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サザエのお裾分け

聖書を字義通り&文脈に沿って学び、理解したことの中からのお裾分け。内容は鵜呑みにせず、必ずご自分で聖書を開いて確認してくださいね。聖書理解の助けになれば幸いです。† 栄光在主 †

デボーションの秘訣 〜聖書の読み方〜

ヨハネ20:31ーしかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。

聖書が書かれた目的が、ここにあります。


信仰歴が何年あろうとも、主観的に聖書を読んでいるうちは、十人十色の解釈となってしまいます。神様が意図されることは、一つです。
どのような背景の中、誰が誰に対して語っているみことばなのかを考えて読む時、初めて神が語ってくださるのです。
そのようなバイブルスタディが今、急速に広がり、日本人信者を霊的覚醒へと導いています。


神の裁き、終末論、キリストの再臨(携挙、地上再臨)を語らずに、愛、癒し、励ましだけしか語らない教会は、バランスを崩した信仰へと導くだけです。
イエスの十字架は、永遠の滅びからの身代わりであり『救い』なのですから。


【解釈学の黄金律】by ディビッド・L・クーパー博士

聖書の言葉を理解できるのであれば、それ以外の意味を探そうとしない。
それゆえ、どの単語でも第一義的に、通常どおりの、一般的で、文字どおりの意味を取る。
ただし、前後の文脈や、関連聖句や基本的な真理と照らしてはっきりと別の意味だとわかる場合だけを例外とする。

*聖書は『幻』は幻として、『たとえ』はたとえとして記している。同様に、聖書が『比喩』としている場合は、比喩として読む。

 

何故、このような素直な読み方がなされないのでしょうか…?

私たちは「日々、聖書を読み、デボーションするように。」とは教えられてきましたが、『聖書の読み方』を教えられてはきませんでした。

みことばに『私たち』とあれば、それはすべて『自分たちクリスチャン』として受け止め、『あなたがた』とあれば、それも『クリスチャン』宛に神が語られたものだと理解し、新約聖書に『イスラエル』とあれば、やってはいけないこととされているにも拘わらず『霊的』という言葉を付け足して『霊的イスラエル=クリスチャン(異邦人信者)』と、自動的に置き換えて理解してきました。

 

しかし、聖書はそのような解釈を勧めてはいません。

申命記4:2わたしがあなたがたに命じることばに、つけ加えてはならない。また、減らしてはならない。私があなたがたに命じる。あなたがたの神、主の命令を、守らなければならない。

 

箴言30:6神のことばにつけ足しをしてはならない。

神が、あなたを責めないように。

あなたがまやかし者とされないように。

 

黙示録22:18~19ー私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。

また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。

 


創世記3:15ーわたしは、おまえと女との間に、また、お前の子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、お前の頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。

 

これが聖書中の最初のメシア預言。以来、サタンはメシアの家系を妨害することに…。
メシアの十字架は、蛇がかかとにかみつき、サタンが勝利したかに見えた。しかしメシアは復活した!最終的にメシアのかかとは地に降りて来て、蛇の頭を踏み砕くのです。

Ⅱ テサロニケ2:8ーその時になると、不法の人が現れますが、主は御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます。

 

創世記3:19ーあなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。


*人類の代表であるアダムの罪は、神のことばを信じず、自分にとって都合の良いことを信じた結果だった。その罪の結果、死が入ったのです。
以来、人間はたとえクリスチャンであっても、みことばを主観的に解釈するようになった。

アダム契約は、罪人に対する神の宣言であり、罪の結果『死』が入りました。


クリスチャンも、肉体が死ぬのはこのためです。
病気の人に「祈れば癒されます。」と言う人は、このアダム契約を理解していません。

癒される病もあれば、癒されない病もあるのです。たとえ癒されても、いつかは死ぬ日が来ます。
これは『クリスチャンとして、どのように生きるのか』ということと深い関わりがあります。


聖書を『契約の書』として理解する人は多いですね。しかし『旧約聖書は神とイスラエルの契約であり、新約聖書は神と “霊的イスラエル” であるクリスチャンとの契約だ』と考えているとしたら、それは間違いです。聖書には『霊的イスラエル』という概念はありません。

 

旧約聖書の中には、八つの契約が記されています。

http://osusowake.hatenablog.com/entry/2013/05/07/210150

ある契約は『条件付き契約』…片方が違反したら、契約は破棄されます。

ある契約は『無条件契約』…神だけが契約を守る責任を負っています。だからこそ神は誠実なお方なのです。


新しい契約が結ばれる度に、神様のご計画は少しずつ進みます。
神様のご性質が変わるのではなく、神様の人に対する命令に変化があるのです。
だから聖書を読む時、登場人物がどの契約のもとに生きていたかを考える必要があり、これが『ディスペンセーション』という視点で、聖書を読み解く方法です。

 

ある人々は、聖書的時代区分を認めようとしません。しかし、そのような人でも現在は『教会時代』だということは認めます。始まりがあり、終わりがあるから『時代』なのです。『教会時代』は、ペンテコステによって始まり、携挙によって終わります。

新しい契約が結ばれれば、旧い契約は破棄され、新しい『時代』となるのです。


ルカ1:67~69ーさて父ザカリヤは、聖霊に満たされて、預言して言った。
「ほめたたえよ。イスラエルの神である主を。主はその民を顧みて、贖いをなし、
救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられた。


聖霊に満たされて聖霊に満たされたなら、おかしな教理にはなりません。

バプテスマのヨハネの父ザカリヤは、ダビデの家からメシアが生まれる』ことを預言しました。

*ルカ1:55からイエスの母マリヤもアブラハム契約』を理解していたことがわかります。だからこそ受胎告知を受け入れることができたのです。


モーセの十戒』で有名な『モーセ契約』は、条件付き契約です。

十戒は613ある律法の中の最初の十の戒め…エジプトでの奴隷生活から解放されたイスラエルの民に、自由人としての生き方を示したもの。
守れば祝福が、破れば裁きが下りました。


神との縦の関係において、アブラハム契約の中で、イスラエルが神の宝の民となり、祭司として全人類に祝福をもたらす民となるため。
横の関係において、神はイスラエルの民に垣根(憲法の役割)を作り、イスラエルの方向性を指示し、人間関係を統御されました。


ましてや、私たちはユダヤ人でもなく、旧約の時代に生きているわけではありません。新約時代のクリスチャンには適用されない『旧い契約』です。
いつまでも律法に縛られ、喜びのない信仰生活を続けるのではなく、主にあって解放され、喜びに満ちた信仰生活に入るべきなのです。


ローマ6:14ーというのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。

ローマ10:4キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。

エレミヤ31:31~32ー見よ。その日が来る。―主の御告げ―その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。

その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。

 

イスラエルモーセ契約を破ったため、神は『新しい契約』をイスラエルの家とユダの家と結ばれます。


アブラハム契約』の三つの条項を基に、
①土地⇨土地の契約
②子孫⇨ダビデ契約
③祝福⇨新しい契約
として発展しました。


私たち異邦人信者(クリスチャン)は、信仰により神の子となり ③祝福に与る者となったのであって、霊的イスラエルになったのではありません。
クリスチャンは、謙遜であるべきなのです。

イスラエル』は『イスラエル』として理解して初めて、神様のご計画が見えてきます。

 

エペソ人への手紙2章にあるように、メシアであるイエス・キリストを信じる『ユダヤ人信者(メシアニックジュー)』と『異邦人信者(クリスチャン)』が、ひとりの『新しい人』となるのが『聖書的教会』です。

 

エペソ人への手紙 2章 - サザエのお裾分け

 

これらの点に注意しながら、みことば本来の意味を理解する日々のデボーションを持てますように。

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