ルカ19:1ーそれからイエスは、エリコに入って、町をお通りになった。
*エリコ…ヨルダンの向こうとエルサレムを結ぶ重要な通称路であり、ローマ人がエリコのナツメヤシやバルサムを輸出していました。ローマ帝国は通関所、取税所を置いて、税の取り立てのためにユダヤ人を雇っていました。ユダヤ人たちは自国のためではなく、異邦人の国ローマのために税を取り立て、また中には不正をして多く税を取り、私腹を肥やしている者もいたため、取税人たちを『罪人』『売国奴』と蔑んでいました。
ルカ19:2ーここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。
*ザアカイーきよい、の意。
『取税人のかしら』というザアカイの職業から、その暮らしぶり等を想像してみましょう。
ルカ19:3ー彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群集のために見ることができなかった。
なぜザアカイはイエスに興味を持っていたのでしょう?
彼はどのような人生の悩みがあったと思いますか?
ここに群がっている群衆は、背の低い取税人ザアカイをどのように見て、扱っていたと思いますか?
ザアカイは『金持ちだった。ー2節』とありますが、満ち足りた幸せな人生を送っていたでしょうか?
ルカ19:4ーそれで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。
群衆のためにイエスを見ることができなかったザアカイは、諦めずにいちじく桑の木に登りました。
*いちじく桑…実はいちじくに似ていますが、葉は桑のようで、幹が短く、枝が四方に伸びていて登りやすい木。
なぜザアカイはそこまでして、イエスを見たいと思ったのでしょう?
*ちょうど…人間側からみれば『たまたま』『偶然』と捉えられることが多いですが、神の視点からみると『必然』的、神の摂理がそこにはあるのです。
ルカ19:5ーイエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りてきなさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」
日本でも有名人が『そこ』を通ると聞くと、人々は一目見ようと群がりますよね。そして、有名人が通りかかると群衆の方から「◯◯様〜!」と声を掛けます。自分の方を見てくれただけで幸せな気分になるものですが、ここではイエスの方から『上を見上げて』、しかも『ザアカイ』と個人名まで呼んで声を掛けてくださいました。
なぜザアカイの方から「イエス様〜!」と声を掛けなかったのでしょうか?
イエスに対する強い求めがあったにも拘わらず、声を掛けなかった理由は何だったと思いますか?
なぜイエス様は『ザアカイ』の名前を知っていたのでしょう?
『イエス様に名前を呼ばれる』とは、どのような意味があると思いますか?
イエス様のご計画はどのようなものだったでしょう?
もし突然、イエス様に名前を呼ばれ「きょうはあなたの家に泊まることにしてあるよ。」と言われたらどうしますか?
主をお泊めするスペースはありますか?
ルカ19:6ーザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。
なぜザアカイはためらうことなく、『大喜びでイエスを迎える』ことができたのでしょう?
ルカ19:7ーこれを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた」と言ってつぶやいた。
ザアカイとイエスのやり取りを側で見ていた群衆の反応は、冷たいものでした。
当時の宗教的指導者である律法学者やパリサイ人たちが教える口伝律法では、罪人たちが悔い改めて救われるより、死ぬことの方が神は喜ばれるというものでしたから、そのような間違った教えを鵜呑みにしてしまえば、当然鵜呑みにした人たちからは愛は消えてしまいます。
ルカ19:8ーところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」
*四倍にして返します。…律法では盗んだものを返す場合は二倍にして、また自首して償う場合ももとのものに1/5を足して償うようにという規定がありました。
出エジプト記22:4ーもし盗んだ物が、牛でも、ろばでも、羊でも、生きたままで彼の手の中にあるのが確かにみつかったなら、それをニ倍にして償わなければならない。
出エジプト記22:7ー金銭あるいは物品を、保管のために隣人に預け、それがその人の家から盗まれた場合、もし、その盗人が見つかったなら、盗人はそれを二倍にして償わなければならない。
レビ記6:2~5ー「人がもし主に対して罪を犯し、不実なことを行なうなら、すなわち預かり物や担保の物、あるいはかすめた物について、隣人を欺いたり、隣人をゆすったり、
あるいは落とし物を見つけても、欺いて偽りの誓いをするなど、人が行なうどれかについて罪を犯すなら、
この人が罪を犯して罪に定められたときは、そのかすめた品や、脅迫してゆすりとった物、自分に託された預かり物、見つけた落とし物、
あるいは、それについて偽って誓った物全部を返さなければならない。元の物を償い、またこれに五分の一を加えなければならない。彼は罪過のためのいけにえの日に、その元の所有者に、これを返さなければならない。
ザアカイはイエス様をお迎えしたことによって、どのような変化が起こったでしょう?
彼は何倍にして返すと言っていますか?
それはどのような心のあらわれだと思いますか?
彼はどこに、イエス様をどのような方としてお迎えしたのでしょうか?
モーセの律法に従うということ、ここでのザアカイのそれ以上に償うという自発的な行為は、神の命令に応答する正しい姿勢です。
ヨハネ15:14ーわたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です。
ザアカイは、イエスの友になれたと思いますか?
ルカ19:9ーイエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
イエス様はザアカイの何を喜んでおられますか?
*きょう、救いがこの家に来ました。…cf ヨハネ14:23ーイエスは彼に答えられた。
「だれでもわたしを愛する者は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。
イエス様が心に宿られると、人はどのように変わるのでしょう?
ルカ19:10ー人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」
*人の子…神の子イエスが、『人間』として来られたことを強調することば。主ご自身を指すことばとして、主が好んで用いられた。ただし、旧約聖書のエゼキエル書では、エゼキエル自身を指す。
*失われた人…おるべき神の御前から迷い出た者。
イエスの方から『失われた人(羊)』を捜してくださる『牧者』であることを思い起こさせるみことばですね。
神の御子の方から、近づいて、声をかけてくださることについてどう思いますか?
きょう、イエス様が声をかけてくださったら、ザアカイのように喜んでお迎えすることはできますか?