、職責ではなく「しもべ」という意味かもしれません。「執事」を聖書的にとらえているのであれば、特に問題はありません。
つまり、①執事は、長老のような権威を持っていないこと。
②執事は、長老を援助する「しもべ」であるということ。
③女性が、その「しもべ」として奉仕するのであれば、聖書的です。
《「普遍的教会」と「地域教会」の違い》
ー普遍的教会ーキリストの福音の三要素すべてを信じる者の集まり
①ペンテコステから携挙までの間に救われたすべての(御霊の内住する)信者を含みます。
②地域教会に属さない信者がいても、普遍的教会に属さない信者はいません。
③未信者はひとりも含まれていません。全員イエスをメシアと信じる者たちです。
④したがって、「メシアに属する教会」あり、「目に見えない教会」です。
ー地域教会ー
①特定の地域にある教会を指し、「目に見える教会」です。
②礼拝、交わり、みことばの学び、バプテスマ、聖餐式など、神のみこころを実行する人々の集まりです。
③イエス(福音の三要素すべて)をメシアと信じる者だけでなく、未信者(求道者、反対論者も時には含む)もいます。cf マタイ13:24~30。
*携挙に与るのは、「普遍的教会に属する者たち/福音の三要素すべてを信じる御霊の内住のある信者」だけです。たましいが肉体から離れて神の御前に出た時に、いくら「私は “◯◯教会” に△年通っていた。聖歌も賛美歌も歌って神を賛美したし、献金も毎回していた。」と弁明しても、「普遍的教会」に属さない、御霊の内住のない者は御国に入ることはできません。
御国(天国)に入れてもらうには、イエスをメシアとして信じ受け入れ、「普遍的教会」に属さなくてはならないのです。
*様々な理由で、「地域教会」に行かれなくても、イエスをメシアとして信じるなら「普遍的教会」には属しています。と同時に、「主にある交わり」はどうしても必要不可欠ですから、どこかのスモールグループで、みことばの学び&交わりが与えられることを祈り求めていくことも大切です。
みこころにかなった祈りは、必ずきかれます。主を信頼して祈り続けてください。
ふさわしい交わりの場所が与えられますように。栄光在主。アーメン。