ヘブル人への手紙の受取人たちは、直接イエスから宣教された人々からの伝道によって信仰を持った人々です。せっかくメシアを信じて、すべての罪を取り除かれ、たましいの救いを得たにもかかわらず、迫害の厳しさにユダヤ教に回帰しようという思いに囚われていました。
そんな彼らに向けてヘブル書の著者は、【五つの警告】を記しています。
・第一の警告…ヘブル2:1~4
・第二の警告…ヘブル3:7~4:13
・第三の警告…ヘブル10:19~25
・第四の警告…ヘブル10:26~39
・第五の警告…ヘブル12:1~11
その最初の警告がこの箇所です。
ユダヤ人たちは御使いの存在を大切にしてきました。
著者は、その『御使いたち』と『御子イエス』を比較し、御子の方が優れていることを1章で示しました。そのことをベースにここでは『信仰からの漂流』について警告を発しています。
⑴ 押し流されることへの警告
ヘブル2:1ーですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。
*ですから… 既に語った真理を適用するための接続詞。ここでは1章の内容『イエスは御使いに勝ったお方である』ということ。
『御使いよりも優れたお方である御子イエスだからこそ』の意。
*押し流され…ギリシャ語:『錨に繋がれた船が切り離され、漂流する』という意味。
または『滑り落ちる』『風に流れていく』『記憶が失われる』などの意。
私たちは『祈らなくなる時』『聖書を読まなくなる時』『他のクリスチャンとの交わりをしなくなる時』『礼拝に行かなくなる時』、押し流される危険があります。
『押し流される』ということは、立ち止まった地点に滞在し続けることはできず、必ず信仰的に『後退』してしまいます。
私たちは少しずつでも前進し、霊的に成長し続ける必要があるのです。
*私たちは聞いたことを…この書簡の受取人たちが既に『知らされていた教理』。
ガラテヤ3:19ーでは、律法とは何でしょうか。それは約束をお受けになった、この子孫が来られるときまで、違反を示すためにつけ加えられたもので、御使いたちを通して仲介者の手で定められたのです。
*この子孫…神の御子イエス・キリスト。
*仲介者…モーセ。613あるモーセの律法は、御使いたちを通して与えられたのです。
御子は御使いたちに勝るため、御子を通して啓示されたことは、御使いたちを通して与えられた啓示よりも重い責務を受取人たちに与えます。
その啓示に無関心でいることに対しては、さらに重い裁きが下ることになるのです。
*聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないように…著者は、ヘブル書の受取人/読者たちが『学んだことから漂流し、記憶を失くし、滑り落ちてはならない』と警告しているのです。
ヘブル2:2ーもし、御使いたちを通して語られたみことばでさえ、堅く立てられて動くことがなく、すべての違反と不従順が当然の処罰を受けたとすれば、
*御使いたちを通して語られたみことば…モーセの律法。
使徒7:53ーあなたがたは、御使いたちによって定められた律法を受けたが、それを守ったことはありません。
旧約聖書の『律法』の中には、『モーセが御使いを通して律法を受けた』という明確な記述はありません。新約聖書にのみ明らかにされていることです。cf:使徒7:53, ガラテヤ3:19, ヘブル2:2
使徒7:53では著者ルカによって、 ガラテヤ3:19では使徒パウロによって、そしてヘブル2:2ではヘブル書の著者によって、三人によって確証されています。
聖書では、ふたりか三人の証言で有効とみなされます。
申命記19:15bー二人の証人の証言、または三人の証言によって、そのことは立証されなければならない。
マタイ18:16bーふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。
Ⅱ ペテロ1:21ーなぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。
*堅く立てられ動くことがなく…ギリシャ語の文法上『御使いたちによって語られたみことば』の内容が真実であることが想定されています。
神は、モーセの律法を含めて啓示を付与する際に、御使いたちを用いられました。
黙示録1:1ーイエス・キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをヨハネにお告げになった。
黙示録の啓示は、神→キリスト→御使い→使徒ヨハネを通して与えられました。
そしてその啓示のみことばが堅く立てられたのだとしたら、御使いたちよりも優れた存在である御子によって与えられた啓示はどれほど真実でしょうか。
御使いたちを通して与えられた律法の下で犯したすべての罪は、当然の処罰を受けました。ここでの処罰は『肉体の処罰』でした。
例)レビ記10章…アロンの二人の息子、ナダブとアビフが不適切な香を焚き、モーセの律法に従わなかったため、彼らは肉体的に打たれて死にました。
民数記16章…コラ、ダタン、アビラムの三人が、大祭司としてのアロンの権威に逆らいました。その結果、神は地の口を開け、彼らとその家族を飲み込ませて裁きを下されました。
ヨシュア記7章…アカンが律法に背き、石打ちの刑に処せられました。
このように御使いたちを経て、神がモーセに与えた律法の下、従わなかった者たちは皆当然の肉体的処罰を受けました。だとするならば、ヘブル書の受取人/読者たちが、御子を通して与えられた『救い』をないがしろにした場合、どれほどの処罰を受けるのでしょうか?…と、著者は述べているのです。
ヘブル2:3ー私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、どうしてのがれることができましょう。この救いは最初主によって語られ、それを聞いた人たちが、確かなものとしてこれを私たちに示し、
*ないがしろ…無関心な態度を持つこと。
すでに持っているものに対して、完全な無関心と信仰が要求することを実行に移すことへの無関心を意味します。
現代の信者もこの傾向が強いのではないでしょうか?
特に、『救い』がゴールだと考えている場合、救われた後の『霊的成長/信仰的成長』をないがしろにしてしまいがちになるのではないかと危惧しています。
また、最近ではみことばの学びをないがしろにするような教えがはびこっていることも、大いに問題だと思います。
このヘブル書の受取人たちは救いを与えられていましたが、それに無関心になりつつありました。神様は、信者が受けた救いについて、無関心になることを許容されたりなさいません。
受取人たちが、ユダヤ教とレビ的祭儀制度への回帰を検討していたということは、彼らが与えられていた『救い』に対し、無関心になっていたということを意味します。そのため著者は、御子を通して与えられた『救い』をないがしろにした場合、どれほどの処罰をうけるのでしょうかと、問うているのです。
*どうして逃れることができましょう…否定形の答えを期待する質問。
逃れることはできません!
ヘブル12:5~11によれば、それは地上生涯における懲らしめと、来る裁きの中での肉体的死を意味します。
*最初主によって語られ…『福音』は、御使いではなく、御子によって宣言されました。
*それを聞いた人たちが確かなものとして…使徒たちは、御子が語ったことばを聞き、継続してそのみことばを真理として宣言していきました。
私たちも『福音』を聞き、信じて救われた者として、『福音の真理』を宣べ伝えていく責任があります。しかし、救いの確信がなければ、その宣教には力がありません。
みことばにより、確信を持つことが大事です。
*これを私たちに示し…著者はここで『イエスの直接の目撃者』から自分自身を省いています。
私たちが従うべきは、御使いを通して語られた『モーセの律法』ではなく、キリストの律法であり、使徒たちが書き記した新約聖書の書簡に書かれた『キリストの教え』の方なのです。
ヘブル2:4ーそのうえ神も、しるしと不思議とさまざまの力あるわざにより、また、みこころに従って聖霊が分け与えてくださる賜物によってあかしされました。
*しるしと不思議とさまざまの力あるわざにより、また、みこころに従って聖霊が分け与えてくださる賜物によって…福音はこれらのものを通して、さらに確かなものとされました。神は、使徒たちのメッセージをこれらのもので確実にされたのです。
それは、彼らが語っている『イエスがメシアであることのしるし』だったのです。
*しるし…神の意志を啓示し、その意図を証言する奇蹟。
*不思議…驚きと注目を引くもの。
*さまざまの力あるわざ…神の力が源。
*賜物…神が与えるもの。
1コリント12:4ーさて、賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。
一般的に『使徒の働き』で、すべての信者があらゆる奇蹟、しるし、不思議を行なっているとよく誤解されますが、それは事実ではありません。
それらを行なっていたのは、使徒たちと使徒たちから直接按手を受け、そのように任命を受けた使節のみでした。
ヘブル書の著者は、しるしや不思議などは、目撃者たちにより行われ、次世代の信者たちによらないことを明確に語っています。
聞いた事だけを鵜呑みにし、間違った教えに惑わされませんように!
必ず聖書を開き、ベレヤのユダヤ人信者たちのようにみことばで確認する癖をつけましょう。現代は羊の皮を被った偽教師が大勢出てきていますから…。