「聖書って面白い!」と感じる理由の一つに、みことばの繋がりの発見があります。
よく知られているのは、旧約のメシア預言(イエスに関する預言)が、新約聖書で成就しているというものですが、実はメシア預言以外にもたくさんの箇所が縦横無尽に関連しているのです。
この『ぶどうの木の譬え』のその一つだと思います。
しかし、先日「私はヨハネ15章の『ぶどうの木の譬え』を読むと、自分の信仰は実がなく、やがて燃やされてしまうのではないかと怖くなります。」と言う方に会いました。
その方に『福音の三要素』を確認すると、ためらうことなく「アーメンです。」ときっぱりと答えらえるのです。その方のたましいは、間違いなく救われており、永遠のいのちを持っておられるのですが、みことばの意味を誤解されていたため本人にその『確信』がなかったのです。
これは、とても悲しいことだと思います。
救いの確信がなければ、救われた喜びもないからです。
ぶどうの木の譬えが何を教えようとしているのか…?
みことばをみことばで確認しながら、私が学んだことをお裾分けしたいと思います。
ヨハネ15:1ーわたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。
*ぶどうの木…譬えでは、旧約時代の神の契約の民『イスラエル』を指します。
エレミヤ2:21ー わたしは、あなたをことごとく純良種の良いぶどうとして植えたのに、
どうしてあなたは、わたしにとって、
質の悪い雑種のぶどうに変わったのか。
譬えの中で『いちじく』が出てくる場合、教会時代のユダヤ人(イスラエル)を、『オリーブ』が出てくる場合、将来の患難時代のユダヤ人(イスラエル)を指します。
*わたしの父は農夫…神はユダヤ人(アブラハムーイサクーヤコブー十二部族の『アブラハム契約』の継承者)を選び、彼らにメシアに導く養育係としての『律法』を与え、養い育てられたのです。それは、彼らを通してメシアによる救いが、全世界に及ぶためでした。
それはメシアの到来までは未完成であり、彼らがメシアを信じることによって完成するという神のご計画でした。
ヨハネ15:2ーわたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。
*実…御霊の実。
ガラテヤ5:22~23ーしかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
どうしたら、このような『御霊の実』が結べるようになるのでしょう?
エペソ2:10ー私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって作られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その行いをもあらかじめ備えてくださったのです。
神は、良い実としての『良い行い』をもあらかじめ備えてくださっていると、パウロは記しています。つまり、それはイエスの教え(それを受け、伝えるようにと託されたパウロたち使徒たちの教えに『聞き従うこと』なのです。その教えは、聖書に記されていますので、みことばを読み、学び、理解することなくして『御霊の実』を結ぶことはできません。
福音を信じているクリスチャンでも、聖書を読まずに、また読んでも理解せず、文脈を無視して自分に都合の良い聖句だけを選んでいるうちは、『御霊の実』ではなく『肉の行いによる実』を結んでいることになります。
それらは、御霊の実よりも豊かに15個+αも結べるのです。
ガラテヤ5:19~21aー肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、紅色、
偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。
多くの方がこの箇所を読むと『未信者』に当てはめて理解されるようですが、パウロは未信者に宛てて『ガラテヤ人への手紙』を書いたのではなく、信者に宛てて書いています。
一世紀のガラテヤの教会には、ユダヤ人信者も異邦人信者も共に主を礼拝し、交わりをしていました。しかし、その中に『肉の行い』の実を結ぶ者たちがいたということです。
*父がそれを取り除き…信者が『肉の行いの実』を結ぶと、多くの方が自分は『取り除かれてしまうのではないか』と誤解し不安になるようですが、御父が『取り除く』と言われている『それ』は『肉の行いの実』であって、どこにも『信者本人』とは言っていないのです!
そして、もうひとつ!
『肉の行いの実』を結ぶ信者がどうなるかを、ガラテヤ書でパウロが記しています。
ガラテヤ5:21bー前にあらかじめ言ったように、わたしは今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。
*神の国…千年王国。この地上での『キリストの御国/メシア的王国』。
イエスを信じる者であっても、聖書を読み、学び、理解し、みことばに聞き従うことがなければ、自分が良いと思う自分の方法での善行となり『肉の行いの実』を結ぶことになります。
マタイ5:20ーまことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。
これはイエスがユダヤ人伝道で教えられた内容です。
*律法学者やパリサイ人の義…口伝律法を含む『律法の行いによる義』。
*まさるもの…イエスをメシアだと信じる『信仰による義』。
キリストの福音を信じる者たちは『天の御国(千年王国)』に入ることが保証されています。しかし、信者になった後、みことばを無視して『肉の行いの実』ばかりを結ぶ者には『御国での相続地がない』のです。
では、その『相続地』とは何でしょう?
神に与えられた 『御霊の賜物』を用いて、みことばに聞き従った者が「良い忠実なしもべだ。」と賞賛され、その働きに応じて十の町、五つの町、二つの町の管理を託されることです。
そこには、患難時代を生き延び『羊と山羊の裁き』で『羊組』となった、肉体のままで千年王国に入ってくる人々の子孫たちが誕生してきます。彼らの肉体の寿命は『百歳』と決められており、百歳までにメシアであるイエスを『王』として受け入れる必要があります。
サタンは千年間『アビス=底知れぬ所』に閉じ込められていますが、肉体を有する者は『原罪』も有するので、イエスを王として認めたくないという者たちが起こるのです。その彼らをイエスを信じ受け入れるように導く祭司としての役割を担うのが、復活のからだで御国に入る教会時代の信者たちです。そのための訓練期間が、現在の信仰生活なのです。
黙示録2:26~27ー勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。
彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを*治める。(*牧する)わたし
自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。
*実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます…『御霊の実』を結ぶ者には、刈り込み(試練という訓練を与え)、もっと多くの実を結ぶようにと導かれるのです。
ヨハネ15:3ーあなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。
この『ぶどうの木の譬え』が話されたのは、十字架にかかる前日、最後の晩餐の席においてです。
私たちは聖書を読むとき、つい、誰が、誰に、どのような背景の中で語られたのかを忘れてしまいますが、実はそれを確認することはとても大事なことなのです。
この時、すでにイエスを裏切るためにイスカリオテ・ユダは席を外していました。
ヨハネ13:31aーユダが出て行ったとき、イエスは言われた。
ここからイエスの話が始まるのです。つまり、イエスは御元に残された十一人の弟子たちに向かってこの譬えを語っています。その彼らに「あなたがたは…もうきよいのです。」と言われました。
*わたしがあなたがたに話したことばによって…彼らはイエスが話されるひとつひとつのことばに全身全霊を傾けて聞いていました。それが『神の口から出るひとつひとつのことばによって生きる』ということであり、『いのちのパン』を食するということです。
マタイ4:4ーイエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」
十一人の弟子たちは、そのイエスのことばを『信じた』ので、信仰によりきよめられていました。
ヨハネ15:4ーわたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
*わたし…神のことばであるイエスのこと。
ヨハネ1:1ー初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
ヨハネ1:14ーことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
*とどまりなさい…神のみことばにとどまること。 みことば抜きに『御霊の実』は結べないからです。
*わたしも、あなたがたの中にとどまります…内住の三位一体の神との親しい交わり。
ヨハネ14:16~17aーわたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。
その方は、真理の御霊です。
ヨハネ14:23ーイエスは彼に答えられた。「だれでも、わたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。
ヨハネ15:5ーわたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
ここでも繰り返し、主イエスはご自分の『ことば』にとどまるようにと勧めておられます。
*何もすることができない…人は自力で御国の働きをすることはできません。
たとえ、それが人の目には素晴らしい働きのように見えても、キリストを信じ、みことばに聞き従った結果の働きでなければ、カインのように『自分の決めた方法、自分が良いと思う方法でやっている』に過ぎないからです。
ヨハネ15:6ーだれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。
*わたしにとどまっていなければ… 『自分の決めた方法、自分が良いと思う方法』でした行いは、どこまでやっても神の目には『肉の行いの実』としてしか見てもらえません。
*投げ捨てられ…御国では『肉の行いの実』は何の役にも立たない不用品となります。不要な『実』は、投げ捨てられ、集められ、燃やされるのです。
『信者本人が』ではないことに注意してくださいね。
これは『携挙』直後の『キリストの御座の裁き』での、信者の信仰生活の決算報告においてなされることです。肉の行いの実しか結べなかった信者であっても、信仰の土台が『キリスト』にあるなら、『その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。』と約束されています。1コリント3:10~15参照
ヨハネ15:7ーあなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。
*何でもあなたがたのほしいものを求めなさい…よく祈るクリスチャンは多いでしょう。しかし、その祈りの内容は『キリストのことばにとどまったもの』でしょうか?
ここでは『わたしのことばがあなたがたにとどまるなら』と条件が書かれています。
みことばを無視した『個人的願い事』のショッピングリストのような祈りではなく、みことばの約束に立ち、その約束が成就するために必要なものは何かを考えて祈ることを、主は教えられているのです。
「祈りがきかれない」と言う方は、一度立ち止まって、自分の祈りを吟味してみる必要があるかもしれませんね。
ヨハネ15:8ーあなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。
*わたしの弟子…弟子とは『師』に習う者です。『師』の教えを無視することはできません。
クリスチャン/キリスト者は、キリストに習う者となったのですから、キリストの教えに聞き従うことが求められます。
あなたはどの程度、聖書を読み、みことばを学ぶことに時間を使っていますか?
祈るとき、しっかりとみことばの約束の上に立って祈っていますか?
御国で相続地が与えられるように、しっかりとした『弟子』として、日々信仰の歩みができますように。