サザエのお裾分け

聖書を字義通り&文脈に沿って学び、理解したことの中からのお裾分け。内容は鵜呑みにせず、必ずご自分で聖書を開いて確認してくださいね。聖書理解の助けになれば幸いです。† 栄光在主 †

ヘブル人への手紙 5:11~14 〜停滞の事実・霊的幼子・信仰の後退〜

【第三の警告】

ヘブル5:11~6:20は、【成熟(聖化)しない危険性への警告】が記されています。

 

キリストの福音を信じた者は、神によって啓示された真理を吸収すると、御霊の実を結んでいきます。しかし、学んだことだけに満足していると、停滞し危険です。一度、停滞してしまうと、その位置に留まることはできず、気づかない間に後退してしまうからです。

 

キリストの福音を信じて『救い』を得るというスタートはみな同じです 。

信じたばかりの『霊的幼子』は、みことばに対する飢え渇きを持っており、「もっと主イエスを知りたい」と願っています。

しかし、成熟せずに停滞してしまった信者は、みことばに対する飢え渇きを覚えることなく『肉に属する信者』となってしまう危険性があります。傍目には、不(未)信者と何ら変わりない生活をしている状態であり、信者であることを証明する術がありません。

 

ヘブル書の受取人/読者たちは、まさにそのような状態にありました。

5:11~14で著者は、受取人/読者たちが抱えていた霊的問題の事実を指摘しています。

 

 

ヘブル5:11ーこの方について、私たちは話すべきことをたくさん持っていますが、あなたがたの耳が鈍くなっているため、説き明かすことが困難です。

 

*この方について…『イエス』のことではなく、5:10『メルキゼデクとその位』について。

著者はこのことについて多くのことを教えたかったけれど、この教えは『乳』ではなく『堅い食物』の部類に属するものでした。

ヘブル書の受取人/読者たちが霊的に停滞し、未熟でいることによって、著者は彼らに『メルキゼデクの位』について話をしても、理解できないだろうという懸念を持っていました。

そのため、著者はこの話を一旦横に置き、ここから読者たちを叱責しています。そして、ヘブル7章で再び『メルキゼデクの位』について取り扱うことにしました。

 

*解き明かすことが困難です…受取人/読者たちの『耳が鈍くなっているため』 、著者が扱おうとしているテーマは彼らには解釈するのが難しいものでした。

 

*耳が鈍くなっているため…読者たちの霊的状態が『鈍い』ため、著者はここで『メルキゼデクの祭司職』について話すことは困難だと判断しました。

『鈍く』ギリシャ語:『気力のない』の意。聞く時に、怠け者で停滞している様子を表現している。

 

ここでの『信者の責務』は、

すべての信者が『解き明かすことが困難』な内容をも、敏感に聞き、理解できるように霊的に成長すること!

すべての信者は、聖書の深い教えを扱うことができるように成長するべきだということ!

 

 

ヘブル5:12ーあなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。

 

 *あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず…受取人/読者たちは、信者になって間もない『霊的幼子』ではありませんでした。

 

信仰歴が浅ければ、霊的理解力が乏しいことは言い訳できます。すべての信者は、信仰に入ると『霊的幼子』からスタートし、みことばの乳を飲むように教えられます。

 

1ペテロ2:2ー生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。*それによって成長し、救いを得るためです。

※_部:正訳『救いの中で成長し、完全な者となるためです。』

 

ヘブル書の受取人/読者たちは、救われてから長い年数が経過し、この手紙を受け取る頃には『教師』として教える側に立つべき人々でした。

 

すべての信者に『教える賜物』が与えられているわけではありません。

1コリント12:29ーみなが使徒でしょうか。みなが預言者でしょうか。みなが教師でしょうか。みなが奇蹟を行なう者でしょうか。 

 

しかし、程度の差こそあれ、すべての信者が1対1でもみことばを教えられるようになることが期待されているのです。

 

*神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要がある…これが、ヘブル書の受取人/読者たちの霊的状態でした。信仰のイロハを再教育される必要のある人々だったのです。

 

*堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています…堅い食物に属する『メルキゼデクの位』についての教えではなく、もっと基本的な『みことばの乳』を必要とする状態になっていたということ。

 

『堅い食物』…より高度な教えの真理とその適用のこと。

『みことばの乳』…信仰の初歩、聖書のイロハのこと。

 

『なっています』…受取人/読者たちは『常に』こうだったのではなく、『信仰の後退状態に陥っていた』ということ。

信者は霊的に前進しなくなると、必ず後退してしまいます。

そうならないためにも、信者はみことばを再教育されるのではなく、かえって『教える』ことができるように、日々霊的に成長し続けることが重要です。

 

 

ヘブル5:13ーまだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。

 

*乳ばかり飲んでいるような者…キリストの福音(1コリント15:3~4)を信じ、救われてから、霊的に成長せず、いつまでも『神の愛』を受けるだけの初歩的な教えのみに留まり、与えられた知識を実践的に活かさずにいる者は、『肉に属する信仰』のままだということ。

 

生まれたばかりの赤ん坊は、両親の愛を一身に受けて成長していきます。しかし、成長とともに善悪を教えられ、悪いことをした時には懲らしめられ、躾けられます。それにより、自分でも善悪を事前に判断できるようにとなっていきます。

 

霊的成長にも同じことが言えます。

みことばをただ『読む』だけで、書かれている内容を理解しなければ、適用することはできません。

信者が学んだことを適用していないのなら、『霊的幼子』の状態から進歩してはいないのです。

書かれた内容を理解するには、『みことばの学び』は必要不可欠です。

 

学んだ内容は、『使う』『失う』かの二つに一つです。

 

ヘブル書の受取人/読者たちは、メシアが最後のいけにえ、神の小羊であることを『知って』いました。しかし、再びささげ物やメシアの『影・型』であるユダヤ教の教えに回帰しても問題はないと勝手に考えていました。

 

この問題点は、知識の欠如ではなく、『知識を実生活に適用できていない』ことです。

彼らは、『正しいこと』と 『正しくないこと』とを見極めるために、どのようにみことばを適用すべきかを学ぶ必要がありました。

ここで教えられている『信者の責務』は、聖書の教えに関する諸々の問題を解決するために、みことばを適用する技術を使うことなのです。

 

 

ヘブル5:14ーしかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。

 

*堅い食物はおとなの物であって…成長した『大人』が何でも食べれるように、霊的に成長した信者もみことばの食物制限なく、『堅い食物』を食することができます。

『おとな』ギリシャ語:『目標』を意味。

霊的に成長した信者は、霊的生活における目標を達成し、学んだ内容を適用し、さらに多くのことを学ぶ準備ができています。

 

*経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たち…霊的成熟は、このような人々の注意深い『訓練』の結果なのです。

成熟した信者には、責任ある決断を下す能力が備わっています。

 

 

私たちもしっかりとみことばを学び、内容を理解し、日々の生活に適用し、霊的な成熟を目指して信仰の歩みをしていけますように。